Wed 090401 通学電車と赤羽線のこと 本郷三丁目・駒場東大前を通りたくない話 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Wed 090401 通学電車と赤羽線のこと 本郷三丁目・駒場東大前を通りたくない話

 3月30日、王子の飛鳥山をすぐに降りて、京浜東北線で上野に向かう(前回からの続きです)。王子、上中里、田端、西日暮里、日暮里、鴬谷、上野である。このあたりの路線にじっくり乗ったのはもう大昔のこと。東大に落ちて、浪人して、埼玉県の大宮からお茶の水の駿台に通った頃だから、もう100年近い昔、ちょうど日露戦争の戦勝に日本中が「世界の一流国にのし上がった」と勘違いしていた頃のことである(もちろん冗談)。あの頃、秋田から出てきたばかりの私としては、大宮からお茶の水に通うのに、他にいろいろ便利なルートがあることに薄々気づいてはいいた。京浜東北線を使うにしても、西日暮里で千代田線に乗り換えれば新御茶ノ水駅利用で10分近く速くお茶の水に着くことができた。ただし、西日暮里での乗り換えが当時は面倒で、ホームに設置された窓口でキップの対面販売が行われていた。手渡されるのは厚紙製の固いキップだった。大宮から東北線(昔は「宇都宮線」などという曖昧な呼び方はしなかった)か高崎線に乗れば、上野まで赤羽と尾久に停車するだけで(昔のこの電車は浦和に止まらなかった)15分以上早く上野に着くこともできた。


 さらに赤羽で「赤羽線」という、車体全体が真っ黄色(というより山吹色)の、見るからに暑苦しい電車に乗り換えて(昔は埼京線などというものがなくて、赤羽で押し合いへし合いして赤羽線に乗り換えたのだ)池袋へ、池袋から丸ノ内線でお茶の水、そういうルートだってあった。今はなき赤羽線であるが、十条、板橋、池袋、あっという間に終点に到着して、この異常なほどの短距離を、一日中飽きもせず往復している可哀想な電車だった。当時は「国電」と呼ばれ、余りの混雑に新聞はフザけたつもりで「酷電」などと書き立て、「国電」は、JR時代になって「E電」と名称変更され、しかし「E電」と口に出していう人は誰もいなくて、やがてその名称は消えていった。

 

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(東京大学に合格することは間違いないだろうと考えていた当時。身分証明書用の写真)

 しかし、この短い「国電」にはなかなか味があった。まだ電車にクーラーのついていなかった時代、真夏の炎天下の電車内は蒸し風呂のような状況。十条や板橋で電車が止まっても誰も降りず、誰も乗らず、開け放たれたドアから夏の熱風が吹き込んで顔に当たり、しかし例え熱風でも汗まみれの顔に当たってくれればそれだけでも幸せであり、線路際に生え放題の夏のススキとイネ科の背の高い雑草が熱風に揺れ、雑草たちがゆらゆら揺れる気配を感じながら、真夏の睡魔に身を任せた。夏の炎天の下では、物音一つしないのである。何度も言うが、赤羽、十条、板橋、池袋、わずか10分で終点についてしまう電車であっても、それでも夏の雑草がゆらゆら揺れれば、それだけで汗まみれの午睡に誘われ、汗まみれでも午睡は天国にいるほどに幸福で、まかり間違えば池袋と赤羽を1日に何度でも往復していたくなるほどだったのである。


 ただしこの路線で行くと、どうしても「本郷三丁目」というイヤな駅を通らなければならない。東京大学に合格するつもりで受験して、あるはずの名前が掲示板になくて呆然とし、その呆然からやっと立ち直って予備校に通いはじめた18歳の田舎者にとって、毎日毎日「本郷三丁目」という駅を通らなければならないのは苦痛以外の何ものでもない。


 だから避けたのだし、しかし「だから避けたのだ」とは言えないから「その方が定期代が安上がりなのだ」と言ってゴマかしていた。「誰に対してゴマかしたのか」といえば、もちろんまず親に対してであって、ちょうど国鉄大宮工場に転勤になったせいで「東大に落ちた息子」と両親とは無惨にも離れられないことになってしまった。東大を卒業したら国鉄本社にキャリア採用されてすぐに自分を追い抜いていくはずだった息子が、何だか知らないが文学部などに行きたいとかとんでもないことをぬかし、しかもその入り口の入試にさえ合格できないという事実を突きつけられて、毎朝毎晩苦虫を噛み潰しつづけるはめになった父親に向かっては、息子としては余りに可哀想で「本郷三丁目を通るのがイヤだ」などという女々しいこと(差別用語で申し訳ないが)は絶対に言えなかった。


 もちろん自分に対してもゴマかしていた。確かに「国鉄1本で通学」のほうが「国鉄+営団地下鉄(昔は東京メトロなどというバカバカしい呼び方をしなかった)」よりも通学定期代は格段に安く済んだのであるが、何より自分にとって「毎日、本郷三丁目」は苦痛そのものだったのである。

 

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(高校1年の春。身分証明書用の写真)


 こういう事情は、別に私だけではないはずだ。今までに教えた生徒たちの中でも「井の頭線に乗れない」などいうショックの受け方は少なくなかった。合格して、毎日通うつもりでいた井の頭線の駒場東大前を、浪人生として通過する。そういうことに何も感じないなどというのは、むしろその方がおかしいのだ。東大に合格できずに、仕方がないからリベンジを誓って、何らかの資格試験に合格するための猛勉強を開始。しかしどうしても井の頭線で駒場東大前を通るたびに手が震えてくる。渋谷から吉祥寺に向かう時に、わざわざ新宿経由にしたり、井の頭線に乗る場合でも急行に乗り、駒場東大前に停車せずに通過する急行の座席で、目を固く閉じてうつむいている。それでも、渋谷を出る電車の中で「神泉、駒場東大前、池ノ上には停車いたしません」としつこくアナウンスされるのが、たまらない。次の下北沢駅でやっと目を開けるのだが、どやどや乗り込んでくる客の中におそらく東大の新入生がたくさんいるだろう。それを思うと、またたまらない。そういう男がよく私のところに相談にきていたものだ。


 まあ、「そこまで甘えるな」という意見もあるだろうし、「そこまで神経質になるな」とアドバイスするのが普通なのだろうが、私としては大いに気持ちが理解できるだけに、困ってしまった。そんな状況でなぜ渋谷-吉祥寺間の電車に乗らなければならなくなったのか、それが不思議だったが、彼が進学した大学名を聞いて納得がいった。横浜の自宅からでは、どうしてもそのルートになってしまうのだ。彼はその後も何度も相談に訪れ、やがて学部を卒業してからも、何度か酒を飲みに付き合った。この4~5年音沙汰がないが、それは私が突然代ゼミを辞めて、東進に移ってしまったからだろう。


 4月に入って、会社には新入社員、大学にも新入生、高校でも中学でも新入生、それぞれほんの1~2ヶ月前につらい経験をして、しっかり納得がいかないままに入学式を迎え、入社式を迎える人は相当数に達するのである。「希望に燃えて」とか「第1志望突破」とか、そういう幸せの真っただ中にある人は、むしろはるかに少数派なのだ。そういうことを思いながら、「いかにも新入社員」「いかにも新入生」という人たちが着慣れないスーツや制服を着て、初めての街を戸惑い気味に歩いている姿を見ると、物悲しいというか、ふと泣きそうになって荷物を取り落としそうになるというか、何かおごってあげて元気づけてあげたいというか、まあそういうおせっかいな気持ちが猛然と膨張してきて、抑えるのに困ったりするのである。

1E(Rc) Amadeus String Quartet:SCHUBERT/DEATH AND THE MAIDEN
2E(Rc) Solti & Chicago:BRUCKNER/SYMPHONY No.6
3E(Rc) Muti & Philadelphia:PROKOFIEV/ROMEO AND JULIET
4E(Cd) Midori & Mcdonald:ELGAR & FRANCK VIOLIN SONATAS
5E(Rc) Walter & Columbia:HAYDN/SYMPHONY No.88 & 100
6E(Rc) Collegium Aureum:HAYDN/SYMPHONY No.94 & 103 
7E(Rc) Solti & London:HAYDN/SYMPHONY No.101 & 96
8E(Rc) Collegium Aureum:VIVALDI/チェロ協奏曲集
9E(Rc) Corboz & Lausanne:VIVALDI/GLOLIA・ KYRIE・CREDO
10E(Rc) Elly Ameling & Collegium Aureum:BACH/HOCHZEITS KANTATE
KAFFEE KANTATE
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