Fri 090515 「自分らしく」「私らしく」について 図書館の自販機コーナー 図書館病蔓延 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Fri 090515 「自分らしく」「私らしく」について 図書館の自販機コーナー 図書館病蔓延

 もちろん昨日書いたことは(ということは、当然またまた昨日の続きです)、「自分らしく」みたいなオシャレな生き方のススメではない。「自分らしく」とか「私らしく」という言葉が大嫌いで、その言葉を聞いただけで激怒して(いわゆる「キレる」というヤツか)怒鳴りまくるという人物の話を聞いたことがあるが、さすがにそこまで極端でないにしても、私もやっぱり「私らしく」「自分らしく」にはちょっとした嫌悪感がある。個人差があるだろうが、「私らしく」といわれるとどうしても「それは努力の放棄のことなんじゃないか」と思ってしまうのだ。「無理しない」「がんばらない」「自分らしくないことはしない」らしいのだが、自分としてはその一族になりたくない。どんどん無理をして、どんどん頑張って、どんどん変化していって、そういうのが好きな人間だから、努力や変化を志向しない生き方を「単なる怠惰」「努力の放棄」「怖がりすぎ」と感じるのは、仕方がないことだ。


 「みんなと同じ」に対する嫌悪感も、あくまで個人的な趣味だから、同じように仕方のないことである。「図書館にこもる」などという、20世紀的な行動、19世紀的な教養主義、それで羽が黄色くなった、羽に模様がついた、「あ」「お」と声をかけられた(このあたりはすべて昨日の続きです)、その程度のことで嬉しがっているんじゃ、バカみたいだ、というより単にバカだ、ということはよくわかっていても、大学の学部時代にしかできないそういうことを、一度やってみたら楽しいんじゃないか、少なくとも大学に入ってすぐに大学に失望した人は、試してみるのも悪くないんじゃないか、そう考えるのである。


 私がやったような、風呂敷包みにコロンボコート、万年筆に武村さんメガネ、教科書はもたずに英語でノート、そこまで行けば明らかにアホであって、「羽に模様がつきすぎて汚い蛾になっちゃった」、「蛾になっちゃって夜しか飛べないよ」、というのは確かに哀れ、確かに滑稽である。しかし、図書館にこもって専門科目の本を朝から晩まで読みふけり、時間が来れば教室に向かい、授業が終わり友人とのつきあいが終われば図書館に戻り、再び夜9時までページをめくる、そういう生活は悪くない。試してみる価値は十分にあるだろう。

 

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(飼い主がバカで、困ります)


 「専門科目の本」などと言っても、学部時代に読む本なんか、そんなにこだわる必要はないのだ。大学院に進んで、ドクターコースの恐いお兄さんたち(というよりオジサンたち)や、恐いお姉さんたち(というより…)に一挙手一投足ツベコベ叱られ、何かと言えば「そんな粗雑な問題の立て方でいいのか?」「発言の論理構成が稚拙なんじゃないか?」の一言でポイッとゴミ箱行き、罵声がコワくてなかなか教授に声をかけられない、そんなことになる前のパラダイスが学部の4年間である。普通に就職する人は、上記大学院生活のうち、お兄さんを「主任クラス」、お姉さんを「お局サマ」、教授を「部長」に置き換えれば、全く同じことになる。


 どんな幼稚なことを言っても、笑って許してもらえる最後のパラダイス。3年か4年になって「卒業論文」ということになると、さすがに「立てるべき問題」を局限され、「そんなに小さなテーマで書かなきゃいけないの?」と家族やカノジョやカレシがビックリするほどテーマを小さくされてしまうことが多いが、それ以外のところでは天真爛漫に振る舞うことが許されるのだ。岩波新書5冊読んで、それだけのことでそのテーマについて専門家のつもりでそっくりかえっていても、別に誰にも叱られない。教授だって「おお、なかなかよく勉強しているね」とほめてくれる。「シェイクスピアは、全作品読破しました」と発言しても、たとえそれが原書ではなく小田島雄志の翻訳でであっても、教授はほめるは、友人たちはほめそやすは、鼻高々になってもいいのだ。


 ポイッとゴミ箱行きの恐怖なしに過ごせるなら、とりあえずそんなところから始めるといい。入門書を1冊か2冊読んで、その後も入門書ばかり読んでいれば飽き飽きしてくるから、入門書の参考文献欄からピックアップした専門書なり雑誌記事なりを借り出して、机の上に広げてみると、それだけで何だか急に自分が偉くなったように感じるものだし、知の殿堂に踏み込んだ実感で踊り出したくなるものである。少なくとも1年生なら、昨年の今頃は書店の学習参考書コーナーで「古文読解のスーパーテクニック」「決めてやる!! 物理最新ハンドブック」「コレだ!! 英語はもらった」みたいなタイトルの情けない学習参考書を広げては、予備校の友人たちと大騒ぎしていたのだ。それなのに今目の前にあるのは専門雑誌の論文で、全然読めないにしても、冷やかしにきた友人が一目見て「負けた」という顔をする。それが嬉しくてまた図書館にこもる。やがて「図書館のヌシ」と呼ばれる、また楽しくて、また嬉しい。

 

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(飼い主がしつこくて、困ります)


 この種の生活をバカにしたり批判したりするのは実に簡単である。モンシロチョウ仲間がやってきて、「お前、羽が黄色くなってきたけど、大丈夫か? 今どき羽が黄色いのは流行じゃないぞ。マジ、ヤバくない?」と言うだけのことだ。まあ、そういう時は、その友人とコーヒーを飲みにいくといい。ただしあなたはもうモンシロチョウではないのだから「スタバ」「タリーズ」「エクセルシオール」の類いは厳禁。むかし「ドトール」などというのもあったような気がするが、「ドトール」は「スーパーミラノ」などという下らないものを販売しているので、これも厳禁。何なんだ、「スーパーミラノ」ってのは。「マック」「ファーストキッチン」なども、あまり知的でないから禁止。「ファーストキッチン」は、「ミネストローネ」を注文するといつでも「10分ほどお時間かかりますが?」だから、大嫌いである。


 行くべき場所は、図書館の地下の自動販売機コーナーである。100円玉1コで流れ出てくるマズいコーヒーを、友人と立ったまま、マズそうにすすりたまえ。昔は「砂糖増量ボタン」「クリーム増量ボタン」などというのがあったが、今もまだあるとしても、そういう軟弱なものをけっして「増量」なんかしないこと。マズく、苦く、熱いコーヒーを、図書館の喫茶コーナーの慌ただしいざわめきの中ですすりながら、図書館のヌシの生活に批判的または懐疑的な友人の顔を黙ってじっと覗き込みたまえ。それだけのことで、彼の心の中にも、おなじような図書館に対する憧れが芽生え、批判の雲も懐疑の霧もたちどころに消え去り、翌週には彼もまた、彼女もまた、慣れない図書館で、慣れない書物を繙き、あたかも新興宗教のごとく図書館病がクラスに蔓延しかねない勢いになる。その蔓延の勢いは、モンシロチョウマスクで水際作戦なんかしても、防ぎきれるものではないかもしれないのだ。