Fri 081219 講師の雑談を拒絶するな 雑談を身辺雑記にするな | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Fri 081219 講師の雑談を拒絶するな 雑談を身辺雑記にするな

 最近は生徒がすっかり真面目になって、雑談は無条件でイケナイことだと信じている生徒も多い。予備校の授業でも大学教授の講演でも、本当は雑談の中にこそ学ばなければいけない内容がなり含蓄なりがしっかり組み込まれているのだが、とにかく長い雑談をするとハッキリ拒絶の態度に出る者も少なくなくて、大きなアクビを真っ向から見せつける者、机に突っ伏して居眠りのフリをする者、トイレに立つ者、思いっきり腕時計を見る者、ケータイを取り出してメールを始める者、次の授業の予習に励む者など、様々である。
 

 クラスのほぼ全員が夢中で雑談に聞き入り、大爆笑し、拍手まで出ているのに、ポツンと一人だけ「ボクは、雑談は聞きたくないんだ」「ママに、雑談は聞かなくていいって言われたんだ」という頑な態度をとっている根性はなかなか見上げたものだが、ほんの少し大人になって、雑談の中の含蓄を楽しみ、雑談を聞きながら授業本体以上の進歩をつかむ方向性に少し修正したほうがいいかもしれない。多くの講師にはキチンとした90分の授業の組み立てなりプランありがあって、導入部の雑談がそのまま授業内容にスムーズにつながっていたり、伏線を描いていたりするのである。
 

 講師の人間性が一番よく出るのも、雑談部分。「講師の人間性なんかどうでもいい」という発想では、学習効率は上がらない。学校では、生徒はただ単に数学を習うのではなくて、数学の先生と人間としてつきあうのである。ただ単に日本史の知識を吸収するのではなくて、教師の歴史観なりフィルターなりを通して日本史に触れるのであり、それは英語でも国語でも体育でも同じこと。大人とつきあうのに何か材料がなくては困るから、国語や英語や物理を材料に与えてもらっていると思ってもいいぐらいである。その一番大切なところを無視して「教科内容さえ教えてもらえればそれでいい」と判断した段階で、「それなら辞書や年表を丸暗記したらいい」ということになりかねない。
 

 料理を味わうのも似たところがあって、もしもシェフや亭主が客の前に現れていろいろ親しく雑談を始めてくれたとしたら、シェフの話を真剣に聞いて、料理ばかりではなくシェフの話ぶりや話の含蓄を味わうのが、料理を味わうのに勝るとも劣らない楽しみになるはずだ。「話なんかしたくない、オレは腹が減っている、ツベコベ言ってないで早く食うものを出してくれ」というなら、チェーンのハンバーガー屋かファミレスか回転寿しに行くしかない。「料理人は沈黙して味だけで勝負」という見識も当然ありうるが、それが好みならそういう好みに合う料理人もまたたくさん存在するわけだから、お金をしっかり出して店を選べばそれでいい。
 

 参考書を読むのも同じことで、「はしがき」とか「あとがき」とか「本書の使い方」とか、その本の妙味はそういう雑談部分にあることが多い。もちろんそういう部分だけを繰り返し読んでいても成績は上がらないだろうが、逆にその部分を「雑談だ」「カンケー、ナクネ?」とか軽率に判断して読まずに済ませてしまえば、年表や辞書や時刻表を丸暗記するのと同じ無味乾燥な読書にしかならない。その程度でいいなら、参考書なんか買う必要はないし、高い授業料を払って予備校なんかにいく必要は全くない。予備校の楽しみは、講師がどういう姿勢で世界史をかみくだくのか、どんな発想で英語を解剖するのか、どういう視点から数学を組み立て、どの角度から現代文を読みこなすのか、今までに出会ったいろいろな教師とどこが違い、どこが同じなのか、観察することにある。それが一番ハッキリするのが雑談部分であり、言わば高い授業料の根源である。「ウケねーぜ」「ネムクナイ?」「チョーうぜえ」「さっさと授業に入ってほしい」「無駄話が多すぎる」「最低最悪」の類いの反応しかできないのは、まだ精神年齢が低いだけのことである。

 

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(鎖かたびら)


 ただし、ここには問題が2つ存在している。1つめは、講師の雑談の質の低さ。授業の伏線にもなっていなければ、担当科目についての視点や発想が全く含まれない、「身辺雑記」としか言いようのない雑談しかできない講師は多い。「昨日 … 先生と新宿に飲みにいって、いやあ、飲んだねえ、よく飲んだ」で始まるのは別に構わない。飲んで、何をして、だからそれが数学や化学とどう関わってくるのか、生徒がボンヤリとでも把握できるならいいのだ。しかし、そうでもないのが現状。話を始める前に何のビジョンもなく適当に昨日や一昨日の出来事を語りはじめ、おもしろおかしく脚色もつけて、生徒を「笑かす」ことだけに夢中になる。生徒も先生のプライベートを垣間みるのは楽しいし、ちょっと憧れるような大人の生活を聞けば、憧れもするだろうから、当然「感動し」「勇気をもらって」皆の目はキラキラ輝きはじめ、生徒の目がキラキラ輝けば、逆に講師もますます話に身が入って、気がつけば30分も40分も簡単に経過してしまう。
 

 このあたりはもちろん反省と自戒と自省をこめて語っているのであって、昔の私はよくこういうことをしていた。90分の授業に生徒がいくら支払っているかを忘れ、というか講座受講料を時間数で割って計算してみることを怠り、ついつい身辺雑記で30分以上経過していたことが少なくなかった。4年前、東進に移籍する直前にある生徒に言われて初めて気づいたのだが、単科ゼミだと、90分5000円が標準なのだ。5000円払って、そのうち1/3が講師の身辺雑記や、昨日誰とどこで何を飲み食いしたかとか、クリスマスプレゼントとしてカノジョに何を買ったかとか、そういう話で潰されてしまっては、生徒が「やられたぜ」「ダマされた」と思うのは無理もないのである。雑談のお手本にすべきなのは、昔の駿台なら、奥井潔師と桑原岩雄師だろう。この2人の尊敬すべき先生については、すでにこのブログで書いたから今日は省略する。
 

 もう1つの問題は、雑談部分だけに夢中になって、それで終わりになってしまう生徒が非常に多いこと。いつかこのブログで「講師の取り巻きになるな」を書いたことがあるが、「取り巻き」以外にも「雑談部分ばかりに夢中になってそれで終わり」の生徒は少なくない。生徒が「感動」を口にするのも圧倒的にこの部分であり、予備校とは授業導入部で生徒を感動させる名人を多種多様に取り揃えた不思議な学校なのである。昔から、「学者崩れ」というか、学者になりそこねた人が予備校の講師になるケースが多いのであるが、彼らの多くは、才能は秀でているが努力の継続が苦手なタイプ。才能においては秀でているから、学問の全体を大づかみにして概観させる能力だけは本職の学者以上なのかもしれない。高校教師にも感動せず、大学教授の講義もつまらない、しかし予備校講師の授業にだけは大きな感動を感じる、という生徒は多い。いつまでも、もっとずっと大人になっても、予備校を母校と思っている人も少なくないはずだ。

 

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(モズク猫)


 才能だけあって努力が継続できないせいで挫折した講師と、その雑談に夢中になって教科本体の学習に身が入らずに挫折してしまう生徒。そういう挫折の連鎖が、延々と続いていく可能性さえあるのだ。ただし、だからと言ってそういう連鎖を真っ向から否定してしまう気持ちも私にはなくて、大学人としての成功も、受験生としての成功と合格も、社会人としての成功も、ちょっと離れた位置から冷静に客観的に見ればそれほど大したものではない。学部入試でダメなら大学院入試があるだろうし、それがダメでもまだいくらでも先があるだろう。陳腐な言い方だが、今のところ成功している人でも、きわめて些細なきっかけで一気に転落する可能性も小さくはない。目先の成功ばかり求めて「雑談は無駄だ」と直線的に決めてしまうのは、青年として貧しすぎるように感じる。


 挫折した大人がちょっと寂しげにちょっと疲れた表情で学問への愛情を語り、手に汗を握る思いでその話を聞きながら学問への憧れを掻き立てられ、憧れすぎて目前にある志望校合格がその分だけ遠のくようなことがあるとしても、その講師と生徒の関係は滅多にない楽しい関係のように思える。20年も30年も前に駿台で奥井師の授業に出て、奥井師の哲学談義に夢中になり、予備校生なのに東大や早稲田や一橋の授業にモグリに出かけ、受験勉強が疎かになって成績が上がらず、それで東大に合格できなかったという人も私は知っているが、彼らと奥井先生の思い出話をすれば、いつだって大学教授の話よりも遥かに盛り上がる。20年経過しても、彼らは目を輝かせて奥井先生との出会いについて夢中で語り始めるのだ。今のところどうしても必要なのは、講師が話の質をもっともっと高めること、もちろん奥井師や表三郎師の域に達するのは困難であるにしても、身辺雑記で終わる雑談のレベルを早く脱する努力をすることだろうと思われる。