Wed 090513 図書館にこもる生活について 「大学院に進む」こと、親、ドクターたち | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Wed 090513 図書館にこもる生活について 「大学院に進む」こと、親、ドクターたち

 そういうふうで(前回の続きです)、「図書館にこもる」という生活は、大学に通った時代は一応機能していた。問題だったのは専門書以外の本に夢中になってしまったことと、友人とのつきあい方の2点である。「終電まで」などというのは可愛らしいもので、「始発が動くまで」が1週間に3日も4日も連続するようであっては、生活は崩壊して当然である。テレビドラマなんかをマジメに見てしまえば、毎日毎晩そういう破天荒なことをしている若者が平気で生きているように誤解しても仕方がないが、実際にキチンとした生活を成り立たせようとすれば、そういうことはせいぜいで1ヶ月に1回、それでも多すぎるぐらいだろう。半年に1回あるかないか、ちゃんと息をして生きていくためには、頻度はそれが限界で、ましてや朝の通勤通学時に道で行き会うマジメな人々に変な優越感をもつような無頼派みたいなのは、生活の芯が狂ってしまっているにすぎない。「そんなことも何度かあったね」だから笑い話にもなるので、「毎晩だったね」ではすでに人生は狂いかけている。
 

 しかし、友人とのつきあい方を自分で常にチェックし、専門書に没頭する生活を続けられるなら、「図書館にこもる」というのは大学学部生としては理想に近いような気がする。これはあくまで昭和の人間としての感想であって、現在の大学の状況は全く変わってしまったのかもしれないが、学部というのはもともと読書して過ごすところである。受験生たちと話していると、大学でやりたいことは「英語」「情報」「シューカツ」あたりに集中するのであるが、そういうのは専門学校か就職予備校ですべきことであって、学部にそれを持ち込むことも期待することも見当ハズレ。期待しても得られるものではないし、期待されたからといって大学が学生にそれを供給するとすれば、それは大学の堕落である。
 

 さすがに「東洋文庫を読みふける」という完全な浮世離れでは困るが、学部の4年間ぐらい、少し浮世離れしてたくさんの古典を読んで過ごすのは素晴らしいことだと考える。法律の古典、心理学の古典、経済学の古典、社会学の古典、理系でも医学でも古典はいくらでも存在する。専門科目の古典を読みふけっていれば、4年はあっという間に過ぎる。4年が過ぎて就職したり、大学院に進んだりすれば、よほど恵まれて立場でも手に入れないかぎり、古典を読む時間は、残念ながら引退するまで皆無になる。

 

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 大学院で「学史」を専攻することに決めれば、その時にだけ「よほど恵まれた立場」が手に入るが、その恵まれた立場はすでに優秀な何人かの先輩によって占拠されていて、学部を卒業したばかりのペーペーの修士課程1年なんかに、その席を譲ってくれることはちょっと考えにくい。すると、「学部生に毛が生えた程度のM1フゼイ」に回ってくるのは、にわかには信じがたいほどの些細な問題、「なんでそんなどうでもいいことの研究に2年も3年も費やさなきゃいけないの」という問題ばかりである。どうしても専攻してみたい大きなテーマがいくらでもあるのに、「キミにはその問題は大きすぎる」「問題の立て方が大雑把、粗雑である」とか言われて、まあ簡単に言えば「重箱の隅」というか、論文を書いても書かなくてもどうでもいい、世界の片隅でお箸が1本転がって2cmか3cm移動したかしないか、その程度の論文を1本書いて修士課程の2年は消えてなくなる。


 理系ならともかく、文系の学生で「大学院に進む」という選択肢を選んだ場合、それはつまり「就職しない」という選択肢なのだから、今の日本ではマトモな生き方とはなかなか認識されない。何と言っても、親の説得という難題が横たわっている。「大学院生」というステイタスに何とない憧れはあっても、自分の息子や自分の娘がその選択肢をつかんでしまうということになれば、親の顔は全く別である。「田中さんの息子さん、大学院に進学なさったんですって」「加藤さんの娘さん、博士課程の2年生なんですって」などというのは、他人の子供だからこそ、軽い憧れを口にしただけであって、「おかあさん、私、大学院に進みたいから、お金を出して」の一言を、親はおそらく(よほど余裕と理解のある親は別にして)非常に恐れている。


 それは「漠然とした不安」であって、「まさかと思うけれども」「うちの子はちゃんと就職して、ちゃんと普通に生活を確立してくれることを願っていたのに」「普通に生きていくのが一番幸せなのに」、それなのにそういう一番つらい生活を選んだ、将来に何の保証もない道を選んだ、大した才能があるわけでもないのに不安定な生活を選択した、そういう不安である。場合によっては「うちの子はもうダメだ」「あの子は、育て方に失敗した」という扱いを受けることさえありうる。


 昭和に育った親というものは、子供にはモンシロチョウやハトやスズメなってほしいのであって、アゲハやタカやヒョウになろうとして失敗するのがコワいのである。「何だ、モンシロチョウか」「なあんだ、スズメか」「おやおや、ハトか」と言って、笑って打ち捨てられるような存在、ごく平凡で、目立つ特徴も毛皮もなくて、ごく平凡に死ぬまで生きていられる(当たり前だが)存在、当たり前だから当たり前な当たり前の存在、息子でも娘でも、そういう存在になってくれれば文句はない。だから、何よりも望むのは「英語」「パソコン」「シューカツ」であり「コミュニケーション能力」である。

 

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 そう考えて渋りに渋る両親をやっとのことで説得して、ついに大学院に進学しても、そこで待っているのは「キミの問題の立て方は粗雑すぎる」「もっと問題を整理して、テーマを絞らないと、修士の2年で論文は書けないよ」「たった2年でそんな大きなテーマで行くなんて、無理に決まってる」という、先輩の一言である。指導教官ではなくて先輩、教授ではなくて「ドクター」、こちらから見ればよくわからないそういうヒト、自分自身論文が書けなくて教授の罵声を浴びているようなヒト、それなのに何だか偉そうなヒト、そういうヒトビトが門番のように待ち受けていて、修士課程に入ってきたばかりのワカイモンを虐めようと手ぐすね引いている。


 そういう場所で「ボクは、マルクスやってみたいです」「私、シェイクスピア行きまあーす」「オレは、デュルケームだでよ」「おらあ、ウェーバーでいくだ」とか、万が一にも発言してみたまえ。「ドクター」のエライ人たちが5人も6人も集まってきて、皆で手を打って笑いこけ、あまりのことにコブシを振り上げコブシを振り下ろし、前世紀の遺物か太古の化石か異星人を眺めるように遠巻きに輪をつくり、その一言を口走っただけで、しばらくは伝説の主人公にされてしまうのだ。