Tue 090512 競輪の街を占拠していたキャラクター なぜ図書館にこもることになったか | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 090512 競輪の街を占拠していたキャラクター なぜ図書館にこもることになったか

 北松戸は(昨日の続きです)、競輪の街である。競輪場は駅の西口、「松和荘」は東口だから、直接の影響があるわけではない。しかし1ヶ月に7~8日はある競輪開催日には、電車と駅と駅前は競輪客で埋め尽くされる。21世紀の競輪客は、おそらく比較にならないほど洗練されているのだろうが、今から20年も30年も前の競輪というのは、観客もなかなか激しいシロモノで、競輪のある日に駅前に行く、あるいは電車に乗る、というのにはそれなりの勇気が必要だった。タオルの「ねじり鉢巻」、作業服の前を開いた白シャツに、まかり間違えば毛糸の腹巻き、もっとまかり間違えば地下足袋、そこまでがほぼ「制服」と言っていい。くわえタバコ、カップ酒も「定番小物」。開催日には駅前で競輪新聞と短い赤鉛筆を売っているだか無料で配っているだかしていて、脇に競輪新聞をはさみ、赤鉛筆を耳にはさみ、ほぼ見分けがつかない姿形の彼らが、ほぼ見分けのつかない姿勢で、駅の階段に座り込むのである。


 その座り方も同じである。腰を下ろした段の1段下に左足。2段下に右足。そういう斜めな座り方がカッコいいか「イキ」だったからしくて、駅前の階段を同じ制服・同じ定番小物・同じ姿勢で占拠した彼らの眺めはまさに壮観。一昔前のテレビゲームを思わせるものがある。で、そのテレビゲーム的なキャラクターが常磐線各駅停車で次から次へと大量輸送されてきて、駅の階段ではあっという間にスペースがなくなり、溢れかえったキャラクターは、まず駅西口の競輪場方面を占拠。そこも一杯で身動きがとれなくなると、東口も占拠。西口にも東口にも競輪客を当て込んだパチンコ屋が数件ひしめいていたから、もちろんそこも占拠。駅周辺はくわえタバコとカップ酒の臭いに満たされ、気がつくとほぼ完全な異次元空間に変わっている。

 

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(ひらめく)


 東口からすぐのところに国道6号線が走り、水戸街道を無数のトラックが爆走していたから、彼らがこのラインを超えて攻め込んでくることはなかなかなかったが、まあそんな具合の街になる。こういう日は、なかなか出かける気にならない。授業もなく、前日が「終電まで」または「朝まで」で、朝ネクターで優越感(3~4日前の記事参照)に浸りながら眠ったような日は、松和荘でそのまま過ごすという選択肢もある。食べるものさえあれば、それも悪くない。万が一「食べるもの」が部屋にいつもそろっていたり、今みたいにコンビニがたくさんあって、今みたいにコンビニで食べるものが豊富に手に入るような時代だったら、おそらく私は大学に通うのをすっかりヤメて、松和荘で東洋文庫を読破する日々を続けていただろうし、それはそれで素晴らしい日々だったかもしれない。


 しかし当時のコンビニはなかなか珍しい存在で、駅前のセブンイレブンだって食品は乾きものとカップ麺と菓子パンぐらい。どうせ駅前まで歩くなら、大学まで出かけたほうが楽しいに決まっている。駅前には果物屋さん2件(近くに「新東京病院」という大きな病院があって、見舞客を見込んだのだと思う)に混じって1件だけ書店もあった。確か「福岡書店」というのだったが、電車に乗る前にここに入って、内田百閒の文庫本をよく買った。小さな書店だったが、何故か旺文社文庫の内田百閒だけはキチンと揃い、今も自宅の書棚にある30冊ほどの内田百閒は、おそらく全てこの「福岡書店」で購入したのである。駅前には「すず木」という蕎麦屋もあって、日曜日にはよくこの蕎麦屋で昼食なり夕食なりを済ませたが、やっぱり大学まで行くほうが楽しいから、北松戸や「松和荘」で自己完結して大学から足が遠のく、ということはなかった。


 いろんな要素があったのだとは思うが、今考えてみて、大学への足が遠のかなかった意外に大きな要因に、福岡書店の2階を占拠していた「長襦袢サロン」の存在があったかもしれない。もちろん、そういう場所に通ったとかいうのでは全くなくて、その看板を見るたびに「オレはどうしてこんなところに住んでいるのだろう」という嫌悪感が湧き上がってきた、ということである。


 だって、「長襦袢サロン」である。最初見たときは吹き出したし、「おお、なかなか工夫をしたね」とエールを送るようなニヤニヤ笑いも込み上げてきたが、おそらく競輪で大稼ぎした人が、せっかく稼いだお金をこういう場所ですっからかんにされてしまうその場所が「長襦袢サロン」、しかも「松戸」ですらない「北松戸」の駅前というのでは、余りにも悲しい。くわえタバコ、カップ酒、腹巻き、作業服からはみ出した白シャツ、ねじり鉢巻、赤鉛筆と競輪新聞、キャラクター的にさえなって常磐線各駅停車ではるばる北松戸までやってきて、その最後の最後が「長襦袢サロン」なのである。


 国道6号線を駅のほうにわたる信号を待ちながらその看板を見上げ、「とにかく、早く大学へ行こう、早く千代田線に乗って、早く『耳袋』を読もう」、そう思って、何だか「必死」という感じで6号線の横断歩道を渡ったものである。まあ、そういうわけもあって、「朝から夜9時まで大学の図書館にこもる」という生活が確立した。混雑した通勤時間帯を避けるには、登校時間を少し遅めにして、逆に夜は早稲田の図書館で9時まで残り、閉館時間ギリギリまで読書で過ごして、帰りの電車もうまく読書に利用したくなるのは当然である。

 

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(思考する)


 これで、もしも読みふけっていた本が法律書だったとか経済学書だったとかいうなら、おそらく理想的な大学生活だったのかもしれない。ではどこで「図書館にこもる」などということを思いついたのかというと、それが三島由紀夫「青の時代」だったのだというのだから、何度でも自分に恐れ入る。「青の時代」を読んだのは、高校2年か3年の時。ホリエモン事件や村上ファンド事件の時にも話題になった、戦後直後の「光クラブ事件」をヒントに三島由紀夫が書いた小説である。


 もちろん小説それ自体も面白かったが、当時の私の頭に残ってしまったのが、地方出身の東大生がそのコンプレックスに対処する方法として選んだ「図書館にこもる」という生き方。小説の冒頭30ページぐらいに描かれているそういう生活になぜか共感し、「ひたすら図書館で」と思いつめ、そういうことになった。滑稽というか、やっぱり噴飯ものなのであるが、何度考えても、ああいう年頃に東洋文庫だの内田百閒だの風呂敷包みだのに夢中になるのではなくて、法律書・経済学書・政治学書、とにかく自分の専門として与えられた科目の本に没頭しながら図書館にこもっていたら、さすがに光クラブにはならなかったにしても、もう少しはマトモな人生になっていたように思うのである。