Thu 090108 「高校英語の授業は原則として英語で行う」指導要領改訂案について | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 090108 「高校英語の授業は原則として英語で行う」指導要領改訂案について

 昨年の年末、私が日本にいない間に「高校指導要領改訂案」というのが出て、2013年の高校1年生からは「原則として英語の授業は英語で」ということになるらしい。

 あくまで、まだ「案」に過ぎないわけだから、これからいろいろ揺り戻しがあって、結局は「案に過ぎない」「原則、ということであって、例外はいくらでも認める」という、内容の薄まったものになる可能性が高いし、日本というのはもともとそういう国なのだが、それにしても思い切った案を出してくれたものだと思う。

 もちろん、実際に出来るなら素晴らしいことで、これでやっと高校の英語教育も英語教育の名に値するものになる可能性が出てきた。

 その後の世論の反応を見ると、ごく当たり前だが「賛否両論」である。現場の先生方からは否定的な意見が多く、現場を知らない一般の人たちからは賛成が多い。

 ただし「現場を知らない一般の人たち」とは、もう高校を卒業してから30年も40年も経過する人たちの声がほとんどで、今後実際に「英語で授業を受ける可能性のある」小中学生の意見はあまり聞かれていないようである。

 つまり、今の小中学生が、英語で行われる英語の授業を「ウザイ」「メンドイ」と感じるか、それとも「英語だけで授業を受けたい」と思うか、さらに進んで「それなら、先生はみんなネイティブがいいな」と考えるか、そういうインタビューはマスコミには出てこなかった。

 まず、ごく正直に、「今高校にいらっしゃる先生方の英語力で、果たして大丈夫だろうか」という不安から入らなければならない。

 まだ4年も先のことなのだから、英会話学校や海外研修でどんどん鍛えればいいことだろうし、新年になって早速何らかの努力を開始された熱心で積極的な先生も多くいらっしゃるとは思うのだが、メディアに現れてくる先生方の意見は消極的なものが多かった。

「英語で授業だなんて、現状に合わない」とおっしゃるのである。「中学3年間で、英語が大キライになり、英語は敵だと思い込んで身構えてくる生徒がほとんどなのに、その状況で英語を英語で教えられて嬉しいはずはない」「日本語で教えてもわからない生徒がほとんどなのに、それを英語で教えるなんて絵に描いたモチにしか思えない」などである。

 

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(離れることもある)


 この認識には誤りがあるように思う。「中学3年間で英語が大嫌いになり、英語は敵だと思って高校に入学してくる」というのだが、実際には中学の3年間で英語が嫌いになるという生徒は少ないのだ。

 むしろ、「中学を卒業するまでは英語は大好きだった」という子供の方が多い。「大好き」は言いすぎにしても、高校入試の段階では「英語はまあまあ。問題は数学」という子供の方が圧倒的に多いはずである。

 中学男子の場合、ちょうど思春期にあたるから「英語は、恥ずかしい」と感じて「キライ」と発言する者は確かに少なくない。それはちょうど音楽の授業と同じで、15歳の生意気盛りの男子が「皆で声を合わせて歌いましょう」だの「みんなでリコーダー演奏しましょう」だの、音楽の時間に言われて素直に従ってばかりもいられない年齢なのだ。

 合唱コンクールをサボったり、口パクしたり、仲間どうしつつきあったりして、音楽の先生を悩ませたり怒らせたりするのもこの年齢の男子ならありがちなことで、中学校独特の微笑ましい情景でもあるはずだ。

 英語も同じことである。14才や15才の男子で、先生に合わせて大きな声で外国語の発音をすることに恥ずかしさを感じ、舌先を軽く噛むだの、下唇を軽く噛むだの、「そんなこと、やってられっかよ?」のような反応になり、クラスの女子に叱られたり励まされたりしながら、まあ何とか頑張って耐えていく。

 恥ずかしいからイヤだけれども、しかし試験の成績はまあまあ、そういうのが大半である。高校生に聞いてみても、「中学までは英語は得意だった」または「まあまあだった」、それなのに「高校に入ってから英語が大嫌いになった」「高校に入ってから英語は敵だと思うようになった」という意見が多い。

「入学時にもう英語は敵だと思っている」のと「高校入学後に英語が大嫌いになる」の2者には大きな違いがある。

「中学校の先生がいけないのか」それとも「高校の先生がいけないのか」という責任のなすり合いとは全く無関係に、もしも「中学校までは英語がまあまあ好きで、それなのに高校に入学した途端に英語が嫌いになる」というのであれば、「高校で英語の授業を英語で行う」という方向性に対する反対意見には根拠がなくなってしまうのではないか、ということになる。

 

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(箱が大きすぎて不満)


 まず、必要なのは「なぜ高校で英語が苦手な子供が増えてしまうのか」について、高校の英語の先生方がしっかり議論することである。高校生は、なかなか本当のことをしっかり語ってくれない。

 なぜ英語が嫌いになったのか、聞いてみても、おそらく「ネミーから」「カッタリーから」「ウゼエから」程度の答えしか返ってこない。では何故「ネミー」のか「カッタリー」のか「ウゼエ」のか、その理由を考える努力がなされているかと言えば、そうでもないような気がする。

 30年前と同じ授業、例えば
「関係詞の前にコンマがあったら、そこから先は切って訳すんだ」
「外来語は、全部日本語に直さないと、危険だ」
「無生物主語の構文では、主語を副詞的に訳して、目的語が主語であるかのように訳すんだ」
などに代表される時代遅れな授業を、無反省に続けている教師は、高校にも予備校にも多いはずだ。

 「無生物主語」についてはこのブログで書いたことがなかったはずだから、ちょっと触れておく。「愛が2人を結びつけた」という訳文に、バツをつけている教師がいまだにたくさん存在するのだ。

「愛は、無生物。無生物主語の構文では、主語は副詞的に訳すんだ」
「だからこの訳文は『愛のお蔭で、2人は結びついた』でなければならない」

こういうことを大マジメで語り、こういう日本語談義で英語の授業の大半が費やされ、何故ダメなのか理由を聞くと「だって『愛が結びつけた』なんてバタ臭いだろ」とくる。バタ臭い? それって、何のこと? こういう連続で、「高校に入って英語が嫌いになっちゃった」という高校生が後を絶たないのである。

 こういう現状を考えると、「高校英語の授業は、原則として英語で」という今回の改訂案が英語教育改革への優れた起爆剤になりそうな気はしてくる。ただし、改訂案に早く具体性が伴わないと、世間に誤解が生じることになりかねない。

 何よりも英語の先生方がパニック状態になり、やれ研修だ、やれ留学だ、やれ転職だ、そういうことに夢中になって、今目の前にいるたくさんの高校生の教育がお留守になりかねないのだ。

 訳読中心の古くさい授業を、コミュニケーション重視の英語教育に切り替えるという方向性は間違っていないとして、どんな教材を使って、どう教え、さらには大学入試がどう変わるのか、そうした具体的な部分についての言及をどんどん進めないと、現場が大きく混乱することだけは間違いない。

1E(Cd) Schiff:BACH/GOLDBERG VARIATIONS
2E(Cd) Münchinger & Stuttgart Chamber:BACH/MUSICAL OFFERING
3E(Cd) Jochum & Concertgebouw:BACH/JOHANNES-PASSION 1/2
4E(Cd) Jochum & Concertgebouw:BACH/JOHANNES-PASSION 2/2
5E(Cd) Schreier:BACH/MASS IN B MINOR 1/2
6E(Cd) Schreier:BACH/MASS IN B MINOR 2/2
7E(Cd) Hilary Hahn:BACH/PARTITAS Nos.2&3 SONATA No.3
10D(DvMv) KING ARTHUR
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