Sun 090322 3月20日南浦和講演会 「筑波ゼミナール」での「駆け出し」の記憶 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 090322 3月20日南浦和講演会 「筑波ゼミナール」での「駆け出し」の記憶

 20日は「春分の日」でお休み、というか、高校生も受験生もみんな1段落ついて、卒業式、終業式、部活動、選抜高校野球、小旅行その他いかにも高校生らしいことに夢中になれる時期になった。散歩道ではコブシが咲き、桜のつぼみは膨らんで「触れなば落ちん」というか「いよいよ」というところまで来た。モクレンはもう咲きすぎて花びらがダラしなくベロンダランと下を向いて、白や紫の大きな厚い花びらが道に散らばって腐敗が始まっている。咲くのは早いが、終わるのも早い。何より終わり方がだらしない。こういう人生はイヤである。早熟で、もてはやされて、しかし後からくる充実した人々にすぐに追い越され、早咲きの栄光に浸りながら、寂しく朽ち果てていく。作家でもミュージシャンでもアーティストでも、10代のころは「早咲きだ」と言われることに憧れ、ひたすら早咲きであることを目標にするものだが、人というものは、むしろその後から確実な足取りでやってくる本格派であることを目指すべきだろうと、年をとるにつれて痛切に(というより「哀切」に近いが)感じるのである。


 20日、南浦和で講演会。WBCの2次ラウンド1位決定戦で日本と韓国が死闘を演じている中、TVから身体を引きはがすようにして南浦和に向かう。それでも15分に1回はケータイでゲームの経過をチェック。小笠原のタイムリーで勝利が確実になった段階で14時。講演会場の東進ハイスクール南浦和校に入った。


 この1年ほど南浦和には出かけていなかったが、ここには東進の大きな校舎があって、講演会はもう6回目。大きな独立校舎の中に、「いかにも予備校」という大教室があって、ここなら満員になっても300名近くは入るという感じ。いつも首都圏の東進で感じる「ええっ、こんなに小さな雑居ビル?」「ええっ、こんな狭い会場に受講者が入りきれるの?」という不安感や寂しさは、南浦和にはない。もう15年も昔の、夢のような「予備校バブル」の余韻が、まだ残っているのである。

 

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(南浦和での講演会、開始直後)


 あのころは、どんな予備校のどんな地方校舎にいっても、こういう大教室がいくらでもあって、それがほとんど全て満員だったのだ。大予備校ばかりではない。初めて予備校講師として仕事をしたのは、水戸の「筑波ゼミナール」だったが、営業を初めて5~6年にしかならない新興の中小予備校でも、全教室満員、4月半ば開講なのに3月下旬には全コース締め切って、講師が足りないから新聞の求人欄で「生徒数急増につき講師急募」するのが3月の末。それを見て応募してきた新人講師を、採用試験もせずに、とにかく何でもいいからとりあえず採用。その新人を採用しないと、講師が足りなくて時間割が作れないという非常事態になるのである。ダメならアンケートを突きつけてクビにすれば住むことだ、まあそういう発想である。


 初めて出かけた水戸で、いきなり社長室に呼ばれて、筆記試験も面接も一切なし、いきなり「90分1コマ8000円でどうですか」と茨城訛りの社長が持ちかけ「そんなにもらっていいんですか?」と尋ねる暇もなく採用された。今でも記憶しているが、木金土2コマずつ、上野から水戸までの特急は「自由席のみOK」、指定席とかグリーン車とかは実績次第。すぐに写真を撮って、あっという間に出来た「夏期講習パンフレット」では「超人気実力講師」の1人に入っていて、自分では書いた記憶のない「英語学習の基本は、理解・記憶・応用です」という「講師からヒトコト!!」が、まだヒゲのないツルンとした私の顔写真とともに掲載されていたりした。そういう「自由席講師」みたいな屈辱のスタートだったとはいえ、4フロアある筑波ゼミナール(通称「筑ゼミ」)の各フロアに300人教室が3つも4つもあり、その全てが満員。横長の粗末な会議机にパイプ椅子を並べて、机一つに生徒3人。「実力派人気講師」であるはずの当時の私は、予備校での経験はほぼゼロ状態。今思えば「英文を和訳してみせるだけ」のきわめて拙い授業と、「何とか単発的な笑いを取るだけ」の拙劣な雑談で、それでも人気は急伸。狭い講師室に溢れる「ベテラン講師」(それもどの程度のベテランなのかわかったものではないが)の多くをどんどん押しのけて、人気を確立していったものだった。


 ちょっとした生活のピンチに襲われ、「とにかく食いつなごう」というのが目標だったから、月曜火曜が「みすず学苑」で4コマずつ、水曜は川崎にあった「スバル高等予備校」で4コマ、週末が筑波ゼミナール。そのすぐ後に、河合塾の講師に採用されたから、こういう中小の予備校を渡り歩く生活はごく短いものだった。あのころ生活していたのが南浦和で、「大谷場小学校」の裏の「南浦和サザンハイツ」の2階から、オレンジ色の武蔵野線の電車が走る姿を眺めながら、これからどうやって生活していこうか、暗い気持ちで考え込む3月だった。
 だから、予想外に長く続けることになってしまった予備校講師生活のスタートは、あの驚きに満ちた朝である。南浦和の「みどりの窓口」で、一言「水戸。」と言ってチケットを買ったシーンも、いまだによく記憶している。その懐かしい「みどりの窓口」は、今日もまだあの時のままで南浦和の駅に残っていた。おお、まさに「走馬灯」の世界である。

 

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(南浦和講演会、開始10分程度。熱が入りはじめた会場)


 今日の出席者は170名ほど。大教室が8割は埋まっている、という感じ。生徒たちは皆マジメで、バブルのころの殺気立ったイメージはない。私はと言えば、授業も雑談もすっかり上達して、澱みなく、失敗もなく、話すべきことを話し、伝えるべきことを伝え、ムダもなく無理もなく、きわめて落ち着いて巧みに講演を進め、無闇に延長したり、時間がなくなって慌てたり、生徒の反応が万が一悪くても、態度が万々が一悪くても、腹を立てることもない。そもそも、生徒の態度が悪いのは、講師の話がつまらないからであり、生徒が居眠りしたら、それは講師の責任である、そのぐらいに思っている。しかも、私の講演や授業で反応や態度が悪いということも、ほぼありえなくなった。16時ちょっと前、講演は無事に完結。


 おお、これでは、すでに悟りの境地である。ある意味で恐ろしい老成であって、生徒から見ると少し熱意や情熱に欠けて見えるかもしれない。もちろん、熱意や情熱を感じさせるのも講師の仕事の重要な一部分だから、だらしないroutine workにならないように注意、ここでもモクレンのダランベロンはダメなので、緊張感を保つために「講演テキストは5種類準備。講演当日のミーティングで校舎側に選択してもらう」というやり方をとっている。


 終了後「お蔭で明治大学の文学部に合格しました」という男子学生の訪問を受ける。私は別に東大合格者とか医学部合格者ばかりが可愛いわけではなくて、初志貫徹して第1志望に合格した諸君なら、誰でも大歓迎である。三軒茶屋でも「慶応に合格、国立後期の発表待ち」という生徒が来ていたが、あれも嬉しかった。明治大学文学部、大いにおめでたい。平野謙以来の文学部の名門。「演劇専攻」などというのもある。4年間、やれることは何でも思いっきりやって、ダランペロンと道に散乱しないように勉学に励んでほしい。さらに講師控え室で小規模なサイン会もやって、校舎を出ると、17時半。懐かしい南浦和の街を意外なほど冷たい風が吹きはじめていた。新宿「寿司源」で1時間ほど寿司をつまんで、日本酒4合でちょうどいい具合に酔っ払い、20時ごろ帰宅。

1E(Cd) Solti & Chicago:HÄNDEL/MESSIAH 1/2
2E(Cd) Solti & Chicago:HÄNDEL/MESSIAH 2/2
3E(Cd) Bonynge:OFFENBACH/LES CONTES D’HOFFMANN 1/2
4E(Cd) Bonynge:OFFENBACH/LES CONTES D’HOFFMANN 2/2
5E(Rc) Amadeus String Quartet:SCHUBERT/DEATH AND THE MAIDEN
8D(DvMv) A MAN AND A WOMAN
11D(DvMv) OSCAR AND LUCINDA
total 57 y388 d2631