Fri090403 昔の予備校のオーソドックスな授業のこと 平川祐弘訳・ダンテ「神曲」との出会い | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Fri090403 昔の予備校のオーソドックスな授業のこと 平川祐弘訳・ダンテ「神曲」との出会い

 以上2日にわたる記述が、3月30日に王子から上野までの京浜東北線の車窓を眺めながら、私の頭の中を去来した記憶である。駿台には、鈴木長十・伊藤和夫・桑原岩雄・奥井潔・秋山仁・長岡亮介など、受験生の頃の憧れの講師も多い。講師としても、同じ講師室でご一緒させていただいただけでも十分光栄に思わなければならない、最首悟・山本義隆・入不二基義(最近「朝日出版」から哲学の新刊書が出ている)など、素晴らしい講師の先生方がたくさんいらっしゃった。中でも鈴木長十師については、「彼のような授業がしたくて、予備校講師になった」と発言する講師の多くいる最高の先生だった。もちろん、鈴木長十師が生きていらっしゃったとしても、今の日本で人気が出るような先生ではない。10行か15行の英文解釈問題を50分かけて2問解説するだけの授業である。その「解説」というのも、英文中の要点を3つか4つ板書して、あとは訳を言っていくだけ。「カッコで、囲む」など、構文を大まかに説明するだけで、あとはいわゆる「名訳」をつけていくだけ。今、先生が突然復活して黒板の前に立たれたとしても、授業はおそらく完全に時代遅れで、あっという間にブーイングの嵐になることは間違いない。しかし、あの頃は違った。予定の2問のうち、1問解説し終わった後で始まる毒舌には、ほとんどの生徒が魅了され、ほんの2~3分の毒舌が聞きたくて、どれほど多くの生徒がモグリの立ち見で授業に参加したことか。教室と廊下の間の窓から覗き見してでも、それでも先生の毒舌を聞きたいという生徒がいくらでもいた。


 数学の長岡亮介師も秋山仁師も、全く状況は同じだった。当時はまだお2人とも大学院生で、予備校講師の地位なんかどうでもいい、むしろ「こんなムダなバイトの時間が自分にとってどれほどもったいないか」を前面に出した感じ。しかしそれでも、「大学への数学」よりも「大学での数学」を持ち出して、それで受験生の人気を取るという禁じ手は一切使わない。その禁じ手を使えば、受験生なんか簡単にダマされて、成績が上がらなくても「すげえことやってる」「ケッコ、すごくない?」と思いこんで、授業料をいくらでも払い込むのは、SEGでも鉄緑会でも同じこと。大学院でやっているテキストをコピーして高校生に見せれば、ダメなやつほど(当たり前のことだが)感動しすぎるほど感動して、自分が「普通の受験生とは違う」と勘違いし、大学合格とは無関係のことなのに思わず夢中になり、そのせいで合格が2~3年遅くなるのは、ありがちなことである。

 

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(神田神保町であの頃購入した、平川祐弘訳のダンテ「神曲」)


 当時、長岡師と秋山師に人気があったのは、「そういうことをしないから」だった。大学の研究室や大学院でやっていることを何となくほのめかしながら、しかし決して逸脱をしない。最後は必ず本道に戻ってきて、結局は高校の教科書なり基本問題集などで学ぶ基礎さえ押さえていれば、つまり基本さえしっかりしていれば、東京大学の問題なら実に雑作なく全問正解できるということを見せつける。初等幾何で対処することすらできるのを示す。一枚の絵を黒板に描いて、その1枚の絵から明快に正解を導く。ごく単純なエッセンスから、難問の解答を疑問の余地なく導き出す。その問題にのみ適用できるような特殊な解法を使わない。そういう授業だからこそ、「タッチの差」で東大に合格できなかった生徒たちの人気を勝ち得ることができたのだ。


 今年も4月に入って、いよいよ浪人生たちの授業が本格的に始まる季節である。「大手」と呼ばれる浪人生の予備校の授業は、ほとんどカルテルでも結んでいるかのように、みんな「4月20日開講」らしい。「いや、それでは遅すぎるだろう」というのが私の意見で、捲土重来を誓った浪人生の授業は、遅くても4月1日、早ければ3月20日頃に始めてほしいのであるが、それが諸般の事情によって難しい(講師のスケジュール調整がつかないのだ)のであれば、せめて授業の内容をキチンとさせて、「大学での数学」とか「TIME速読」とか、もともと大学入試とは何の関係もない難解な講義でゴマかしてしまうことだけは避けてほしい。


 力のない講師が、自分自身の力不足を、生徒の前で最もゴマかしやすいのが「大学での数学」や「大学での物理」。英語なら、自分だけは先に全文読解した英文に関する「超長文速読」。高校で習ったこともない大学レベルの話を持ち出されれば、受験生としてはグーの音も出ないし、バカなヤツほど「学問の神髄を教えてもらった」などと言って、その講師のファンになってしまう。先に2時間も3時間もかけて辞書と首っ引きで読んだ英語論文なら、「辞書を引くな」「知らない単語の意味は類推しろ」「この程度の英文を30分で読めないようじゃ、東大受験生失格だ」とか、好き勝手なことを言っても、生徒は誰も文句を言えない。しかしハッキリ言わせてもらえば、大学の学部入試に「学問の神髄」など全く必要ないし、そんなことで講師のファンになったり、そういう余計なことをやればやるほど、第1志望合格から遠く懸け離れた方向に迷い込んでしまうのである。


 当時の駿台には「数学の3N講師」が健在。数学でNの頭文字の3人が有名で、野沢・根岸・中田を「3N」と呼び、それに新進気鋭の山本茂年師を加えて「3N1Y」などという呼び方もあった。この3名ないし4名も出色だった。東京の「御三家高校」出身だったり、灘やラサールから来た受験生などは、彼らの解法をバカにして「あんな解き方じゃイモですね」とか「3Nとは、3バカのこと」とか言っていたが、残念ながら、そういう批判こそダメ受験生の証拠。「御三家」みたいな恵まれた環境にいて、それなのに現役合格できなかったのは、ハッキリ言って、そういう態度だったからなのである。3Nの素晴らしかったのは、解き方がイモだったからこそなのだ。「特殊な知識をもっていれば有利」などという発想を持たせず、「その問題に限って使える解き方」は決して用いなかったから。だからこそ、地方の公立高校でマジメに努力を続けてきたヤツなら誰でも納得できる解法で、それが例え東大の数学であれ、問題が正攻法で必ず解ける、そういう指導からブレなかったから。そういうことである。

 

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(神曲とともに購入した「ギリシャ喜劇全集」)


 ただし、残念なことは、そういうマトモな指導に反発を感じ「ここには知的な感動はない」「知性を刺激してくれるものはゼロだ」などとうそぶく受験生が存在するということである。何を隠そう、それが昔の私であって、たかが学部入試の場に「知的感動」などを求めて正しい道を外れていくのである。そのとき何故か神田神保町の古本屋で私の目に入ったのが、平川祐弘訳のダンテ「神曲」(河出書房)。モスグリーンの表紙、モスグリーンのケース。古本屋(神保町・玉英堂書店だ)でも1000円ほどしたが、あれを購入した6月末の暑い日が、私の浪人生活を崩壊させた瞬間。予備校の予習も復習も、ダンテの地獄篇に勝てるはずはないのだ。朝の電車の岩波新書も、鴬谷のホーホケキョも、ダンテの地獄に堕ちていった。それを訳した平川祐弘は、当時東京大学文学部教授。当時の私にとっての「東大のイタリア文学教授」がどれほどの力があったかを考えれば、あれは仕方がなかったのかもしれない。


 ダンテにのめり込み、ボッカッチョにのめり込み、神保町ではホメロスやチョーサーも見つけてそれにものめり込み、そうやって浪人生活は崩壊。で、こんな年齢になって代々木上原に引っ越してきてみたら、歩いて5分ほどのご近所に「平川祐弘」の表札を発見。私が人生をあやまる原因になったのかもしれない、しかし実際には絶妙のタイミングで出会ったのかもしれない、ダンテとの出会いを仲介してくださった平川祐弘・東大教授は、ほんの目と鼻の先に今も健在で住んでいらっしゃる。なお、平川訳「神曲」は、ちょうど河出文庫の3巻本で新しく出たばかりである。

1E(Cd) 東京交響楽団:芥川也寸志/交響管弦楽のための音楽・エローラ交響曲
2E(Cd) デュトワ&モントリオール:ロッシーニ序曲集
3E(Cd) S.フランソワ& クリュイタンス・パリ音楽院:ラヴェル/ピアノ協奏曲
4E(Cd) Paco de Lucia:ANTOLOGIA
5E(Cd) 寺井尚子:THINKING OF YOU
6E(Cd) Ono Risa:BOSSA CARIOCA
7E(Cd) 村治佳織・山下一史&新日本フィル:アランフェス交響曲
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