Mon 090511 東洋文庫を読みふける日々 図書館・風呂敷・コロンボコート 英語でノート | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon 090511 東洋文庫を読みふける日々 図書館・風呂敷・コロンボコート 英語でノート

 では、そうまでして(昨日の続きです)毎日読んでいたのが何だったのかと言えば、それが平凡社の「東洋文庫」だったというのだから、本人さえも恐れ入る。図書館でも同じことで、政治学でも経済学でも社会学でもなく、文学書ですらなくて、来る日も来る日も、何故か東洋文庫だったのである。「耳袋」「今古奇観」「甲子夜話」「元曲」「十二支考」「ミリンダ王の問い」「塩鉄論」など、大部に及ぶものもあるが、神保町の古本屋で大量に買い込んだ東洋文庫を次から次と読破することに、なぜか生き甲斐を感じていたのだ。確かに、そんなものを読んでも、全く何の役にも立たない。司法試験にも合格しないし、国家公務員試験にもプラスになることはない。学部の単位を取ることにも、作家になることにも、一切の関わりがない。しかしそれが面白いと思ったのだから、どうにも仕方がない。そうやって「熱烈」という感じで読みまくった東洋文庫の中にイザベラ・バードの「日本奥地紀行」があった。どうもあれから25年ほど経過して、今になってこの本がブームになっているらしい。そういうことが起これば、それもまた嬉しくて仕方がない。


 新聞が4紙でも5紙でも読めたのも図書館に入り浸った理由のうちの1つだったかもしれない。どうした弾みか、ある日曜の朝にやってきた毎日新聞の勧誘員のいうことを聞いて半年契約の用紙に印鑑を押すハメになり、お金はないのに松和荘に毎日毎日毎日新聞が届くことになった。何故だったかは、わからない。コワモテの勧誘真だったわけでもない。どちらかといえば気の弱そうな、押しの強くない男だったのだが、かえってそれが断りきれない原因だったのかもしれない。


 何かの理由で毎日新聞が急激に講読数を減らしていた頃で、確かに当時の毎日新聞は面白くなかった。今では考えられないことだが、新聞に掲載された写真1枚1枚がおかしな感じに修正されていて、眉毛が太く書き加えられていたり、まるでアイシャドーを塗りたくったように目がぱっちりしている。そういう王貞治や江川卓や定岡正二は見たくなかった。角も西本も鹿取も、古葉監督も北別府も、みんな眉毛が太くて目がパッチリ。殺人容疑で逮捕された容疑者も眉毛が太くて目がパッチリ。そういう新聞が毎日届けられるのに、すっかり辟易していたのである。

 

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(疲労)


 もともと子供時代から朝日新聞で育ったのだ。どうしても「フジ三太郎」と、横山泰三の「社会戯評」と、「かたえくぼ」だけは見ないと気が済まない。「アサッテ君」ではイヤなのだ。夕刊の「素粒子」などというのも子供の頃からの読者だから、2009年春に担当者が変わって、新しい担当者がうまく書けずに困っていらっしゃるのが手に取るようにわかる。4月当初には一定のスタイルを守っていたのに、おそらく評判が悪かったのか、3週を過ぎたあたりでスタイルが乱れ、バラバラになり、連休前からはただの短いコラムになって、素粒子に不可欠の不動のスタイルが消えてしまった。うまく行かずに困ったら、たとえ評判が悪くても自分のスタイルを貫かないと、こういうことになる。


 さて、話がそれすぎるといけないから早稲田の図書館に戻っていくことにすると、(前日が「朝まで」でなかったマトモな日には)朝10時過ぎに図書館に入って、荷物を置いて席を確保する。その「荷物」というのがまた大いに語りがいのあるシロモノで、何と風呂敷包みなのである。最近になって風呂敷の「復権」とか「見直し」とかがあって、もしかしたらそれなりにオシャレなのかもしれないが、当時の大学生が風呂敷包みを持ち歩くとすれば、相当の変わり者かヘンタイか、まあその類いのものであった。


 大学生の定番は、アメリカンフットボールかバスケかアイスホッケーか、そういうチームのロゴなりヘルメットなりのデザインされたバッグに、スタジャン。ところが松戸から東洋文庫を読みふけりながら(都電さえ利用して)1時間半かけて早稲田に現れるこの男は、秋から冬にかけては「刑事コロンボ」(これについても語らなければならないことがたくさんあるのだが)のようなクシャクシャのコートに、風呂敷包み、黒ブチの分厚いメガネというスタイル。メガネはレンズの大きく分厚いもので、「新党さきがけ」代表の武村さん(彼についてもたくさん語りたいのだが)がかけていたものの黒ぶち版(彼は鼈甲色、というよりおそらく鼈甲そのものだったが)だった。

 

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(真の幸福)


 風呂敷に入っているのは、東洋文庫2冊(途中で読み終わってしまった場合の予備を持ち歩くのが定番)、ノート読み上げ方式の講義のためのルーズリーフのノート、高校生時代から使い込んだパイロット万年筆とそのスペアインク2本を入れたペンケース、それだけである。教科書は、持ち歩かない。教科書がある場合、教授のほとんどはその教科書を読み上げるだけだったから、万が一教科書などを持参すると、それは睡眠薬にしかならない。そういう講義でも、教科書をもたずに集中してノートを取れば、なかなかいい集中力の訓練になるのだ。


 ただし、日本語で書き取るだけでは飽きるのも早いから、その場で英語に翻訳してノートをとる。これは面白かった。というか、イヤらしいほどバカバカしいのだが、「コロンボ」コートに風呂敷包みで現れた男が、授業時間直前まで東洋文庫で「今古奇観」だの「耳袋」だのを読みふけっていて、教授が現れるとやおら万年筆を構え、他の学生たちが教科書に目を落としながら居眠りを始めるのを尻目に、何だか夢中になって英語でノートをとり始めるのである。もちろん法律用語や政治学用語がバンバン英語で出てくるはずはないから、英語とローマ字書きの日本語がごちゃまぜになっているのだが、まあ見た目は英語である。


 で、授業が終われば、図書館に戻る。もちろんクラスの仲間たちと「フランセ」「エトランゼ」「ル・プティ・ニ」などでコーヒー(私はバナナジュース)を飲みつつ「談論風発」ということも多かったが、そういうところでは佐々木(仮名)の法律談義が中心になり、同じ話を前の晩に高田馬場「YOURS」で終電まで聞いたばかりということがほとんどで、私だけ図書館に戻り、東洋文庫ということになる。そうやって夜9時近くなって「そろそろ閉館」の時刻になると、「さあて、新聞コーナーに行くか」と背伸びをする。新聞コーナーをほぼ回り終え「フジ三太郎」「社会戯評」「素粒子」、みんな読み終えると佐々木(仮名)がニヤニヤしながらやってきて「どっか行くか?」。そういう日々だった。