Sun 081214 パンやミカンを一口で食べる話 教室に描かれた放物線 | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sun 081214 パンやミカンを一口で食べる話 教室に描かれた放物線

 昨日書いたのが「給食にまつわる話3題」のうちの一つ。残り2つは、このブログに既に書いたことがあるような記憶があるので、ごく短く済ませようと思うが、そのうちの一つが「パンなんか一口で食べられるぜ」である。最近、同じことをした結果の死亡事故などもあったから、よい子の皆さんは絶対マネをしてはならない。おお、同じことをするイケナイ小学生はあれから長い時間を経てもいなくなってはいないのだ。私の父・三千雄はオハギを必ず一口で食べてしまう豪傑だったから、私もマネしてみたかったのかもしれない。
 

 当時はコッペパンという懐かしいシロモノだったのだが、小学生の男子の多くは、とにかく仲間の喝采を浴びることなら、一切の躊躇を省略してトライせずにはいないものだから、「オレなんか、パンを一口で食えるぜ」と宣言してしまったら、もう後には引けないし、後に引く気なんか最初から全くないのである。しかも「一口で食えるぜエ」と宣言した段階で、既に女子は喝采とニヤニヤ笑いの二手に分かれ、男子はイスの上に立つなり手を叩くなりして大声で囃しはじめているから、後に引くも引かないも、もともとそんな甘い選択肢など存在しないのだ。
 

 というわけで、自分の発言で自分を追いつめてしまった自業自得クンは、まず両手でパン1個を持ち、力の限り握りしめて硬い硬いオダンゴにしてしまう。オニギリを握る要領に近い。給食のやわらかいパンなどというものは、もともと中にたっぷり空気が入っているのだから、小学生の力でも、その気になればあっという間に一口大の小麦粉のカタマリに変貌させられる。食パンなら、もっと簡単である。余裕があれば、食パンでジャムやバターを包み込んで、それからカタマリに変える。これなら、それなりに旨くないこともないのである。

 

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(相変わらずの大漁)


 ここまでくれば、その硬い硬い小麦粉のカタマリを思い切って口に入れるだけである。それは「ポイ」という感じで、一瞬の出来事。うまく牛乳が残っていれば、それをゴクリとやっただけで、大きめの錠剤を飲み込んだのとほとんど感覚は変わらない。もちろん「三角食べ」だから、牛乳はしっかり残っているので、常識的には何の問題も生じない。だから、いつもならそれで全て終わり、男子の喝采を浴び、女子のブーイングを浴び、先生に軽く叱られ、それが全部、嬉しくて嬉しくてたまらない。
 

 しかし、小学生というものは、やたらに笑いたいものなのである。何がおかしいのかわからないが、チャンスがあればとにかく笑いたい。チャンスと言っても、別に吉本の芸人が出てくる必要はない。お笑い芸人なんか、クラスの面白いヤツに比べたら全然面白くない。小学生にとっては、同じパターンのネタを繰り返すだけの芸人より、前の席のヤツが変な顔をして突然振り返っただけで、今までの人生で一番おかしいのである。振り返るのは、昨日書いた桜田でも貝田でも竹内でもいい(なお、竹内については明日言及する)。鼻の穴を膨らませたり、派手な二重まぶたにしたり、喉の奥まで見えるほど口を大きく開けたりしただけで、それでいくらでも笑えるのだ。
 

 その「笑える」が、給食の時間で、口の中に固められるだけ固めたパンを放り込んだ直後であり、喝采を浴びながら誇らしい気分を満喫している瞬間であれば、これ以上ないほどの「笑える」になる。パンが喉の奥にあるから声が出せず、声が出せないからその分ますます笑いが止まらず、笑いが止まらないからますます笑いたくなり、そうやってグズグズしているうちにパンは空気と水分を吸ってどんどん元に戻り、元に戻れば体積が増し、体積が大きくなれば口の中をパンが満たし、飲み込むにも飲み込めず、吐き出すにも吐き出せず、にっちもさっちもいかなくなり、そのことがまたおかしくてたまらず、切羽詰まり、喉も詰まり、息が苦しくてたまらず、生きるか死ぬかの瀬戸際にいるような真剣な気持ちになり、これ以上真剣な瞬間はありえないほど真剣に「生きなければ」と思い、喉に詰まったパンに向かって「は」とか「ほ」とか「ポン」とか、何だか訳のわからない掛け声をかけ、掛け声とともにパンは口の外に飛び出し、紙玉鉄砲の実験のようにパンはキレイな放物線を描いて飛び、放物線の軌道はまさに教室の最前列で食事中の担任の先生の顔とつながり、「ポン」から2秒後か3秒後、見事に先生の額にぶつかって、一件落着となる。「だれだ?」「今井君です」という裏切り者はいくらでもいて、それでまた今井君はますます立派な「先生の対立概念」として定着することになる。

 

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(ニャゴ姉さんをモデルにしたのかもしれない箸置き)


 同じことが「ミカン一個、一口で食えるぜ」でも起こった。ミカンの皮を剥けば、パンを握って固めたのとほぼ同じ大きさになる。それを「一口で食えるぜ」と言って大騒ぎするのは、小学5年生や6年生なら当たり前のことである。「食えるぜ」と言えば、当然周囲は盛り上がる。先生がいても構わずに「食ってみろ!! 食ってみろ!!!」の大合唱になる。女子も全員、イヤな顔をしながらも心の奥はみんな集中して、ひたすら今井クンを見つめている。この状況で、もしも撤退するようなことがあれば、それはただの弱虫である。ついこの間、固めに固めたパンを口から大砲のように発射して教師を激怒させたことなんか、ものの数ではない。その程度のことがものの数になるようでは、男子として失格だと小6なら誰でも感じるのだ。


 で、状況は固めたパンと同じになる。三浦なり岩谷なり相川なり松本なり、要するに誰でも構わない。鼻の穴を暗い洞窟のように大きく膨らませて振り向いてみせただけで、もう世の中の何より面白い。面白ければ、喉が詰まり、喉が詰まれば口の中に詰まったものを発射したくなり、紙玉鉄砲2号は再び火を噴いて、皮を剥かれた丸いミカンは、模範的と言えるほどキレイな放物線を描いて教室の前方に飛んでいく。今思えばほんの2mか3mなのかもしれないが、当時はまるで甲子園球場のレフトスタンドに飛んでいくホームランのように思ったものである。
 

 美しい放物線の向こうには石炭ストーブが赤く燃え、石炭ストーブにミカンがぶつかってジュッと湯気が上がり、仲間たちは大爆笑してつつきあい蹴とばしあい、女子20人は何が可笑しいのか見当もつかずに眉を顰め、先生は面倒だから職員室に戻り、それで全てが終わりになって、教室の片隅には、誰も顧みない皮なしミカンがゴロッっと転がったまま、やがて5時間目が始まり、6時間目が終わり、帰りの反省会が終わり、反省会ではまた今井君の悪事がいろいろ披露される。やがて生徒たちはベートーヴェン交響曲6番に歩調を合わせて帰り、教室はウソのように静まり返って、ミカンがどこに行ったのか、翌日には誰も気遣う者はなかった。