Sun 090517 「晴耕雨読の生活」の実態について 早朝に帰った日の「松和荘ごもり」 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 090517 「晴耕雨読の生活」の実態について 早朝に帰った日の「松和荘ごもり」

 こういう記憶は(昨日の続きです)、実際よりも誇張されていることが多い。記憶としては「毎日そういうふうだった」と思うのだが、冷静に考えてみれば、実際には1週間のうち3日か4日、もっと少なかった可能性もなくはない。「晴耕雨読」というときと同じである。晴れた日には畑を耕し、雨が降れば「耕す」ことはできないから、部屋で静かに読書する。そういう理想郷があって、マンガなんかで描かれるときには、雨音の響く縁側に出した文机に、4冊も5冊も分厚い本が積み上げられたりしているものだ。しかし現実にそういう生活をやってみると、「雨の日なんか滅多にない」ことに初めて気がつく。晴れの日1週間に対して、雨の日1日ぐらいがせいぜいで、雨の多い季節でもないかぎり、読書は一向に進まない。ましてや「1日中雨」となどという、「読に恵まれた日」は少ない。明け方に雨が降って「おお、今日は『読』で行くぞ」と意気込んでいると、午前の早い時間には雨はすっかり上がって、明るく輝かしい陽がさんさんと差してくる。そうなれば、建前上どうしても「耕」でなければならない。方針をねじまげるのは間違っている。そういうふうで、実際には「耕」ばかりで、「読」はほとんどできないのだ。マンガみたいに、分厚い本を4冊も5冊も積み上げたりなんかしたら、(あくまで私の感じとしては)丸々1年かかっても読破できそうにない。

 

1298
(ラジオ体操)


 さて、またまたお馴染み、「どこまでも話はそれていく」。この何日かにわたって書いたように朝から夜9時まで図書館にこもって、自分の意識としては「図書館のヌシ」になり、夜から深夜または早朝にかけて酒に浸っていたのは、おそらく週に3日程度。残りの3~4日は松和荘にこもって、むしろ「松和荘のヌシ」になっていたことになる。特に前夜の飲み会が「早朝まで」になり、始発で北松戸に帰ってきた場合はそうである。マジメに生きている通勤通学の人々におかしな優越感を感じながら、まだ缶ビールを買ったり、不二家ピーチネクターを自動販売機から引っぱり出し、自動販売機の足もとに10円玉1コを発見して大喜びで帰ってきたり、そういうミジメな朝は、部屋に転がり込んだ途端にミジメさが頂点に達する。

 

1299
(ラジオ体操・拡大図)


 「もうどうなってもかまわない」「マジメに成績表に優を並べても、何にもならない」「そんな優等生になって、コネで就職して、何の自慢になるんだ」というのが、ミジメさの絶頂での開き直りである。もちろんわずかに残った昨夜の酒の酔いに、最後の缶ビール1本の酔いが加わった、変な勇敢さもある。別に就職とか、大学院進学とか、ゼミの発表とか、そんなことのために生きているのではない。「政治学科には所属しているけれども、もともと政治学なんかどうでもいいのだ、自分はおそらく確実にまもなく作家になるのであって、それなら、朝6時に部屋に帰って、それでもまだ缶ビールをグビグビやっている姿のほうが相応しいはずだ」。今考えればたいへん不思議なそういう確信があって、朝8時頃まで何とか目を開けて、部屋の中で一人、空威張りしていたものである。

 

1300
(新聞の上でもラジオ体操)


 ついこの間書いた通り、その当時部屋に届けられる新聞は、毎日新聞。缶ビールまたは不二家ピーチネクターをすすりながら、朝の1~2時間ほど新聞をペラーリペラーリめくり、掲載された写真の修整ぶりに腹を立て、園児の手を引く母親たちの騒々しい声に腹を立て、とにかくヤタラに腹ばかり立てて、とうとう布団に潜り込む。後は、前後不覚である。外でカラスの激しくなく声に目覚めれば、陽は西に大きく傾いて、光はすでに赤みを帯び、時計は4時か5時を指している。そういう1日も少なくはなかったはずである。

 

1301
(ラジオ体操第2拡大図)


           
1E(Cd) Alban Berg:
BRAHMS/KLARINETTENQUINTETT & STREICHQUINTETT
2E(Cd) Alban Berg:SCHUBERT/STRING QUARTETS 12 & 15
3E(Cd) Baumann:MOZART/THE 4 HORN CONCERTOS
4E(Cd) Solti & Wiener:MOZART/GROßE MESSE
5E(Cd) Rilling:MOZART/REQUIEM
8D(DvMv) A DESTINY OF HER OWN
total m49 y642 d2885