Sat 090613 西麻布に、熊の肉を食べにいく 凝縮されたカタさが肉食系にはたまらない | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sat 090613 西麻布に、熊の肉を食べにいく 凝縮されたカタさが肉食系にはたまらない

 毎日毎日原稿の校正の仕事で疲れてしまい、というより細かい仕事に飽き飽きして、西麻布に熊の肉を食べにいくことにした。熊の肉ばかりではない。イノシシとか、シカとか、キジとか、そういう野生の動物の肉を食べさせる店があるというのである。カッコよく言えば「ジビエ」であり、これを秋田県人が食べると「またぎ」である。もちろん21世紀の秋田ではどんなに山奥に入っても実際に「またぎ」で生きているヒトはいない。むしろ「またぎであること」をステイタスにして、熊の肉を食べるより、肩書きを売り物にして生きている。まあ当たり前のことで、まさか猟銃を手に忠実な秋田犬と助け合いながら、体重何トンもあるような巨大な熊を一冬かけて追いつめ、「老人と海」よろしく、諦めかけた吹雪の晩についに獲物に出会い、獲物に対する畏怖の念に悩みつつもついにこれを倒し、犬とともに熊をひきずって村に帰る途中、彼もまた飢えと寒さの中で感動的な最期を遂げる、熊たちとの壮絶な戦いの日々を夢見ながら吹雪の中で力尽きる、そういう人生が今の日本で可能になるとは思えない。


 秋田の山中を歩き回っても、5kmも行けば高速道路に行きあうだろうし、向こうの「道の駅」で「名物!! いぶりガッコ」だの「あまいあまーい、くるみゆべし」だのが売られ、「幻の逸品!! 横手やきそば」が温かそうに湯気を立てていたのでは、巨大熊に神の存在を見たり、命の重さに畏怖を感じて身体の芯が震えるというような経験も期待できない。要するに21世紀の日本は、壮絶さや壮烈さなどというものを実際に経験するには、余りにも滑稽さに満ちあふれているのである。


 しかし、渋谷からタクシーで10分足らず、代々木上原からでも20分足らず、あっという間に行き着ける西麻布で、熊の肉との壮烈な戦いが経験できそうなのである。店の名前は「またぎ」、六本木ヒルズから徒歩で5分もかからない。和田アキ子が経営する「和田屋」とかいうベタな名前の店の角を左に曲がれば、そこにある。「そこにある」もなにも、余りに真っ正面にありすぎて、かえって見つからないほどである。もっと密やかで、もっと隠れた場所にひっそりとたたずむ風情を求めていくと、私のように見つけそこねて西麻布の静かな住宅街を一周する羽目になる。もっとも、住宅街を一周するうちに夢のように大きなシマ柄の野良猫に遭遇したから、私としては十分満足である。ヒョウのように精悍な顔つきの、おそらくはオスの猫だった。「キミも、熊を食いにいかんか?」と誘えば、「おお、いいですね」と言ってついてきそうないいヤツだった。

 

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(西麻布「またぎ」で。手前が熊の肉、向こう側がイノシシの肉)


 店内には5~6mの長い囲炉裏があって、囲炉裏のまわりに椅子がズラズラ並んでいる。満員になれば20人ぐらいが座れそうだが、今夜の客は我々を入れて5組である。5組のうち2組は囲炉裏ではなくて向こうの個室に入ってしまった。個室は外から見てもイヤになるほど狭い。3人も入れば1人の背中が障子の外にはみ出てしまうようなところに、メタボ気味のオジサン2人と30歳ぐらいのお姉さん2人が詰め込まれて、なんだか怪しい雰囲気である。個室は2つともそういう感じの相似形になっている。囲炉裏のほうは、我々の左側が男女4人組。右側は仕事帰りのサラリーマン2人。さすが西麻布だけあって、客はみんないかにも上品な感じ。デカイ声でバカ話をするヒトもいなければ、他の人の味覚のことも考えずにタバコをスパスパやるような困った喫煙家もいない。


 ただ、上品ならそれでいいわけではない。熊だのイノシシだのシカだのの肉を喰らおうとしている下品きわまりない行動には、上品さにプラスして「いかにも野獣」という豪快な下品さが伴ってしかるべきである。特に、熊は森の食物連鎖の頂点に君臨する獣である。神に対する敬虔さに似たものがなければ、これを喰らうのは似つかわしくない。いかにも先進国の市民という上品過ぎる言葉遣いと遠慮がちな微笑みで熊を喰らうのは、熊に対して失礼である。少なくとも、ワインを一口「いかにもワイン通」という風情で口に含んで、「んんー!!」とか身体をよじっているようでは、この場にふさわしくない。デカイ氷を1個入れたグラスに旨くない焼酎をドバドバ注いで一気に飲み干すか、やっぱり旨くない日本酒を熱燗にしてチビチビやりながら下品に卑屈にイッヒイッヒ笑いながらというのが、正しい熊の食べ方である。


 熊の肉は赤くてカタい。夢のようにカタい。さすが食物連鎖の頂点である。これをよくよく焼いて、焼けば焼くほどガンガンにカタくなった肉を、行者ニンニク味噌にからめて口に入れる。口に入れても「やわらかーい」「あああっ、とけちゃった」とか、そういう予算を抑えたグルメ番組みたいなバカバカしいことには決してならない。やわらかくもないし、とけちゃったりもしない。いくら噛んでもなくならないし、いくら噛んでもとけちゃったりしない。森の全ての生き物たちの叫びがこの1枚に詰め込まれて、噛めば噛むほど味は濃くなり、3分でも5分でも噛み続けて、アゴが痺れるほど噛んだ頃に味の絶頂がおとずれる。


 ようやく飲み込んだ時に、「自分は長い間こういう肉を求めていたのだ」と実感する。これに比べれば、高級焼肉店で食べる高級和牛なんか「ナマ焼けのアブラ肉」に過ぎない。安いグルメ番組の氾濫のおかげで、ナマヌルいナマ焼けのアブラ肉をありがたがる風潮がひろがり、日本中のグルメ様たちが「んんんんー、とけちゃった」「ああっ、アブラの甘みがお口いっぱいに広がった」「じゅわあっと広がる肉汁の香りがたまらない」「やんわらんかかあーい!!」みたいな絶叫とともに涙目で全身をよじるのが肉の食べ方だと思われるようになってしまったが、そういう押しつけがましい肉の食べ方はもうヤメにしたほうがいい。

 

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(西麻布「またぎ」。囲炉裏の炭火はホンモノである)


 熊の肉をもう1皿追加する頃には、店のマスターがこっちに目をつけて話しかけてきた。確かに、店内を見回してもこんなに派手に熊を食っている客は皆無である。赤ワインについての蘊蓄を並べつつ、行儀よくおサカナを焼いていたり、キノコ盛り合わせセット、タケノコ盛り合わせセット、とにかくテーブルの上を「私たちは草食系です」という証拠の品でいっぱいにしている。狭い個室の面々が何をやっているかは見えないが、囲炉裏のまわりの他の2組は、キノコを焼いては「んんんんー」、タケノコをかじっては「んんんんー」、ワインを傾けては「しっかりとした酸味の中にも、太陽の恵みとフルーツの爽やかさがマッチ」とか、そういうことに夢中のご様子。熊はおろか、イノシシもシカも、そういう野蛮なものを焼いて食おうとする様子はない。キノコとタケノコとお魚を焼いて、連れの「知人女性」に混浴温泉の話をして、まあちょっと口説いてみよう、そういうことらしい。


 この状況でマスターがこちらに目をつけたのは当然である。自身クマのような男が、次々と熊を注文して、森の命の濃厚に詰まったカタい肉を次から次へと噛み尽くし味わい尽くしているとすれば、マスターとして声をかけないわけにはいかないはずだ。「どうですか?」と声をかけてきたマスターは60歳手前の白ヒゲのオジサン。豪快な笑顔と豪快な話し方は、彼もまたどうやら熊のような人間である。彼によれば、熊はヒグマ、増えすぎて駆除の対象となった熊の肉を出している。「1度食べたら、ナマ焼けの牛のアブラ肉なんか、もう食べられませんよね、胸焼けするし、アブラで頭が痛くなるし」、そういう点でもすっかり意見が一致した。イノシシは少しアブラが多くて胃にもたれたが、熊はとにかく旨かった。1時間半ほど座っていて、久しぶりに「もう食べられん」と呟くほど肉を食べた。