Thu 081218 「ヌルっ点」について 「偉人の少年時代」との訣別 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 081218 「ヌルっ点」について 「偉人の少年時代」との訣別

 こういうふうで、まさに最低の小学生生活を送ってきた私は、罪悪感と疎外感の入り混じった奇妙な感覚を常にかかえ、もともと内気な性格で授業中もあまり積極的ではなく、実際にぜんそくの発作が出ることもあり、それなのにマトモに信じてもらえず、手を挙げて発言することはほとんどないのに、テストの成績だけは抜群で、先生に指名されたときだけ妙に鮮やかに答える、つまり小学生として最も人気のないタイプになって、小6の初冬11月になった。で、「その時」がやってくる。ただし、動いたのは歴史ではなくて、私の性格だった。
 

 午後の1時間目が体育で、ポートボール。私は「ぜんそく」で見学。ただし、実際に秋の終わり恒例の激しいぜんそくの発作が出ていたので、見学といっても「体育館まで行かなくてもOK、教室で休んでいてもヨシ」という特別扱いになった。こういうことがしばしばあったので、それで味をしめたのかもしれない。そこは「偉人の少年時代」に相応しい読書三昧である。教室のテレビをつけて「昼のプレゼント」だのワイドショーだのを見るところまではさすがの私も不良化してはいなかったから、触れ込み通りチャンと読書に励んでいたのだ。遠くの音楽室からはみんなで歌う声やリコーダーの合奏が聞こえ、校庭からはホイッスルと歓声が聞こえ、隣やそのまた隣の授業の静かな声が大勢の僧の読経のように空っぽの教室に響いて、もともと余り好きではない読書を無理に進めながら、重い睡魔に襲われかけていた。
 

 その時、ついにヌルッ点が訪れたのである。特に前触れとか前兆とか兆候とか、そういうご大層なものがあったのではない。本当に突然、頭蓋骨の中で脳が約35°ほどヌルッと滑るように回転した感覚があって、その生温い不気味な肉感は今でもよく記憶している。なかなかウマい例えが見つからないが、ぐらぐらする奥歯を来る日も来る日も指でいじり回していて、もうすぐ放課後という午後2時半、口の中でグスッと鈍い音がして大きな奥歯が根元から抜け、口いっぱいに温かい血液の味が広がる瞬間を思い出せば、それはまさにプチ・プチ・ヌルっ点の感覚である。

 

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 意識していないだけで、実際にはヌルっ点は誰にも同じように訪れるのである。自分の成長を阻んでいた分厚い板のようなものがあって、その分厚さが不快でならず、しかしいつかは板が割れて向こう側に出られることもウスウスわかっており、すでに板には決定的に割れる兆しもあるし、兆しは何とない痛痒さになって、鬱血して熱をもっている。そしてある日、腐食しかけたその板がグスッと暗い音を残して2つに割れ、生臭い血液の味を身体中に充満させながら、何だかドロドロしたものが流れ出す。私の場合は、それにつれて脳味噌がヌルっと回転したのである。


 脳の回転を感じた時、私は自分の表情が大きく変化したのを感じ、それが気持ち悪いほど面白くて、面白さに耐えられず立ち上がった。立ち上がっても、理由のわからない面白さと愉快さは消えることなく、消えるどころか、もうどこまででも面白くて、もう止めようがなかった。面白くて面白くて、一人残された教室をいくらでも歩き回りながら、仲間の机を殴り、黒板を殴り、教卓を殴り、何だかわからないが、いろいろ独り言を言ったようである。とにかく、今までのすべてが下らなく思えて、何であんなに大人しくしていたのか、何で授業中の発言を我慢していたのか、何で体育がつまらないならつまらないと先生にハッキリ言わなかったのか、何でポートボールの台に乗せられる役柄に不平を言わなかったのか、何で仮病まで使って偉人の少年時代をやり続けてきたのか、とにかくそれまでの我慢のすべてが、下らなくて下らなくてたまらなく思えた。


 まあ、簡単に言えば、「躁状態」である。この激しい躁状態は、チャイムが鳴って、仲間たちが教室に戻ってきてからも止まることはなかった。「おまえら、ポートボールなんて、下らなくないか」と叫び「バスケの網を取り付けられないから、仕方なくてあんなのやらされてるんだぞ」と大声で言った。「木島先生の授業で、個性を発揮したようにみせてダマしてやる」と口走った(で、実際にやったことは既に書いた)。それまで本当に悩まされていたぜんそくは、このときを境にどんどんよくなって、激しい発作は出なくなった。実際にいろいろ病気がちだったのだが、これは間違いなく、あそこから先、学校を休むほどの病気をしたことはない。あそこまでは、授業中に挙手をして発言したり質問したりすることは全くなかったのだが、性格もほぼ180°逆転して、授業中にいくらでも手を挙げて授業の進行を遅らせ、教師を困らせるのが趣味のようになり、仲間たちも今井が手を挙げて妙な角度から教師を追いつめるのを(もちろん反感や嫌悪感を露骨に示してくるような人もいたけれども)楽しみにしてくれるようになった。


 つまり、あのヌルっ点以来、私はもう何十年も躁状態のままなのである。つまらなければ、平気でつまらないと言う。退屈なら、退屈だと言う。つまらないことを我慢してやるのはイヤだから、つまらないことはすぐにやめてしまう。いつでも面白いことをやっていたくて、面白いことをしたいのに何か妨害する人がいたり障害になるものがあったりすると、どんなことをしてでも妨害や障害を排除しようと努力する。

 

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 生徒たちに向かって、読書や学習のススメを説くのは、予備校講師なのだから当然であるが、では「なぜ読書するのか」「なぜ学習するのか」と質問されれば「楽しいから」「楽しくてたまらないから」としか答えない。ありがちな激励、つまり「将来役立つことだから、今は我慢」「進路を切り開くために、歯を食いしばって頑張れ」「あと2ヶ月我慢して死に物狂いでやれば、そこから先はいくらでも遊べるんだ」という類いの激励は絶対にしない。楽しくなければ、将来のためだとか、合格のためだとか、そういう欺瞞で続けるのは無意味である。「うひゃー、面白い」「うげ、こりゃ楽しいわ」と叫びながら進める学習でなければ、大した意味はない。特に読書について、その目的を「覚えるため」「記憶するため」と取り違えて「せっかく読んだのに、ちっとも記憶していない」などと嘆くのは愚の骨頂。読書の真骨頂は、読んでいる最中に、余りの面白さ、余りの豊かさに、思わず身体が震えるほどの快感を感じることである。


 成長というものは、時間の経過につれて滑らかな直線を描いて進むものとは限らない。どこかで成長曲線の傾きは突如鋭角的に変化し、一瞬前と一瞬後で同一人物とはとても信じられないような人物に変化する瞬間があるのだ。それがヌルっ点である。ただし、その鋭角的成長が、必ずしもプラスの方向に向かうとは限らない。私のヌルっ点は、マイナス要素を非常に多く含んでいたかもしれない。


 「偉人の少年時代」を捨てたのもその一つ。小学生の段階で「偉人に成長していく可能性」をあっさり捨てたのが、あの一瞬だったのだ。おそらく、偉人の中でもごく平凡な偉人というのは、つまらないことでもキチンと我慢して学び、退屈な本でも最後まで我慢して読み通し、興味がない科目もしっかりマスターして満点を取りつづけるような人である。そういう人生が、小学生時代に読んだ偉人伝にも多く描かれていたはずだ。とりあえず、その方向性はあの段階で消えたのだ。


 もちろん、何か1つのことだけに異常なほどの面白さを感じ、1つのことだけが愉快で愉快でたまらず、その1つのことだけを突き詰める人生を送れば、それは別格の偉人である。そういう別格の偉人は、物理や医学や化学や経済学のある1点に集中して興味と関心を抱き続け、ストックホルムに呼ばれて表彰され、国王ご一家と食事を楽しんだりする。ただしそこまで別格の偉人になるには、まず「生まれつきの才能」というカベがあり、かつ、身の回りに余りに多く面白いことが転がっていてとても1つに集中できないという、凡人ならではのカベも立ちふさがっているのだ。