Tue 081216 体温41℃事件 オオカミ少年からの脱皮 強靭な肉体の獲得 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Tue 081216 体温41℃事件 オオカミ少年からの脱皮 強靭な肉体の獲得

 体育と図工が大キライだから、小学生の頃にはたくさんズル休みをしてゴマかしてきたが、細工をしすぎて大失敗したこともある。あの時は、大嫌いな図工が3時間目と4時間目に連続してあって、しかもキライな木島先生の授業で、さらに何だったか絵を描いてくる宿題をやっていなかったから、どうやってその時間を避けるか、朝出かけるときから頭の中はそれだけだった。
 

 そろそろ担任の先生も、今井がやたらに具合が悪いと言って早退したり休んだりするのに怪しさを感じている様子だったから、ある程度の細工が必要。毎回毎回ぜんそくの発作で息が出来ないとか言い訳して早退するくせに、翌日にはケロリと登校し、国語の時間に妙に反抗的な態度をとったかと思えば、給食の時間にパンを一口で食べてみせたり、ミカンの大砲を放ってクラスの喝采を浴びたり、1日1日の変化が激しすぎたのだ。先生としても、体育と図工の存在と今井の体調の因果関係を把握するのに、それほど長い時間は必要なかったものと思われる。手を挙げて、「具合が悪いから保健室に行ってくる」と申し出ても、あまり単純には信じてもらえないオオカミ少年扱いが始まった頃だった。
 

 まあそれでもいろいろ演技をして保健室へ。ぜんそくのフリをしようにも、ついさっきまで竹内だの桜田だのと走り回っていて、急に息が出来ないほどの発作が出るはずはない。保健室の先生もそれなりに疑ってかかり、「まず体温を測りましょう」ということになった。昔の体温計は、水銀柱である。腋の下にはさんで、2分じっとしているというタイプ。おお、これは切羽詰まってしまった。ここでうまくやらないと、3時間目から木島先生の図工に出なければならないし、宿題はやっていないし、場合によっては「具合が悪い」という理由での早退やズル休みについて、ある決定的な判断が下され、親が呼ばれて注意を受けるとか、これから先の早退&ズル休みのすべてが却下され、オオカミ少年の見本として見せしめを受けることになりかねない。これは、小学生としては完全に追いつめられたと感じる一瞬である。

 

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(炎のアタック)


 その時、保健の先生が何かの理由で席を外した。オオカミ少年としては、まさに千載一遇のチャンス。このチャンスを利用せずに、どうしてオメオメ図工の時間に耐えられるだろう。周囲を素早く見回すと、石油ストーブの上のヤカンのお湯がシュンシュン沸騰していて、その口から盛んに白い湯気を噴いている。これしかない、この瞬間しかない、と判断。体温計を腋から抜いて、湯気にあて、何とか水銀柱を上昇させて「熱がある」という結論に持っていきたい。とにかく平熱36℃では困るのだ。ただし、問題は湯気に当てる時間である。当てすぎれば、水銀柱は壊れてしまう。当てる時間が短すぎても、望む結果は得られない。乾坤一擲とは、まさにこの瞬間のことだったように思う。


 保健の先生が戻ってきたのは、その一瞬後。体温計を腋に戻す瞬間を見られたような見られなかったような、微妙なタイミングだったが、まあ間に合ったのだろう。「では体温計を見せてください」という言葉に何となく皮肉な響きがあったのは、おそらく担任から「仮病の疑いあり」の一言があったのだと思う。ところが、体温計を見た瞬間、彼女の顔色が変わった。水銀柱は、何と41℃まで上昇していたのである。よし!! さすが!!! 見事な腕前である。ちょっとやりすぎたことは確かで、38℃どまりにすべきだったのだが、小学生にそこまでのワザを要求するのは要求しすぎだろう。湯気にあてる時間が、ほんの2~3秒長過ぎたのだ。


 驚きの中で、まず額に手を当てられた。しかし、たった今燃えさかる石油ストーブに最接近してヤカンの湯気を浴びていたばかりである。確かに額も驚くほど熱かったのだ。担任が呼ばれ、母親が緊急の呼び出し電話で呼ばれた。「呼び出し電話」とは、自宅に電話があるとは限らなかった当時、近所に家に電話をかけて、その近所から用件を伝えてもらうシステム。何事にも消極的だった今井家には、昭和40年代後半になっても電話がなくて、迷いに迷った挙げ句とうとう山吹色のダイヤル電話が自宅にとりつけられたのは昭和50年頃のことであった。


 青い顔で母が駆けつけたのは、その30分後。保健室のベッドに横になったまま、後悔に苛まれながら母を待った。ただし、その後悔というのは、良心の呵責ではない。やりすぎた、2秒長かった、38℃どまりにすべきだった、なぜもっとうまくやれなかったのだろう、そういう種類の、とんでもない後悔である。この時のことについて、最終的に私がしっかりした「正しい良心の呵責」を感じたのは、もっとずっと後のこと、おそらくは高校生になってからのことである。


 かかりつけの「金子医院」に事情が伝えられ、「インフルエンザである」という前提で診察が行われ、しかしそのときにはもう完全に平熱に戻っていて、「おかしいですね」「おかしいですね」とみんなで言いあい、それから3~4日学校は休んでいいことになって、というより休まなければならないことになって、何度も何度も貝田と桜田と竹内がパンと牛乳を届けに自宅にやってきた。もちろんそのたびに、私が「サソリ座の女」を歌っていないか、玄関で3人が様子をうかがう気配があり、顔を合わせると「おまえ、うまくやったな」というニヤニヤした視線の交換があり、宿題のプリントが何枚か手渡されたりした。当時はガリ版刷り末期、コピー機が普及しはじめた頃である。コピー機でコピーすることを「ゼロックスする」と表現し、「今回のプリントはゼロックスでゼロックスしたものだから、大切にするように」などと言って、担任の先生も誇らしげだったものである。

 

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(魂のレシーブ)


 常習犯だったズル休みの日々は、これで終わりになった。小学生なりに良心の呵責があったのかもしれないし、「さすがにそろそろヤバい」というバランス感覚だったのかもしれない。しかし何より「カラダが弱い」ということについての憧れが消えたことが大きかった。昔の小学生は「偉人伝」というものを読むのが流行で、キュリー夫人とかシュバイツァーとか野口英世とかフルトンとか、偉人の伝記を読んで憧れをいだき、「自分もそういう立派な人間になろう」と決意するのがお決まりのルート。友人の中には「偉人伝全集」をズラリと本棚に並べて毎日読んでいるようなヤツもいたし、誕生日パーティーのプレゼントに偉人伝を買ってくる友人もいた。


 そういう偉人伝の中の偉人は、みんな「子供の頃はカラダが弱くて」「学校を休んで家で本ばかり読んでいた」のである。そういうものを読んで、子供が憧れをいだかない方がおかしい。「学校を休んで家で本を読みふける」姿に私も憧れ、ズル休みに早退を繰り返していた、というのが実態なのである。しかしズル休みしたから実際に「本を読みふける」かと言えば、そこがチャンとした偉人との違いで、サツマアゲをかじり、番茶の茶漬けをすすり、テレビを見て美川憲一を歌い、それでサソリ座とあだ名がつくようでは、とても偉人の少年時代を気取るわけにもいかなくなった。


 という訳で、「カラダの弱い偉人の少年時代」ごっこは、あの日で終わり。41℃の高熱を、わずか1時間で平熱に戻した鋼鉄の体力は、そこから高校時代まで皆勤、一切休みなし。代ゼミ時代の8年間など、「1週間90分授業29コマ」という離れ業を8年連続で難なくこなし、病気もしなければ、深夜までいくらでも大酒を飲む。いつの間にか、ぜんそくも完治。どうやら、あの日、41℃の高熱とともに私の子供時代は終わり、偉人として生きる夢もついえ、それと引き換えのように、幸せな健康と強靭な体力が手に入ったのである。