Tue 090407 秋田・土崎駅の駅ソバ 日帰りスキー旅行と「独立の高揚」 男鹿線小旅行 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 090407 秋田・土崎駅の駅ソバ 日帰りスキー旅行と「独立の高揚」 男鹿線小旅行

 私が子どもの頃に昨日書いたような(昨日からの続きです)家族の戦いがあったのは、秋田の土崎駅である。日曜日には「秋田に買い物に行く」というのが普通で、バスなら休日の昼間でも5分に1本は走っているという恵まれた環境(ただし秋田が絶好調だった30年以上前の話、すっかりさびれてしまった今はどうなっているかわからない)だったが、小学校低学年だった私としては、どうしても汽車で行きたい。まだ鉄道が電化される前だったから、「電車」ではなくて、気動車である。男鹿線なら薄暗いオレンジ色の照明に照らされ、濃いグリーンのビニールのシートがあちこち綻びかけた3両編成のキハ。能代や八郎潟の方から来る奥羽本線なら、怒ったカニみたいなオレンジ色のディーゼル機関車に引かれた8両~10両編成の客車で、土崎から秋田まで1駅、10分弱の旅である。「禁煙」などという発想さえまだない頃で、むしろ男はタバコを吸うのが当たり前。車内はタバコ吸い放題で、もうもうと立ちこめる煙を誰も不思議に思わなかったし、タバコの煙の染み込んだ客車の匂いは今でも懐かしいぐらいである。


 私は今と違って何事にも控えめだった(信じがたいことだが)ので、駅の売店で何かをねだるということもない。4つ上の姉が大嫌い(弟というもののほとんどがそうなのではないかと思うが)で、とにかく姉と話をしないことに全力を費やす状況。それを理解できない両親が「いったいどうして息子が不機嫌なのか」「なぜ引っ込み思案なのか」「積極性の欠如は何を意味しているのか」を心配げに語り合っているのを見ながら、どうしてその程度のことも理解できないのかが、また理解できない。


 ほとんど毎週、日曜日にそういうことを土崎駅の改札前で繰り返しながら、それでもどうしても食べたかったのが土崎駅の駅ソバだった。しかし、駅の立ち食いソバには、母も姉も全く興味を示さない。それが小学校低学年の男子としてはまたまたムカつくのであるが、考えてみれば、当時の姉は中学生である。中学生の女の子が、「家族と一緒に駅の立ち食いソバ」などという行動はなかなかとらないだろう。今になればそれもわかるのだが、当時の私は「だから駅のソバが食べられない」と思い、ますます姉がキライでキライでたまらない。

 

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(駅ソバが食べたくてムクれていた頃。8歳当時の証明書写真より。この賢げな表情はなんだ?)

 冬になれば、毎週日曜日は父に連れられて、父の職場の部下4~5人も一緒でスキー。そういうスキーには姉も母も行かないから、小学生男子としては何だか「家族からの独立」の高揚感があって、タバコを吸いまくり酒を飲みまくる父の部下たちに混じって、売店で買ってもらったコカコーラ1本を大事に大事に飲みながら、田沢湖や大鰐や湯沢のスキー場まで、30歳半ばぐらいの男たちのいろいろな話を聞きながら、実に楽しく過ごすのだった。


 どのスキー場も今の大規模スキー場から見れば吹き出すほど小さなロコ・スキー場であって、リフトは多くて3本、大鰐(20年ほど前に大規模になったが)も湯沢(越後湯沢ではなくて、秋田県の湯沢)も1本。たまに「五十丁(ごじゅっちょう)行き」のバスで行く「上新城スキー場」なんか、リフトが1本もなくて、スキー客はみんなスキーを担いで徒歩で登るのである。頂上でスキーをはいて滑り降りれば、どんなに丁寧に滑っても2分とかからずに下についてしまう超ロコ、というよりただの田舎の坂道みたいなものだが、それでも「家族からの独立」の高揚感は変わらずにそこにあって、父と一緒にシャケとタラコの握り飯を食べ、みかんを2個食べ、水筒の冷めた番茶を飲めば、それで十分に幸せだったのである。


 そういう「昼飯5分、日帰り」のスキーが冬の日曜の定番だったから、冬には「家族のケンカ」は皆無。スキーから帰って、玄関ですべて自分でスキーの後片付けをこなす。こういうのも「独立の高揚感」をつのらせる。子どもなどというのは、やらせればやらせるほど嬉しいのである。晩飯を食べ始める頃に、NHK大河ドラマが始まって「天と地と」も「竜馬がゆく」も「樅の木は残った」も1月2月はいつもそういうシチュエーションで見た。大河ドラマと独立の高揚感がかぶっているのは私にとってはそういう事情である。

 

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(さらに5~6年前。この田舎臭さはなんだ?)


 結局、秋田の土崎の駅ソバを初めて食べたのは、今から3年前である。東進の講演会で秋田に呼ばれ、秋田の校舎主催・何とか会館で300人規模の講演会を行い、もちろんそのあとには恒例の飲み会もあったのだが、それでも翌日少し早起きして土崎駅まで行き、初めてこの駅ソバを食べた。奮発して天ぷらソバを注文したのだが、ちょうど7月20日、土崎港祭の宵山の日で、懐かしい港ばやしを聞きながら、大汗をかいて天ぷらソバをすすった。今までの人生で一番旨いソバだったように思う。


 その後、ちょうどやってきた男鹿線の下り電車で衝動的に男鹿まで行き、その折り返し列車ですぐに戻ってきて帰京、という小旅行もしてみた。そんな小旅行をして、少しずつ楽しんでいるのである。秋田、土崎、上飯島、追分。追分から男鹿半島の方に左にそれていって、八郎潟の残存湖(日本で2つめに大きかった湖を干拓して、そのあとに残った小さな湖)をわたり、やがて脇本、船越、男鹿。脇本からは寒風山スキー場が近くて、近いと言っても徒歩で1時間もかかるリフトもない禿げ山のスキー場に、父とともに何度登ったかわからないほどである。


 そういう田舎の支線に乗ってたどり着いた男鹿の街のさびれようもまた衝撃だった。もちろん、もともと男鹿の街がどれほど繁栄していたかを全く知らないわけだが、歩き回るも何も、2~3分歩けば、しかも早足ではなくて、いくら大事にゆっくり歩いても、3分もかからずに街の外れに出てしまうのはさすがにショックが大きい。あれも、既に3年前のことだ。是非また東進の講演会で秋田を訪れたい。秋田に出かけて、高校野球のこと、ラグビーのこと、サッカーのこと、バスケのこと、経済のこと、学力のこと、とにかくありとあらゆることを高校生たちに話してきたいと切望している。