Mon 081222 「合格したらいくらでも遊べるんだ、だから死に物狂いで」と言うな(3/3) | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon 081222 「合格したらいくらでも遊べるんだ、だから死に物狂いで」と言うな(3/3)

 では、どうするんだ?(一昨日と昨日からの続きです)ということになるわけだが、まず簡単に言って「子供にウソをつくな、鼻先にニンジンをぶら下げるな」ということから始めなければならない。親が自らの経験を顧みるときに「合格してもその先に天国などなかった」ことは(ごく少数の人は例外として)間違いないはずである。それなら、「大学に合格したら天国だったぞ」「中学に合格したら天国だったぞ」などというウソを平気で言うべきではない。もちろん、子供を相手に「合格したって別にどうってことはない、その先にあるのは平凡な日常に過ぎない」などと真顔で語るとしたら、それもまたシュールな親子関係というしかなくて、あまり好ましいものには見えないだろうが、少なくとも、存在しないとわかっているものをいかにも存在するように言って子供をダマすのは、親でも教師でも、してはいけないことのNo.1である。


 まず、教師や親の言っている「天国」なるものが、せいぜいで1ヶ月程度しか継続しない性質のものであることを、子供の側でも気づくべきなのだ。その天国とは「いくらでもゲームができる」「いくらでもテレビを観ていい」「いくらでもケータイで喋れる」「いくらでもダラけていていい」という程度のもの。普通の人なら、合格後1ヶ月、せいぜい2ヶ月も夢中になれば、その興味もすり減ってしまうだろうし、お小遣いだって続きはしない。ママが昔からよくやってみせる「ユウキちゃん、 … 買ってあげるわよ」の類いだって、受験に合格したプレゼントに天国を買ってくれるママなんかいるわけがないし、家もヨットも島もシマ(これはある特殊な業界用語)も買ってはもらえない。驚いたことに、「医学部合格祝いに新車を買ってもらえる」というお金持ちの医者さまの息子や娘はいるらしいが、そういうお金持ちに限って、クルマだって乗り回せば1ヶ月もして飽き飽きし、その天国はすぐにオシマイになる。普通なら、買ってもらえる天国は、ゲーム機、パソコン、マンガ、ケータイ、バイク、バッグ、ニンジン、角砂糖。まあ、最後の2つはウマの天国だが、人間もウマも大差ない、あっという間に淡雪のように融けて消えていく天国を目の前にぶら下げられたからといって、子供として、それでダマされてはイケナイのである。

 

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(ハンバーガーの箱にも入る 1)


 では、子供の側としてはどうすればいいかというと、「今、すでに本当の人生が始まっている」と考えるべきなのだ。医者になりたいのなら、受験勉強の段階ですでに医師としての人生がスタートしているのであって、たった今、目の前に広げた生物なり物理なりのテキストこそが医師になるための勉強の第1歩なのだし、明日受講する数学の冬期講習が、すでに医師としての努力の中に含まれているのである。それは1本の道であって、1本の道のスタートで怠けたくなったり、どうでもいいやと思ったり、イヤイヤながらだったりする訳にはいかないのだ。もし明日の予備校の授業がイヤなら、それは医師として働くのもイヤだという証拠であって、優れた医師としての一生を貫くには、どうしても明日の数学の授業にも全力投球をしなければならないのである。高校2年を対象にした講演会では、私はいつもそういうふうに子供たちに語ることにしている。


 一人の人間の人生をあちらこちらで時刻表のように切断して、「ここまでは準備段階、ここからがホンモノの人生、ここからは老後」とか、そういう決め方をするからいろいろな問題が発生するのだ。準備段階では「まだ医師ではないから、本来の人生とは無関係のやりたくない勉強にも耐える」。で、いよいよ天国のはずの本職になれば「老後に備えて、貯蓄・保険・年金などいろいろな準備を整える」「趣味でやりたいことはたくさんあるが、仕事で忙しいから我慢する」。老後は「仕事一本の人生を反省し、今まで出来なかった、さまざまな趣味を楽しむ」。こんな切れ切れの人生設計では、常に何かやりたいホンモノを求め、常に夢中になれず、ヌルっ点が訪れることもない欲求不満の人生にしかならない。


 もちろん弁護士でも金融マンでもメーカー社員でも研究員でも小説家でも心理カウンセラーでも、話は同じである。受験勉強を将来の夢なり志望なりと完全に切り離して、「通りたくないけど我慢しなければならない通り道」にしてしまうのではなくて、全てが既に始まっているホンモノの人生の一環だと考えるべきなのだ。


 新橋の焼き鳥屋や池袋のおでん屋で、中年のサラリーマンが「学生時代に一生懸命勉強したけど、結局学生時代の勉強なんか全く役に立たなかった」と発言する時、そこには2つの欺瞞または認識の誤りがある。(1)学生時代に一生懸命勉強した(2)全く役に立たなかった、の2点である。(1)本当に一生懸命勉強したのか、ならば、数学の予習復習をどのぐらいやったのか、英語の音読をどのぐらいやったのか、単語集は何回繰り返してやったのか、世界史や日本史も定期テスト直前の一夜漬けでなく、本当にチャンとやったのか、少なくとも子供の前で発言する前に、自分の胸に手を当てて考えてみたほうがいい。(2)「役に立たなかった」のではなくて「役に立てようとしなかった」だけではないのか、役に立てるチャンスに恵まれなかったというなら、そのチャンスをつかもうと努力したのかどうか。

 

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(ハンバーガーの箱にも入る 2)


 偉そうなことを言うようで誠に申し訳ないのだが、「受験勉強が実際の人生とは全くかけ離れたもので、いくらやっても人生には役立たない」などという余りにも絶望的な情報を周囲の子供に伝えようとするなら、そのぐらいのことは責任を持ってしっかり自省しなければならない。実際には「しっかり勉強したこともないし、その成果を人生に反映させようと努力したこともない」だけの大人が、酒臭い(またはタバコ臭い)息を吐きながら「そんな勉強、役にたたないぞ、でも、学歴のためには今だけ我慢しなさい、大学生になったらいくらでも遊べるんだから。人生なんて、そんなもの。あまり必死になりなさんな」などというセリフを子供に吐いていいかどうか、やはりチャンと考えなければならないと思う。


 以上のことを踏まえて、受験を控えた子供たちに言ってあげたいことは、以下の通りである。今夢中でやっている受験勉強は、そのまま人生全体の一部分である。弁護士になりたい人は、現代文の参考書も政治経済のテキストも数学の授業も、すでに将来の弁護士の仕事に直結しているどころか、仕事を円滑に進めるための準備として、人生の一環である。音楽の専門家になりたい人にとって、世界史の講義も古典の音読も、音楽を専門にする人間にとっての必須のものであって、世界史を知らずにウィーンやミラノやバルセロナを旅しても自分の音楽の向上はない。すでにホンモノの人生は始まっていて、今やっていることの全てはそこから切り離されたものではなく、むしろ最も重要な助走部分である。だから、受験の日にいったん途切れるのではないし、受験などという些細なものを超えて続く連続的な人生の一部分である。