Sat090523キライなCM「BSハタチ、ドキドキ」「どん、つけ!!」1人称を和訳しないライ麦 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sat090523キライなCM「BSハタチ、ドキドキ」「どん、つけ!!」1人称を和訳しないライ麦

 というわけで(昨日からの続きが、今日もまた続く)、今でも「東京電力、for you!!」というCMを見ると虫酸が走る。キライなCMは他にもあって、NHKの「BS、ハタチ、ドキ、ドキ」については、とにかく出来るだけ早く(出来れば今日でも明日でも)放映をヤメてほしいし、あまりに嫌いすぎて、何時何分何十秒、どんなタイミングで入ってくるかも把握しているから、CM(というより、正確には番宣)が入るタイミングで画面から目も耳もしっかりそらしている。何なんだ、あの脂っこい女の子たちの、脂の浮かんだ媚びるようなイヤらしい笑顔は。何なんだ、アゴに添えた両手の、ダイズのフタバのような不自然な格好は。うお。うおうおうお。

 

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(ナデシコによる「まっすぐ」の表現 1)


 シマダヤだったかエバラだったか永谷園だったか、「うどんつけ麺」も出来れば見たくない。どういうコンセプトかサッパリ分からないが、おそらく20代前半と思われる男子数人の声で、「どん、つけ。どん、つけ。どんどん、つけつけ。どん、つけ」と囃し立てられ、その声とともに俳優が「うどんつけ麺」なるものをすすりこんで、痛そうに顔をしわしわに歪めるのである。そんなに周囲にうるさく囃し立てられながら、痛そうな顔をして食べなければいけないなら、最初からもっと旨いものを食べればいい。囃されなくても、顔をしかめなくても、落ち着いて静かに味わえる旨いうどんなら、いくらでもある。何の因果で「どんつけ、どんつけ」喚かれながら痛そうに食べなければならないのか、「いいから静かに食え!!」と怒鳴りかえしてやりたくなる。

 

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(ナデシコによる「まっすぐ」の表現 2)


 こうまで何にでも文句をつけ、何にでも噛みつき、または不満を延々と言い続けるのは、我々の世代の特徴なのかもしれない。何しろ「ライ麦畑」を読んで育った世代、見るもの聞くものすべてに対して、主人公Holdenが延々と呟き続ける不平不満を読みながら、感動したり、快哉を叫んだり、恍惚としたり、そうやって大人になった世代である。いま20歳代と30歳代の境目にいる人間と「ライ麦畑」について話したことがあるが、最初のほうを40ページか50ページ読んでウンザリしてしまい、「ずいぶん文句ばかりの人ですね」と言って投げ出しそうになっていた。どうもこの辺に世代間のギャップがあるらしい。ただ、この人物の「文句バッカリだ」という反応は意外に正しいので、小説の最終盤、小学校中学年の妹Phoebeが「1つでいいから大好きなものを言ってみなさいよ」と問いつめるのと、ほぼ同じ反応なのだ。

 

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(ナデシコによる「まっすぐ」の表現 3)


 まあ、古い小説だ。訳すのも難しいだろう。英語で読めばいいだけの話だが、さすがに野崎孝の訳では古すぎて、30歳代から下の人間には読みにくいだろう。いくら何でも、「やっこさん」じゃねえ。もし誰かが新訳に挑むなら、一人称Iをどう訳すかがポイントになるような気がする。「ボク」「僕」はしっくり来なくて当たり前。今の17~8歳の男子が「ボク」だの「僕」だので延々と独白を続けるとは思えない。「チョーキモくナイ?」と罵声を浴びるのが関の山である。「オレ」もダメ。「ワシ」ではバカげすぎ。あえて複数形にして「ウチら」「オレら」ではどうか。もちろんアウト。村上春樹は「僕」を採用したようだ(済みません、訳は読んでません)が、苦渋の決断だったのではないかという気がする。

 

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(特製和菓子・とらロール)


 「一番いいのは一人称Iの訳をすべて省くことではないか」とも思う。もともと独白体なのだ。独白なら「僕」とも「私」とも明示する必要はない。誰か、「英米文学界における亀山郁夫教授」が現れて、一人称を使わない超新訳を作ってもらいたい。それだけで十分に超新訳ぽくなるから、それ以上のムダな努力をしないこと。落語の文体でとか、ヒップホップ調でとか、そういうことをすると、ただ単にムダというばかりでなく、何しろ大ファンを超えた信者がいまだにいくらでもいる小説だ。「冒涜した」とか罵られて、恐ろしいことになりかねない。

1E(Cd) Richter & Borodin Quartet:SCHUBERT/”TROUT” “WANDERER”
2E(Cd) Harnoncourt:BEETHOVEN/OVERTURES
5D(DvMv) CRUEL INTENTIONS
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