Thu 090514 モンシロチョウとモンキチョウ ちょっとした化け物になる快感 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 090514 モンシロチョウとモンキチョウ ちょっとした化け物になる快感

 話はどんどんそれてしまうが(前回の続きです)、だからこそ学部生のうちに図書館にこもって、4年で読めるだけの古典を読むのは悪くないと思うのだ。あくまでちょっと変わったオジサンの、暢気でバカげた発言として読んでくれていいのだが、モンシロチョウやスズメになって生きていくのは、あまり楽しいことではない。ヒョウやハクチョウとまで欲張らなくても、もうちょっとだけ変わった生物、「なあんだ、ハトか」ではなくて「おっ、アヒルだ」「あれって、アオスジアゲハ?」と驚かれるような生き物、そうなるほうが生き甲斐を感じないであろうか。イネ科の雑草ではなかなか見向きもされないが、ちょっと努力してイヌフグリやヒメオオバコになるとか、少し背伸びしてヒメジョオンになるとか、その程度で、結構「おっ」という声が上がるはずだ。


 「英語」「シューカツ」「パソコン」で「コミュニケーション能力」を育ててそれを武器に生きていく、それも確かに素晴らしいが、「モンシロチョウは飛べるんだ」ということにすぎない。せめてモンキチョウになって、「おっ」「あ」という小さな驚きの声が上がるのを気持ちよく感じながら生きるのは悪くない。個性などというのはその程度のことであって、それ以上難しいことではない。


 「大学の学部時代、何やってましたか」と聞かれて、「英語」「シューカツ」「サークル」「バイト」「ケータイ」では、やはりモンシロチョウで終わり。しかし「図書館にこもってマルクス読んでました」「近松の文献、図書館でいろいろ漁ってました」と来ると、コイツはおそらく化け物である。化け物というのは、いい意味でも悪い意味でもあって、それを嫌う人は当然いる。ある種の人々には嫌われて当然であって、「みんなに好かれる化け物」では概念矛盾である。ところが、好かれないにしても、少なくとも息をのむか唖然とするか、あるいは憮然として「あ」と一言出るとすれば、ちゃんと親に名前をもらって生きてきただけの価値があることだけは確認できるはずだ。


 もちろんそれはモンシロチョウよりモンキチョウが偉いとか優れているとか、別にそういうことではないし、イネ科の雑草は無価値だがオオバコ君は大したものだとか言っているのでもない。ただ、せっかく生まれてきてせっかく大学に行くなら、「あ」「おっ」と言われるほうが楽しいんじゃないか、ということである。みんなでユニクロを着て、みんなでH&Mに入って、みんなでFOREVER 21に並んで、海外に行けばみんな「斜めがけバック」、みんな同じ帽子、みんな同じ超立体マスクでインフルエンザ防止、そういうモンシロチョウ的な生き方はつまらないのではないか、そう思うだけのことである。


 暢気に観光地を歩いていると、「中国人でも韓国人でもありません、私は日本人です」と宣言したわけでもないのに、欧米人から一目で「明らかに日本人だ」と見抜かれる。「ニーハオ」でも「アンニョンハシムニカ」でもなく、キチンと「コンニチハ」と声をかけられる。一瞬誇らしく感じたりするものだが、私なんかは、逆に屈辱的な思いがかすめることがある。自分のどこに「日本人だ」と一瞬で見抜かれる部分があったのか、自省してみることにしている。

 

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(怠惰な生活)


 若い人々は知らないだろうが、30年も昔、日本がまだ「右肩上がり」だった頃、「ノーキョー」という言葉が海外の観光地で有名に、というより悪名高くなったことがあった。日本人といえば団体旅行、日本人といえば農協・JALパック、日本人といえばバッジだかワッペンだか胸につけ、同じ服装・同じ帽子・同じ顔つきで、30人も40人も一度にレストランにつめこまれ、決められた平凡な料理を黙々と平らげ、ニコニコというよりニヤニヤしながら黙々と去っていく、そういう人々だと理解されていた。今は海外のどこに行っても、かつての「ノーキョー」の役割を中国人観光客が引き継いでくれたせいで、悪名高かった「農協」はほぼ忘れられつつあるようだ。中国の人々は、どこに行っても「黙々と」ではない(というより正反対のバイタリティに溢れている)のと、あまり遠慮がちでないのと、有名な場所でなくても5~6組は必ず見かける、というのが日本人との違いであるが、立場を引き継いでくれたことは間違いない。


 しかしそれでも日本人は相変わらずモンシロチョウ的な生き方が好きである。今回のインフルエンザ騒動やマスク騒動については、もう少し落ち着いてから言及することにするが、パリに行けばルーブル、フィレンツェに行けばウフィツィ、マドリードに行けばプラド、意地でも美術館を訪れなければいけないと思い込んでいる、そういう「何が何でも」という観光の仕方まで、何だかモンシロチョウ的である。普段美術館なんかにいかないオジサンでも、パリに行けばオルセーに出かけて、オジサンとオバサンで「素晴らしいわあ」と絶句して身体をよじっている、その態度までそっくりである。


 新聞に毎日デカデカと出ている「魅惑のパリ7日間」とか「ビジネスクラスで行く花のフィレンツェ・ヴェネツィア1週間」とか「憧れの5つ星ホテルに滞在!! 情熱のスペイン大周遊」とか、そういう広告を見ているとたまに(というより、しょっちゅう)噴き出してしまうことがあるが、「なんでこうまでみんな一緒でないと気が済まないんだ?」である。金沢に行けば「カニ食べ放題」、パリに行けば「ルーブル」。「ルーブル美術館を見学(車窓)」などというのさえある。おお、カッコ車窓、である。みんな同じマスクをしてバスの車窓からみんなでルーブルを見学し、オルセーもマスクで曇ったメガネの陰でバスの車窓から見学し、それで帰ってくる。マスクをしていなければ、またはマスクを批判する人がいれば、寄ってたかって指弾する。それが我々である。

 

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(思索の生活)


 こんなふうに話がそれすぎて、どこまでいっても止め処がないのは、まさに阿呆の特徴というか、阿呆のアイデンティティみたいなものであるが、まあこれは論文でも何でもない、あくまでブログに過ぎないんだから、そのぐらい大目に見るべきである。そういえば、昨日のブログだったか、一昨日だったか、「噴き出す」というところを「吹き出す」という吹き出物みたいな漢字にしてしまったようなイヤな不安感があるが、それもまた「ブログなんだから」で済ませてしまいたい。


 大学に入学して1ヶ月経過して、そろそろみんなと一緒にモンシロチョウかスズメになりかけているんじゃないかと思い当たるような人がいたら、ぜひ「図書館にこもって古典を読みふける」をやってみるべきだ、という主張をしようと考えただけのことである。1~2ヶ月もすれば、「あれれ、羽が黄色くなってきた」「あれれ、羽に奇妙な模様がついた」と自覚するようになり、自覚すれば楽しくなり、周囲が「あ」とか「お」とか唸るようになり、気がつけば5月病の危険も6月病の危機もすでにすべて去ってしまっているはずだ。