Mon 090406 千鳥が淵に花見に出かける 小旅行で、一般的家族にありがちなケンカについて | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon 090406 千鳥が淵に花見に出かける 小旅行で、一般的家族にありがちなケンカについて

 桜の開花から既に半月が経過、満開宣言が出てからも5日ほどが過ぎている。しかしどうやらまだお花見ができるらしい。昨日の日曜日はさすがに押し合いへし合いが恐ろしくてお花見に出るには勇気が不足したが、今日なら月曜日だ、千鳥が淵に出かけても朝の山手線ほどの戦場ではないだろう。日曜の千鳥が淵は、考えるだけで恐ろしい。焼きそばをひっくり返してしまった子供、またはおむすびを地面に落としてしまった子供、またはバナナを弟にとられてしまった幼稚園児のお姉ちゃんなどが泣き叫ぶ声。それ以上に母が子供を激しく叱る声、それを抑えようとした父親との夫婦喧嘩の声、そういう不快な騒動に巻き込まれるだけだろうが、月曜日の真っ昼間の静かな千鳥が淵なら、まあ中高年の皆様が桜の美しさを余りにも大袈裟にほめたたえる声や溜め息に囲まれるぐらいである。


 ちょうどよく晴れて微風、日なたに出ると少し暑いくらいの陽気になった。桜を見るのにこれ以上の天気はちょっと考えられないぐらいだから、思い切って出かけてみることにした。何しろ、このところ毎日毎日参考書の原稿執筆のせいで、気分は相当鬱屈している。5月にはフランクフルトを中心に久しぶりのドイツを旅行してくることになっているが、それもまだまだ先のこと。しかもドイツ旅行を楽しくするには何よりも参考書原稿のスムーズな進行が前提であって、それを思うとまた鬱屈する。例年と比較して奇跡的と言っていいほど長続きしてくれた桜は、気晴らしにちょうどいい小旅行を提供してくれるはずである。

 

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(代々木上原、渋谷区の保存樹に指定されている桜の名木も、満開)

 代々木上原から千代田線に乗って、二重橋前の駅を出るとすぐ目の前は(当たり前だが)皇居である。お花見に出かけるといっても、大切なのはプロセスであって、いきなり満開の桜の下に出たりしてはならない。どこの名所に出かけるのであっても、駅に降りて、駅のざわめきを聞いて、同じ名所を目指す同じ年頃の人たちの様子を見て、子どもは子どもどうし、オヤジはオヤジどうし、女の子は女の子どうし、それぞれ視線と視線の熱い戦いがあって、特に子どもどうしでは、地上1m30cmぐらいでの大人の気づかない戦いや「あかんべエ」や、手に持ったお菓子の見せびらかしっこがあって、お菓子で負けたと思えばすぐに親に泣きついて売店で買ってもらう。売店でお菓子を買えばその隣りのオモチャがほしくなって、パパは買ってやるといい、ママはそんなに甘やかしちゃダメだといい、子どもは悲しくなって泣き、パパとママはケンカし、KIOSKの横の駅のそば屋の匂いが漂って、そうやっていろいろあってから駅の外に踏み出すのでなければ、日帰りの観光にはあまり意味がないのだ。


 もちろん駅の外に出た時には子どもはしっかりオモチャをせしめ、パパの勝ち誇った満足そうな顔を見上げて嬉しくなり、ママの額の青筋を見て悲しくなり、「うちはそんなにお金持ちじゃないのよ」と言われて心配になり、このオモチャを買ったおかげで貧乏になって、住む家もなくなり一家で路頭に迷うことになりはしないか、心配で心配でたまらず、どうしてもオモチャを売店に返しにいかなければならないと思い込んだりする。悲しくてたまらず、子どもは不機嫌になり、ママはそれを見て何故子どもがムクれているのか納得がいかず、「そんなにムクれているんなら、そんなオモチャ返していらっしゃい」と叫び、それでますます返しにいきたくなり、立ち止まり、もう絶対に動かない。手を引っぱられても、絶対動かない。うちが貧乏になるかどうか、それがぜんぶ自分にかかっている。オモチャを返しにいかなきゃダメだ、でもそれは恥ずかしいし、きっとまたママに叱られる。どうしたらいいかわからないから、またまた頑固に動かない。しかしママはわかってくれない。「まだ何か買ってほしいのか」と思い、「ワガママにもほどがある」と叫び出し、そこでまたパパとママの睨み合いや言い合いが始まり、それが悲しくてまた泣き出してしまう。

 

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(4月、午後2時の二重橋)


 駅でよく見かける休日の家族のバトルの構造は、だいたいこんな感じなのである。ママにもう少しだけ理解力があれば、バトルの半分は防げるように思う。しかしママというものは、余りに大人なのである。子どもがどれほどバカバカしいことを夢中で考えているか、例えば「ココアにお砂糖を入れすぎると、そのせいでうちが貧乏になって、お金がなくなって、たいへんなことになる」とか、そういうことを思っているとは、ママは忙しすぎるか、または賢すぎて、とても理解できない。お砂糖と同じことを、ケチャップについても考えているし、屋台で買う金魚についても思っている。ボクがこんなに金魚を買うから、きっとそれでパパがあんなに働かなきゃいけないんだ。アタシがパンにジャムを塗りすぎるから、ママが悲しそうだ。そう思って、彼らも彼女たちも、家族のことを真剣に考え、だからこそ「それなのに叱られる」と、にっちもさっちもいかなくなって「動かない」という行動になる。子どもとしては、途方に暮れて「固まってしまう」のだ。全ては心からの善意と、燃えるような熱意から始まったことなのである。

 

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(三宅坂付近で)


 ここで万が一パパが譲歩しなかったら、日帰り観光が原因で一家離散のハメになりかねないのであるが、さすがに日々会社で痛めつけられているパパは、「負けること」「負けるタイミング」を熟知している。一番いいのは「トイレに行っておこう」という提案であり、パパはトイレに行く。息子なら、一緒についてこさせて、「ママにあやまらなきゃいけないぞ」と諭す。娘ならママと一緒にトイレに行って、涙でぐじゃぐじゃの顔を、怒りで破裂しそうなママに拭いてもらって、ママもその娘の顔を見て悲しくなって、「ぜんぶパパのせいよ」「パパがみんないけないのよ」「いつだって自分勝手なんだから」といいながら自分とそっくりな娘の顔を眺めて機嫌が直る。ほとんどの家庭ではそういうことが日々進行中なのである。


 今日は二重橋前の駅から皇居を時計回りに半周するコースだから、そういう家族は見当たらない。売店もないし、何より懐かしい駅のそば屋の匂いもない。皇居前、二重橋前には外国人の団体が渦巻いている。中国人の団体が1つ、アメリカ人の団体が1つ、あと関西からきて盛んに東京の悪口を言い合っている団体が1つ。二重橋の前で盛んに写真を撮っている彼らとすれ違いながら、桜田門から国会議事堂を眺め、満開の菜の花や、カラスノエンドウ・スズメノエンドウの紫の花を見つつ、最高裁判所、国立劇場を経由して千鳥が淵に向かった。