Mon090105 理想主義者になるな 100%を目指すな 95点をたくさん積み重ねるほうがいい | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon090105 理想主義者になるな 100%を目指すな 95点をたくさん積み重ねるほうがいい

 「識者の意見」「識者の見解」を述べる「学識豊かな識者」が、テレビカメラの前でつい忘れがちなことがある。彼らが求められているのは、自らの学説を軽率にカメラの前で展開することではない。自説の展開はあくまで論文と学会発表の場で行うものであって、マスコミの興味本位のカメラの前で、見守っているのが学説の前提も知らないシロートばかりという場違いなところで、難解な自説を展開されても何の意味もないし、むしろ有害でさえある。


 「この国の経済政策には、確固とした国家戦略が見られない。いつまでたってもその場しのぎのパッチワーク的な作業が続くばかりで、パッチワークの布と布のつなぎ目から、水は着実に漏れ続けるのである。もっと50年100年の長期的視点に立ち、しっかりとした国家戦略を策定し、それに基づいた戦術を作って世界同時不況に立ち向かうべきである」。これは、政府の不況対策について質問されたある国立大学教授が、某テレビ局のカメラに向かって語った発言の要旨である。ニュースショーの雛壇に居並んだジャーナリストやら評論家のオジサンやらコメンテーターのオバさんやら、みんなこの発言に頷いて賛意を表していた。なるほど、歴史小説大好き、「信長、秀吉、家康」がみんな仲良くファーストネームで呼び合うおかしな戦国時代劇の大好きなオジサンなら、「国家戦略」とか「長期的視点」とか、そういう言葉は大好きなのである。

 

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 しかし、それって、もしかして、つい20年ほど前に破綻したはずの計画経済じゃないの? とツキノワさんは考えてしまうのだ。社会主義計画経済なら、第♡次5カ年計画とか、第♥次10カ年計画とか、人民公社とかコルホーズとかソフホーズとか、そういう国家的戦略に沿って運営されたはずだし、30年前に私が習った中学社会の教科書には、そういうものが画期的で、世界を救う大事業であるかのように書かれ、最重要事項として太いゴシック体で印刷されていたものである。大学ではほとんどの教授の専門がマルクス経済学に基づいたもので、国家的長期的国家戦略に基づく計画経済を、世界中が模倣すべきものとして称揚していたような記憶がある。


 そういう教科書や教授連が、20年前から突然ホッカムリをして、「あれ、そんなもの、ありましたっけ? そんなものを賞賛していた人って、どこの誰でしたっけ?」といってシラバックレている。その辺の歴史の清算をゴマかして、教科書からも教授の発言からもいつの間にか計画経済の話は立ち消えになってしまった。そうやってゴマかして終わりにするから、油断していると「識者」の口から、国家統制と理想主義的計画経済への夢の断片が風花のようにテレビカメラの前を舞い、過去を忘れた評論家やジャーナリストが大マジメで頷くことになる。


 むしろ、政策はパッチワーク的であって構わないのだ。理想主義者は100%を夢みて、100%のもの以外に価値を認めず、少しでも傷つけば意欲を失い、小さな傷を決定的な欠陥と思い込み、魅力を感じなくなれば躊躇なく道ばたに捨てて顧みない。予備校講師が毎年大量に目撃するミラクル君とそっくりだ。完璧な計画表を作り、一つでも欠点が見つかれば、あっという間に諦めて捨ててしまう。ラジオの語学講座もまた同じ。完璧を求めて聞きはじめ、1週間経過して一回居眠りし、一回怠けて聞き逃し、それでもう「完璧ではなくなった」と言い訳してヤメてしまう。


 計画経済も同じことである。経済なら、計画についてこない人、計画についてこない集団、主義の問題であれ能力の問題であれ、そういう例外はいくらでも発生して当然なのであるが、理想主義者は100%を求め、些細な傷を破綻と感じて、ついには国家全体を捨ててしまう。彼らにとって、自ら策定した長期的国家戦略は100%完璧なものであって、それに従わない、または従えないごくわずかな存在さえも許しがたいのである。

 

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 国家も経済も人間が寄り集まって出来たものであって、100%完璧なものなどありえない。最初から水はいくらでも漏れるものだし、器として望ましい姿であるとも限らない。しかし、望ましい形でなくても、水が漏れ続けても、その運営を一度でも止めることは出来ないし、ましてや放棄することは許されない。ならば、それを運営する者はひたすらパッチワークにいそしむだけである。あちらを塞ぎ、こちらを塞ぎ、やがて何かの間違いで完璧になる日を夢みながら、来る日も来る日も穴を塞ぎ続ける。だから彼らは公僕なのである。パッチワークにしても、キルトにしても、そういう芸術であって、端切れや断片をひたすら継ぎ合わせて、それがやがて素晴らしい芸術に変わる。


 予備校講師らしい言い方をすれば、100点満点をとり続けることを夢みて理想に燃えていたクセに、1度や2度失敗したからと言い訳して、現場から退場していくのがダメな理想主義者。受験の世界なら、こういう人が成功することはまずありえない。それより、日々ひたすら90点。95点ならもっといいのだが、とにかく出来る範囲で基礎と基本の穴を塞ぎ続け、自らの欠陥や欠点に気づきながらも、その欠陥を自らのアイデンティティーの一部として受け入れ、営々と努力を続ける者が最終的に成功に至るのである。芸術品としてのキルトと、全く同じことである。


 50年先100年先の国家戦略を策定しなければ日々の戦術を決められない、などというのは、年間計画表を作らないと今日の復習と明日の予習が出来ないと言ってムクれているダメな高校生と同じことである。彼らは、今日の復習と明日の予習を後回しにして、詳細きわまりない年間計画を驚くべき情熱を込めて作成し、気がつくと1週間が過ぎ2週間が過ぎ、目の前の定期テストが心配になり、再び計画表を作成し直さなければならなくなり、やがて破綻する。大切なのは、あくまで今日の復習と明日の予習であって、それを続けながら基礎学力を固め、言わば走り続けながらその場に応じた対策を立て、その向こうに長期的戦略を見いだすことである。年齢を重ねればわかることだが、100点のテスト5枚より、95点のテスト100枚の方が遥かに貴重なのだ。

1E(Cd) Harnoncourt:BACH/WEIHNACHTSORATORIUM 1/2
2E(Cd) Harnoncourt:BACH/WEIHNACHTSORATORIUM 2/2
3E(Cd) Eduardo Egüez:THE LUTE MUSIC OF J.S.BACH vol.1
4E(Cd) Brendel:BACH/ITALIENISCHES KONZERT
5E(Cd) Akiko Suwanai:DVOŘÁK, JANÁĈEK, and BRAHMS
6E(Cd) Akiko Suwanai:DVOŘÁK VIOLIN CONCERTO & SARASATE
7E(Cd) Solti & Chicago:BEETHOVEN/SYMPHONIES 6/6
10D(DvMv) ONE FLEW OVER THE CUCKOO’S NEST
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