Wed090408 どんどん遅れる 笠井紀美子「TOKYO SPECIAL」と「やりかけの人生」 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Wed090408 どんどん遅れる 笠井紀美子「TOKYO SPECIAL」と「やりかけの人生」

 これを書いている時点で、4月15日未明である。最後の更新が4月9日だから、5日更新を怠けていたことになるし、講演会ラッシュだった3月上旬から更新が不安定になって、もともと5~7日遅れながら何とかついていくという状態。4月に入って急速に追いついていたと言っても、もともと3日遅れていたわけだから、今回ついに丸々1週間遅れてしまったことになる。こうなると、方針は3つしか残っていない。1つは「やめてしまう」という激しい選択肢である。昨年6月5日にブログを開設して、「毎日更新、継続は10年、2018年6月4日まで」と宣言したはずであるが、こんなにダラしなくて更新が1週間も遅れてしまうようでは「そんなことをやる資格はない」と自分で判断して自粛する、ヤメてしまう、そういうきわめて捨て鉢な選択肢は意外なほど魅力がある。おお、おお、ヤメたらさぞかし気楽だろう、毎日毎日酒を飲んで、飲んだくれて、赤い顔をして、赤い顔が青く腫れ上がるほど酔っ払って、そうやって酔生夢死状態になるのも決して悪くない。参考書から何から全部諦めて、見切りをつけて、依頼された授業と講演会だけは何とか酔いを冷ましてゴマかし続ければ、あと5~6年ぐらいは何とか予備校講師で生きていけそうだ。


 そういう激しく投げ槍&捨て鉢な選択肢が1つ、間違いなくそこに転がっている。単に転がっているだけではなくて、ヌメヌメ魅力的なヘビのような怪しい光を放って、「アタシを拾ってくれないの?」「食べたらすごくおいしいよ」という、よく聞こえない低い小さな声の誘惑はそれなりに魅惑的である。受験生が、何か決定的な決断をしかかって講師に相談にくるとき、おそらく彼らも彼女らも同じようなヌメヌメした選択肢に魅惑されているのである。「ヤメてしまう」「進路を変える」のたぐい、「志望大学を変える」「東大にこだわる必要はない」「医学部にこだわらなくてもいいと思う」「今年の受験は記念受験にして、もう1年じっくりやってみる」。黙って一人でそれをする勇気はないが、とにかくそう思いついた以上、そっちに行かなければ「弱虫」と自分に罵られそうで、それがコワくて、その選択肢を握りしめて、依怙地になって講師に相談に来る。今まで通りの地道な努力がイヤになっただけなのだが、人生を変える大きな決断をかかえている受験生の顔は暗い光で輝き、目の前で怪しく光っている。

 

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(かしわ餅)


 そういう相談をかかえて現れる受験生というのは、とにかく「うん」「そうだな」と言ってほしいのである。「ヤメてしまえ」と言ってほしいし、「お前なんか、大学を受験する資格はないんだ」と言ってほしいし、決断が重大であればあるほど「背中を押してほしい」のだ。その種の相談をもっていく講師として、なぜ私なんかを選ぶのかよくわからないが、「類は友を呼ぶ」というか、おそらく同じ種類の人間の匂いを嗅ぎつけるのだろう。まだ大して長い人生を生きてきたわけではないが、普通の人なら「一生に1回」ではないかと思われるような重大な方針転換を、今思い出せるだけで8回経験してきた。「ヤメてしまおう」と決意しかけた彼らも彼女たちも、そういう種類の大人から背中を押してもらって、その勢いではばたこうという魂胆になるのである。


 それではばたけるなら、はばたかせてあげるのも悪くない。相手がちゃんとした翼も生えていないことを思い出さずに、「よおし、はばたいてみなさい」と言ってドンと背中を押せば、もちろん彼らは真っ逆さまに断崖を落ちていくのだから、無邪気に背中を押してみることは、臆病な私なんかにはとても出来ない。「まあ、そんな短気になって決めないで、もう1週間でも2週間でも、何とか頑張って続けて見なさい」のたぐいの無難なアドバイスでゴマかすのだが、結果的には最もまっとうな大人のアドバイスをしていることになるし、受験生のほうもその程度のおざなりでほとんどが納得して、元のサヤに収まるというか、小さく無難に成長し、面白みはないかもしれないが危険もないちゃんとした大人になっていくのである。


 もう30年近くむかし、ジャズのボーカリスト笠井紀美子が「TOKYO SPECIAL」というレコードを出した。CD時代になる直前である。1曲目がちょうど有名になりはじめた山下達郎の「ヴァイブレイション」、鈴木宏昌や鈴木茂が参加した名盤である。AMAZONで検索したら今もCDで販売されていて、「在庫あり」「お早めに」とのことだったが、その中の1曲に「やりかけの人生」というのがあった。


 レコードがどこにいってしまったか忘れたが、和製フュージョンのノリのいい他の9曲とは全く別種のけだるい1曲。やりかけの人生がそこにあって、午後3時か4時で、紅茶が冷めていって、カレはおそらく今日も連絡はくれそうになくて、仕事は飽きて、決心がつかなくて、やりかけの人生を続けるか、続けないとしたらどうするのか、それを考えることもけだるくて、紅茶が冷めたのなら酒でも飲みに出かけるかというと、そういう晴れがましい気分ではなくて、このまま日が暮れていってもおそらく明かりもつけないで、薄暗がりでじっと目を開けて夜明けまで過ごすのではないか、夜が明けたとして、それで何かするのかと言えば、きっと明日も明後日もずっとこのまま紅茶が冷めていくのではないか、そういう曲である。

 

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(やりかけのニャン生)


 最後に聞いたのは、いつだったか。レコードだから、レコードプレーヤーがまだ動いていた頃だろう。DENONのプレイヤー、ナガオカの針、そういうものがまだ健在だった頃だから、もう20年も前のことである。ではその「やりかけの人生」が好きな曲だったかと言えば、「この1曲さえなければ、いいアルバムなのだが」といつも思っていた類いの曲。それでも、疲れきった受験生の相談役に選択されるたびごとに、あの曲のことを思い出したものだ。今夜は、レコードのありかを探して過ごそうと思う。と言っても、すでに朝の3時が近い。夜明けが早くなって、最近は午前4時半で明るくなり始める。笠井紀美子は午後3時か4時だったが、午前3時か4時も、十分にけだるいのである。竹橋の国立近代美術館に、国吉康雄「夜明けがくる」という絵があったが、今の気分はそんな感じに近い。