Wed 081203 現代文の授業を切るな 「読み方は一つだけ」と決め込むな | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Wed 081203 現代文の授業を切るな 「読み方は一つだけ」と決め込むな

 ツキノワさんが冬眠から醒めたのは、午後3時である。すでに夕暮れの気配が漂い、夕暮れの気配はクマさんの自堕落な生活を無言で厳しく責める。少なくともそういう生活は大学を卒業した段階でヤメにすべきモノではないか、この時間帯、あなたぐらいの年齢のオジサンは、みんなパソコンに向かって着々と仕事をこなしているものですよ、と夕闇は言うのである。こういう夕闇の小言はつらい。
 

 夕方のニュースで「今日は暖かい1日でした」と言われても、暖かい1日を冬眠して過ごしてしまうと、日本中のマトモな人たちとの接点が断たれてしまったような焦燥を感じる。

 

 今日1日でツキノワさんの頭に残っているのは、午前2時半すぎの冬の街を、なかなか通らないタクシーを求めて歩いた暗い夜の記憶だけである。5分歩いて、何とか個人タクシーをつかまえたが、いい運転手さんだった。「不況なんですかねえ、赤坂にも新宿にも、全然人が出ていませんよ」と、彼は溜め息をつきながら、穏やかに街の様子を語っていた。
 

 さて、こういう生活をオジサンになっても時々楽しむのが、真のちょいワルである。ジュエリーオヤジ、ゼンマイオヤジなどという気持ち悪いものは、もう時代遅れ、というより言葉自体も死語になっている。

 

「国語の得意なちょいワルのなれの果て」を今自分でやっているのだが、正直言って決して不幸ではない。身を置いた場所も居酒屋、頭の中も居酒屋、人生それ自体が居酒屋。来る日も来る日もお祭りみたいで、イワシをかじり、ハムをかじり、腹の中はオリーブだらけ、安いワインをいくらでも飲んで、これがつらいようだったらおかしいだろう。実在の人物とも架空の人物ともたくさん語り合い、小鳥は可愛すぎて話していると食ってしまいかねないが、ネコや犬とも語り合い、ネコを相手に大いに酒も進む。

 

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「キミは、どういう意見ですか?」


 国語という科目も、そういうふうに楽しむ余裕さえあれば、本来誰でも得意になるはずなのだ。国語がキライ、あるいは国語が苦手、という子どもは、おそらく楽しむ余裕を欠いているのである。

 

 複眼的価値観とか、祝祭的思考がなくて、直線的に1個の結論に向かって突き進んでいくことのみに汲々としていれば、国語という科目の楽しみはわからないだろうし、道草とムダを楽しむすべを知らなければ、小説も随筆も、論説文でさえ、道草大好き人間の書いたタワゴトにしか見えない。
 

「筆者の言いたいことを皆で考えてみよう」、などと国語の先生が言うからイケナイのだ。国語のキライな子どもなら、「言いたいことがあるならハッキリ言えばいいのに、小説とか戯曲とか詩とか、ワケのわからない文章を書いてウダウダグズグズ言っているのが国語」と勘違いしてしまう。

 

 随筆なんて、言いたいことさえないのに、「思いついただけの、これといって意味のないことを、何となく書いたから、くだらないとは思うが、まあ読んでくれ」と来るのだ。

 

「何をバカなことを言ってんだ、時間のムダだ」、と思い、「そんな下らないものを読んで時間のムダをせず、確実に得点のとれる英語と数学に時間を使おう」、そう考えるから、予備校に通う生徒はすぐに「現代文の授業は、切る」と言い出す。
 

「切る」とは、予備校用語で「ムダだから、もう授業に出ない」という意味。現代文なんか、日本語なんだから、別に授業に出なくても自分で何とかなる。授業に出ても出なくても結局よくわかんないから、「切っちゃって」、その分数学と英語に時間を回すというのだ。この行動こそが、国語の面白さをわかっていない証拠だし、ついでに言うと、致命傷になることが少なくない。
 

 予備校には「チューター」とか「アドバイザー」とか「ケアスタッフ」とか、いろいろな名前で呼ばれる大学生のアルバイトがいて、生徒諸君に「先輩としての学習アドバイス」などをするのだが、そういう大学生が「現代文なんか、ムダだから切っちゃえよ」と臆面もなく彼らの経験を語ったりすることさえある。

 

 無責任きわまりない話で、そういう先輩の話を決して素直に聞いてはならない。よく顔をみて、聞く価値のあるアドバイスができる立派な先輩かどうか、見極めること。「時間がないから授業を切る」というのは、愚かである。「時間がないからこそ、授業で効率よく補強する」のが正しい考え方である。受験生諸君は、もし「現代文なんか切ったほうがいいぞ」と言われたら、そう言い返すようにしてくれたまえ。

 

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「それは、つまり、こういうことですか?」


 一方、国語の先生は、生徒たちがみんな国語の授業を切ってしまって教室がガラガラになるのはイヤだから、「何とかして国語が好きになってもらいたい」といろいろな工夫を重ねる。

 

 ちょいワルたちは現代文の先生が大好きで、まあ彼ら彼女らが授業を切ったりすることはないから、先生たちの努力は「悪い子イケナイ子」向きのものではなくて、直線的思考を好み道草のキライな「いい子」向けのものになる。「普通の子」つまり「いい子予備群」=「いい子たちほど頭は良くないが、道草はいけませんとママに言われて育ってきた素直な子」も、国語の先生の努力の対象である。
 

 その時、国語の先生の努力には2種類あるようである。1つめは、道草の喜びを理解させるのはあきらめて、誰でもさっさと理解でき、さっさと得点に結果が出る分野に絞る、という方向性である。
 
「あきらめた」では人聞きが悪いから、「まずそういう分野を完璧にして」という言い方をし、知識分野だけで丸々1年過ごしてしまえば、それなりにごまかせるのである。漢字、文法、故事成語、ことわざ、文学史。これなら、複眼的思考も、ちょいワル的な居酒屋頭もいらないから、簡単に結果が出る。中学受験から大学受験まで、その種の「国語の力は、漢字の力」みたいな先生は意外なほど多い。
 
 しかし、そういう知識分野は難関校になるほど出題率は下がっていくから、努力を惜しまない優れた先生たちは、2つめの方向に向かって果敢に挑むことを決意する。「いい子」もスキになれるように、文章を「1つの価値観だけで」「直線的に」理解できるように工夫するのである。
 
 むかし駿台予備校現代文科の藤田修一師が開発した「記号読解」というのがあった。文章中のキーセンテンスにAとかBとかA’とかB’とか記号をつけ、まるで数学の問題を解くように「筆者のイイタイコト」を分析するのである。まさに「いい子向き」の作戦、いかにも駿台的。決して悪いことではないし、苦手な子供たちの間では、まあそれなりに人気もあった。
 
 ただ、今度は国語のスキな生徒たちが、現代文の教室に来なくなった。そんなことをしなくても文章を普通に読めばわかることだし、何となく面倒で、つまらなくて、国語の授業を受ける醍醐味と躍動感が感じられなくて、今の言葉で言えばウザかったのだろうと思う。
 
「全ては数学的論理で解決できる」「文章には必ずイイタイコトがある」「イイタイコトがないのに文章を書くはずがない」という発想で現代文の授業を進められた時、生意気なちょいワル高校生なら、「そうとも断言できないんじゃないか」と反発するのも当然である。ついでだが、いちいち「イイタイコト」をカタカナで書くのも、ウザかったのだと思う。
 
 そういう「記号読解」「数学的読解」に反発した国語大好き人間の代表として言わせてもらえば、国語の文章とはもっと複眼的で、多面的で、たくさんの悩みと迷いと、ためらいがちな伏線をもち、他人と違う視点、他人と違う感じ方、他人と違う論理展開、その人にしかない言葉の遣い方や表現、数学的論理では捉えきれない飛躍と跳躍と矛盾を含むものである。一言で言えば「記号読解的読解」を拒絶するベクトルをもつ。
 

 しかも、問題制作者は、そのような他人と違う視点・感じ方・論理展開、個性的な言葉の遣い方や表現、飛躍と跳躍と矛盾などに特に注目して、そこに傍線なりアンダーラインなりを付して、「この表現について説明せよ」「この飛躍を結びつけよ」「この視点と一致するものを次の4つから1つ選べ」などの設問を作るのである。単なる論理の力を問いたいなら、数学の試験で十分だ。国語の試験では、もっと別の力を試したいのである。

 

 

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「私は、そうは思いませんね」


 だから、「読み方は1つ」「イイタイコトは1つ」と性急に決めつけてクリックしながら直線的に読み進む姿勢を変えれば、現代文は得意になりやすい。いろいろ、今までとは違うことをやってみると、頭が多面的に働き始めて、信じがたいほど楽しくなるはずだ。

 
 1行1行堅実に読み進めるだけでなく、各段落の第1文だけ拾い読みしてみるのも楽しい。そういう読み方で新書判の本1冊を1時間で読んでみると、返って理解度が増していることに気づいたりする。そういうマクロの読解にも、たまにはチャレンジしてみるといい。
 
 先生と違う視点でものを考える、作者と違う視点に立ってみる、主人公以外の人物の視点で物語を見るなどなら、机に向かわなくても出来る。
 
「伊豆の踊り子」を、踊子側から書き直したらどうなるか。「走れメロス」を、人質として捕われた友人の心の葛藤を中心に書き直したらどうなるか。漢字の読み方を間違えただけで小バカにされている日本の首相を、おじいちゃんが大好きな彼の孫の視線で捉えたらどうなるか、などである。
 
 野球観戦をするときに、大差をつけられた試合での敗戦処理ばかり任されるピッチャーの気持ちになってみるなどというのも、想像力の訓練としてはいいかもしれない。味方のエースが投げ、いま3-0で勝っている試合を、敗戦処理専門で来季は2軍暮らしになりそうなピッチャーがどんな心理で見ているか。
 
「今晩は出番はなさそうだ」と思いながら寂しくグラウンドを見つめる彼の心にシンクロし、彼の妻または恋人がどんな思いでこの試合を見ているかを思って野球を見ると、同じ試合が全く別の様相を帯びてくる。
 
 要するに、学校の国語の先生が言う「登場人物の気持ちになってみなさい」であり「想像力を豊かにしなさい」「物事を柔軟に考える練習をしなさい」であるが、こういうのを居酒屋目線と呼ぶなら、居酒屋目線を身につけると、もう退屈することはない。テレビもゲームもケータイもいらない。次から次へと問題が立ってきて、頭の中のドアを押して、島崎藤村とバッハとダビンチとエリン・ブロコビッチとチャップリンと長嶋茂雄と、いろんな人がドカドカ闖入してくるから、忙しくて眠っている暇もない。
 

 こんなことをしてニヤニヤ遊んでいるうちに、現代文は面白みを増していく。漢字と諺と文学史だけやった知識面だけの国語力や、記号でパズルみたいに読み解いた読解力とは、1段も2段も違う骨太の国語力をつけるには、こんな遊びが不可欠だと思う。

1E(Cd) Zagrosek & Berin:SCHREKER/DIE GEZEICHNETEN 1/3
2E(Cd) Zagrosek & Berin:SCHREKER/DIE GEZEICHNETEN 2/3
3E(Cd) Zagrosek & Berin:SCHREKER/DIE GEZEICHNETEN 3/3
4E(Cd) Nevel & Huelgas Ensemble:Canções, Vilancicos e Motetes Portugueses
5E(Cd) Sequentia:AQUITANIA
8D(DvMv) Mr. & Mrs. Smith
11D(DvMv) DIE HARD
total m21 y2000 d2000