Wed 090304 北海道・道東の思い出 参考書原稿も忘れていない→比較級表現 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Wed 090304 北海道・道東の思い出 参考書原稿も忘れていない→比較級表現

 3月5日は北海道の北見で講演会があり、羽田発12時半の飛行機で女満別に向かった。北海道にはスキーでよく行くとしても、道東に出かけることは滅多にない。スキーならニセコかルスツかキロロであって、今から20年も前にサホロに出かけて以来、帯広より東のスキー場に出かけたことは皆無である。仕事での北海道は、昨年3月に函館、一昨年3月に旭川、それよりずっと昔の代ゼミ時代中頃に釧路で、それぞれ講演会があったぐらいである。やはり道東にはなかなか縁がない。はるかに遠い記憶をたどれば、大学4年の春に(思えばあれが卒業旅行なのだが)、「真冬の北海道、しかも一番厳しいところに行ってこよう」と相談がまとまり、当時はまだ普通に走っていた夜行列車を乗り継いで北海道を縦横無尽に走り回ったことはある。友人は5人組。みんな中央官庁だの一流企業だのですっかり偉くなってしまって、怠け続けた私一人が、今では大きく取り残されてしまった。

 

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(20年以上前の「釧路駅到着」。2晩続けて車中泊の直後、写真の気動車で根室に向かう直前。歩いてくる地元民は、今では予備校で講演会続きの中年男に成長している)

 あの時はまず、上野から常磐線経由の急行「十和田」で青森まで12時間だか13時間だか、昔の時刻表が手許にないから正確なことはわからないが、5人で最初から大酒を喰らいつつ、朝の青森に到着。海底のトンネルなどというもののまだ存在しない頃だから、青森から青函連絡船に乗って函館まで4時間。急行の自由席が無料になる「北海道周遊券」での旅行だから、特急を使わずに、あくまで急行自由席で函館から札幌まで。札幌から釧路までいく「大雪3号」だったか「4号」だったか、各駅停車ほどにたくさん停車してばかりの夜行急行に乗って、翌日朝6時、川から湯気の上がっている極寒の釧路に到着。もちろん寝台車とか、贅沢なものは一切使えないので、2日2晩にわたって2人ずつ向き合う4人のボックス席に、四角く座ってつっぱらかったまま、それでも大酒だけは決して怠けることなく飲み続けていた。しかしそれでも旅は終わらない。

 

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(20年以上前の納沙布の流氷。弧を描いて流れ着いたところ。向こうはソ連。)

 予定では、釧路から各駅停車に乗り換えて根室まで行き、さらにバスに乗り換えて納沙布岬へ、納沙布岬から北方領土に向かってコブシを振り上げ、返還を叫び、出来れば真っ昼間の打ち上げ花火を上げてソ連に抗議しようではないか、ということになっていた。これほどハードなスケジュールを誰が作ったのか記憶にないが、当時はまだ「ソ連」であって、ブレジネフ書記長はすでに死去していたとはいえ、日本にとって直接の脅威は何といってもソ連。よく晴れた納沙布岬には、流氷の第1陣が大きく弧を描くように流れ着いたところで、流氷の向こうに霞んで、見えるような見えないような薄い陸地に向かって、泥酔した大学生5人はコブシを振り上げ、雪玉を投げ上げて、本当に北方領土返還を叫んだ。打ち上げ花火は、買うのを忘れたというより、あの頃は冬の花火なんか、どこでも売っていなかったのである。

 

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(すでに廃止された湧網線「佐呂間駅」。優秀そうな青年は、前途洋々だった頃のサトイモどん)

 いま思うと、自然に顔が歪んでくるほどに滑稽なエピソードだらけの旅行だった。納沙布から根室に戻り、釧路・阿寒湖・摩周湖・美幌・網走と北上し、途中で野付半島に寄り道し、網走からは今では廃止されてしまった「湧網線」に乗って常呂・佐呂間・紋別・興部(おこっぺ)と北上。オホーツク海に沿った真冬の北海道は、晴れても晴れても、というより晴れれば晴れるほど、ますます気温が下がり、もしここで汽車に乗り遅れたら、ここで5人とも命を落とすのでないかと、大袈裟でもなく、それなりに真剣に心配し、興部の町で乗った興浜南線(こうひんなんせん)が雄武(おむ)の町に着くと、ついにここで鉄道は尽きてしまい、そこから先の北上は1日に3~4本しか走らないバスだけになった。


 そうやって、荒涼とした北海道の北の果てを震えながらどこまでも北上し、それでも常に大酒を忘れず、鉄道でもバスでも同乗の地元の人たちに酒臭い息と大騒ぎで大迷惑をかけながら、ついに最北端の稚内に行き着き、そこからは内陸を南下する旅が続くのだが、明日は話を2009年3月5日に戻してもいいだろう。目的地は北見であって、オホーツク海から南下するそこから先の旅の思い出は、とりあえず北見講演会とは何の関係もないのだ。

 

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(とっくに廃止された「興浜南線」の雄武駅。後ろのポスターは売り出し中だった松田聖子。この近くの西興部町で、この20数年後の2009年、日本で初の「定額給付金」が給付された)

 さて、怠けてばかりではマズい。ここから先は「参考書だって書いてますよ」という証明。一般の読者の方は、一切お読みになる必要はない。

(「原稿」部分省略)