Sat 081227 医師になりたくないなら、安易に医学部を志望するな(2/3) | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sat 081227 医師になりたくないなら、安易に医学部を志望するな(2/3)

 昨日書いたようにして、医学部受験生は予備校の中で大いに重宝され、大いに甘やかされることになる。河合塾の麹町校は「医学部特化校舎」で、医学部を受験する子供たちしか出入りできない。

 なぜ麹町なのかというと、そこには理由が2つあって、
(1)周辺の九段下から市ヶ谷にかけては、医学部特化校舎の草分けである駿台市ヶ谷校がある関係で、むかしから野田クルゼとか九段ゼミナールとか、医学部特化予備校が生まれては消え、「医学部受験生は市ヶ谷で降りる」という伝統ができてしまったこと
(2)医学部を目指す優秀な生徒が多いと思われる「女子御三家」がこの周囲に集中していて、予備校としてターゲットが絞りやすいということ、以上2点である。

 麹町校の近くを通ると、その立派な建物や設備に驚かされる。千代田区と言えば日本の中枢だが、その千代田区内にあって、校舎の豪華さはそれなりに際立っている。私は遥か昔に河合塾はヤメてしまったわけだから、その内部に入ったことはないが、何と校舎内にカフェテリアまで備えているとのことである。

 おお、カフェテリアである。東進の校舎は雑居ビルの一室で、1階がコーヒーショップのこともあるが、もちろんそれとは話が違う。おお、千代田区の真ん中に、美しい白亜の独立校舎、カフェテリア付き。何度考えても、羨ましいの一言だ。

 では、「それが受験生にとって好ましいことか」になると、話は全く別である。河合塾に限らない。日本のほとんど全ての予備校で、医学部志望者は「ヤンゴトナキ人々」の扱いを受けている。

 独立校舎。特別の個別指導。面接指導。カフェテリア。選りすぐりの講師陣。駿台でも、お茶の水本部校舎と市ヶ谷校舎の2つについては担当する講師が別格で、その教壇に上がれるのは実績も経験も抜群の最高の講師陣だった(ただしあくまで私が在籍した12年以上前の話、今はそうでもないのかもしれない)。

 河合塾は「東大を目指す人」と「医学部を目指す人」の2者が完全な特別扱いで、2008年の春にも、東京大学入試の朝には、全国紙に全面広告を出して彼らを激励したりしていた。「今日東大を受験する皆さん、おめでとう」というキャッチコピーである。

 

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(キック 1)


 こういう姿勢をみると、私などは大いに腹が立ってきて
「では、他の受験生はゴミ扱いですか」
「他の大学や他の学部を目指して努力している人たちには、全面広告で激励してあげる価値はないということですか」
「他の受験生にそういう講師陣では、猫に小判ということですか」
などといって反乱を起こしたくなる。というより、受験生が誰も反乱を起こさないのが不思議だし、文句をいうにしてもゴソゴソ陰で言っているだけで、ハッキリと面と向かって言わないのが不思議である。

 いや、実は何よりマズいのは、そういう特別扱いが生徒にもたらす特権意識である。「優秀で、医学部を目指す」ということになれば、一流講師陣がベッタリ貼り付いてカフェテラス付きの壮麗な校舎でヌクヌク勉強できる。

「東京大学を目指す」ということになれば、他の大学を目指す者たちなどには声もかけない予備校が、広告に大金をはたいて「おめでとう、頑張ってこいよ」と言ってくれる。その広告費がどこから出たカネかを考えれば、何とも不公平な気がするのだが、世間もそうは思わずに「そうか、東大を受けるのか、スゴいね」と言って喝采を受ける。

 その他の受験生や地方校舎の生徒が全然相手にされないのを見ながら、自分たちだけ特別扱いされれば、余程気をつけてないかぎり特権意識が目覚めるのも致し方ないように思われる。

 医師とは、またはエリートとは、そのような青年時代をおくるべき存在なのだろうか。医師とは、そのような特権階級扱いでヌクヌクと育てられなければならない職業なのだろうか。誠に生意気ながら、そういう疑問が湧いてきてならない。

 むしろ医師とはその青年時代から、自己犠牲の精神を養いつつ育っていくべきものであって、住む場所も教育される環境も、古代のエリートのように、一般の民衆より厳しくあってこそ優れた医師に育つのではないのか。

 資質はともかく一国の首相にまで登り詰めた人に「社会的常識に欠ける」などと言われてしまうのは、社会が彼らを甘やかしていることも原因としてあるのかもしれない。ま、頑固オヤジのタワゴトに過ぎないのだろうが、私はそう思っている。

 

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(キック 2)


 東大受験生も話は全く同じ。東京の本郷に「東大受験特化校舎」などというものを建ててもらって、東大の学部生だの院生だのがベッタリ貼り付いて、そこに通うことのできない地方の受験生が思わずヨダレを垂らして羨むような情報にたくさん触れて、そういう不公平なことを親のカネの力でたくさんしてもらって、それが将来日本や国際社会を導くエリートの青年時代に相応しいかどうか、疑問と言わざるをえない。

 親のお金で不自由なくヌクヌク育てられ、他の子は手にすることのできない情報や環境を与えられ、そのことで特権意識を身につけ、他の人の犠牲に基づいて自らの地位を確保することに疑問を感じない。

 そういうことに青年時代からすっかり慣らされた人たちが、例えば社会に出て企業のリーダーになった時、どういうリーダーになるかは、11月以降の一流企業の行動をみればわかることである。彼らは、弱者を蹴散らして自らの保身を優先し、救命ボートから他者を追い払ってでも自らを救うことのみを考え、しなくても済むリストラに励み、批判を浴びると「なぜボクたちが叱られるの?」と呆然とする。

「東大・医学部受験生の特別扱い」などという予備校の姿勢は、そういうリーダーを今後も大量に生産し続ける一助にしかならない。合格実績を積むことは、予備校経営の生命線なのだから、経営者がそれに夢中になり、優秀な生徒を集めるために設備を整え、他にはない情報や環境を持つことを誇り、都心部に住む教育資金の潤沢な家庭の子供たちを特別扱いしようとするのは、まあ仕方のないことかもしれない。

 しかし、いやしくも教育機関であるならば、理念やモラルをそのために捨ててしまってはならない。将来のエリートたちに特権意識を植え付けるようなことは、大昔から、教育者や教育機関が最も避けるべき行動だったように思うのだが、間違いだろうか。