Sun 090125 メディアの疲弊 大学入試はとっくに進化してしまった 辞書づくりしませんか | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 090125 メディアの疲弊 大学入試はとっくに進化してしまった 辞書づくりしませんか

 「大学入試が変わらなければ、高校での英語教育は変わらない。大学入試で重箱の隅をつつくような出題が続いている限り、高校でも予備校でも重箱の隅をつつくような授業が継続せざるを得ない、まず、大学入試が変わるべきだ」という意見が、12月から1月かけてのメディアでの発言の大きな部分を占めていた。

 この意見は、大学入試の実態をよく知らないシロートの人からであることが多かった。有名なマスコミの人間でも、この10年の入試問題の変化をキチンとフォローしていないと、こういうバカなことを平気で言ってしまう。

 少なくとも英語という科目においては、「重箱の隅をつつくような出題」はすでに完全な少数派であって、入試の表舞台からは姿を消しつつある。「大学入試=重箱の隅」という固定観念があって、その固定観念にベッタリ貼り付いたまま意見を述べれば、必然的にそういうことになるのだろう。

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(水も、腕立て伏せしながら飲む 1)

 

 話はそれるようだが、それでは「朝青龍は何が何でも悪者だ」「土俵でバンザイするのは品格がない」「相手を睨んではいけない」と言っている漫画家と同じことである。

 北京のプールで心からのガッツポーズをとった北島選手に品格がないか、フィールドで魂の奥底からハンマーに向かって叫んだ室伏選手に品格がないか、フランスの選手を投げ飛ばして畳の上で生き生きと飛び跳ねた谷本歩実選手に品格がないか、それをまず論じた方がいい。

 私は別に朝青龍が好きでもキライでもない。ずっと昔に相撲を見るのはヤメたから、私が好きなお相撲さんは、若浪や明武谷や大麒麟であって、1980年代以降のお相撲さんはよく知らない。

 キライなのは、「迎合した方がラク」と思われる世論の流れに安易に迎合する報道のあり方である。「相撲は抑制のスポーツなのだ」ということらしいが、では、なぜ観客は、土俵に向かって座布団を投げるのだろう。

 抑制を拒絶して感情をむき出しに座布団を投げる観客があれほどたくさんいて、横綱が負ければTVの画面にも不快なほど座布団が乱舞して、「座布団を投げないでください」という場内放送も一切無視して座布団が舞い、それでも「抑制のスポーツ」で「品格が求められる」というのは笑止である。品格を口にする前に、マスコミは座布団を投げる行動の抑止に立ち上がったほうがいい。

 むしろ、漫画家や脚本家や映画監督が人の品格を口にするなら、「なぜ相撲について発言する資格が自分にあるのか」を自省し、大した観戦歴でもないのにあたかも相撲の権威でもあるかのように公の場で発言する行動に品格があるのかどうかも自省して、テレビに出て公然と個人攻撃のような発言するのは、しばらくはヤメにすべきである。

 何より滑稽なのは、抑制を論ずる人が自らの感情を抑制できずに感情的に発言していることであり、品格を論ずる人が、自ら品格のない個人攻撃を行っていることである。

 座布団を投げまくる観客には一言も言わず、「女性が土俵に上がってはいけない」という旧弊を正そうともしない興行に、品格を論ずる必要はない。むしろもっと素直に、大衆格闘技として再生をはかるべきではないか、そういうところから考え直してみるべきである。

 抑制が大切な国技なら、感情的な発言を自ら抑制して、10年20年のスパンでお相撲さんたちにじっくり抑制を教え込む教育を続けるように説くことが大切だと思うが、いかがなものだろうか。

 もっと単純に言えば、単純な「好きかキライか」の問題を、品格論議などにスリかえてはいけない。昔は「北の湖は、何が何でも絶対キライ」という人が多くいたが、あれと同じことである。もともと理由なんかない、ただの好き嫌いに端を発しているのだ。

「朝青龍はキライ」「ピーマンはキライ」「ニンジンは見るのもイヤ」という、ただの子供っぽい好き嫌いを、まず正直に吐露すべきなのであって、「強いけど、品格がない」などと定義すら曖昧な言葉に逃げてはいけない。

 要するに自分の子供っぽさを隠そうとしているだけなのだが、子供っぽさとは、隠せば隠すほど、もっと子供っぽいのだ。うお、話がそれた。まるで酔っ払っているようだが、実際に酔っ払っているのだ。酔っ払いも、隠せば隠すほど子供っぽいから、隠さないで白状しておく。

 

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(水も、腕立て伏せしながら飲む 2)

 

 まあそういう話と同じように、入試問題が重箱の隅をつついているかどうかは、まずキチンと入試問題を分析してからにすべきである。

 メディアの頭の中にある「重箱の隅」の入試問題とは、彼らが受験した20年も以前の入試問題であり、彼らが受験勉強に取り組んだ30年も昔の予備校の授業をモトにして「受験生は可哀想だ」と言っているにすぎない。

 いや、それならばまだいいのだが、取材も体験も分析もなしに、「入試=重箱の隅」という固定観念に立って論ずる方がお得、またはラク、そういうお気楽な姿勢が優先している可能性の方がはるかに大きい。

 少なくとも「今の入試は、重箱の隅なんかつついていない、実情にあった実用英語中心にシフトしつつある」ということを一般市民に訴え、かつ納得させようとする努力が困難であることを思えば、新聞やTVの限られたスペースでそんなつらい努力をするよりも、固定観念に乗っかっておいた方がいい、という日和見に徹するのがマスコミの姿勢である。

 残念なことだが、そういうのはメディアの名に値しない。日本で今一番疲弊しているのは、メディアである。

「朝青龍は、悪い」
「塾は、詰め込み教育だ」
「受験は、重箱の隅だ」
「日本は、ダメだ」
「ブッシュのしたことはすべてダメ」
「オバマのすることはすべて良い」
「受験の英語は役に立たない」
「塾さえなければ日本の子供はしあわせになる」
その他、メディアが無批判に前提にするすべてを、我々はじっくり観察しなおした方がいい。

 いまや、中堅から上位に至るまで、入試問題は大きく変化し、読解量も、読解の内容も、自由英作文を中心とする作文問題も、リスニングの充実ぶりも、実用英語に驚くほど近いのである。だから、旧態依然とした高校や予備校の授業では、もはや対応できない。

 予備校にかつて溢れていたトリビア授業も、ほぼ姿を消しつつある。予備校や高校の現場よりも、大学入試の方がずっと先に進んでしまって、はるか向こう岸から「おおい、何やってるんダア、早く追いついてこいよオ!!」といって手招きしているのだ。

 昨日書いた通り、肝腎の大学教育自体が一番置いてきぼりになっているのが不思議なところだが、まあそれはご愛嬌。大学では、入学試験を担当する教員が一番大きな努力を積み重ねているということ、他の教員は自分の専門にかまけて、大学教育の理想の実現からかけ離れてしまっているということである。

 

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(「明日は曇り」を背中で予報)

 

 だから、「大学入試が変わらないと、高校教育も変われない」というのは、実際の入試を研究したことのない怠け者のマスコミか、そういうマスコミの固定観念にくるまっていつまでもヌクヌクとトリビア授業を続けていたい一部の先生方の姑息な言い訳である。

 大学入試は、とっくに大きな変質をとげつつあり、「英語で授業」を実現すればするほど、大学入試に向けて高校生を導くのにも有利になっているというのが現状なのである。

 むしろ、マジメに入試問題の研究を続けてきた高校教師や予備校講師が率先して「英語で授業」の先頭に立ち、互いに情報交換して「私はこんなふうに教えている」「こんな教え方もある」というふうに切磋琢磨していくべきだと思う。文法事項でもそうだし、単語熟語の教え方でもそうである。

 2~3日前に「英英辞典の充実もカギになりそうだ」と書き、「ジーニアスを誰も超えられない中で、圧倒的に読みやすい英英辞典の編集は新しいビジネスチャンスになりそうだ」というような意味のことを書いた。辞書のような本格的なものでなくてもいい。

 1500語から2000語の「単語集」という位置づけのものでもいいのだ。日本中の高校教師や予備校講師の合作で、高校生にも楽に理解できる英英カンタン辞書みたいなものを作成する動きが出てこないだろうか。

 今までは、そういうものの作成は個人の才能に任せるか、あるいは出版社の努力に委ねられていたのだが、教師だけではなく大学生や大学院生まで交えて、英英ミニミニ版(またはマイクロ版)ウィキペディアみたいなものを作成するような発想が広がらないものだろうか。

 まあ、そういういろいろなことを夢想しながら「高校では英語で授業」の方針を考え続けていると、決して否定的な意見にはならないのである。