Sat 081129 成績を急上昇させるな 目からウロコを連発するな 感動するな | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Sat 081129 成績を急上昇させるな 目からウロコを連発するな 感動するな

 予備校に通って「 … 先生の授業で成績が急上昇」「目からウロコが落ちた」みたいなことがあれば、もしそれが本当なら誠に素晴らしいことである。大いにおめでたい。宣伝や広告、塾のパンフレットにはそういう体験記が所狭しと掲載されていて、広告を信じる限りでは、どうも日本中の塾と予備校で奇跡やミラクルが毎日ホイホイ調子よく起こり、そこいら中で目からウロコがボロボロ落ち、落ちたウロコだらけで魚屋の店先同然、塾の近所が生臭くなりそうな勢いである。生徒たちの話を聞いていると、どうも予備校の授業には「感動」が満ちあふれているらしい。廊下で生徒たちが群れて熱心に話しこんでいるから、どうしたのか聞いてみると、口を揃えて「感動した」「感動した」を連発する。何に感動したのかと聞くと、「 … 先生の2学期最後の授業に感動した」「歌を歌ってくれた」「人生を語ってくれた」「ファイトが出た」「勇気をもらった」「仮定法の説明に感動した」「数列の問題の解き方に勇気をもらった」「ボクも感動を与えるような教師になりたい」「教壇でバク転してくれた」「教壇でタンゴを踊ってくれた」など、ありとあらゆる驚くべき返事が返ってくる。教師たちはいったい教室で何をやっているのだろう。もし私が経営者なら、不安を感じ調査を命じる所だが、あいにく私も講師の一員であって、感動を与え勇気を与えている騒々しいメンバーのうちの一人なのである。

 

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(手の表情)


 まず、生徒も父母も「『成績が急上昇』は大いに危なっかしいことだ」、という認識を持った方がいい。急激に上昇したものは、急激に下降する。以前書いたことがあるが、9月以降の株価の乱高下を見ればわかることだし、ディズニーに出かけてCENTER OF THE EARTHを経験すれば、子供でもわかることだ。


 最近の投資家の行動を見ていると「株が下がるとあわてて売り、上がるとあわてて買う」つまり「安く売り、高く買う」という異常行動が目につくが、それは投資ではなく投機である。資金に余裕がないのに投資と投機を見間違えるのは自殺行為だ。いや、既にそれは「投機」ですらない「投棄」であって、カネをドブに投げ捨てる行動であり、市場が未成熟で投資家がキチンと育っていないと、こういう恥ずかしい状況を呈することになる。一般の人間が持たなければいけないのは、「短期の取引で急激に儲ける」ことではなくて「長期にわたる投資をして、自分のカネと投資先の企業をじっくり育てる」という視点である。「儲ける」と「育てる」の区別をつけてから行動しないと、痛い目に遭うのは当たり前である。


 成績も「急上昇させる」ものではなくて「じっくり育てる」ものである。1年かかると思ったら1年半前に始め、1年半かかると思ったら2年前に始めて、時間の余裕をたっぷりとって、焦らず、性急に結果や上昇を求めず、着実に伸ばし育てるのが正しいのだ。ちょっと努力したからすぐ結果が出るだろうと思って、チョコマカ動き回っているのは邪道である。というより、騒々しいし、バカバカしい。そんなにチョコマカして腰が落ち着かない状況では、たとえ何かのハズミで急上昇したとしても、すぐに必ず急降下する。株価が急激に下がった翌日に猛反発するのと同じで、そんな急上昇には何の価値もない。差し引きゼロならまだいい方で、差し引きすれば下がっているのが普通なのだ。

 

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(白い手袋が自慢)


 目からウロコが落ちてばかりいるのも、明らかに異常である。というより、ウロコというものをバカにしてもらっては困る。目にウロコが育つのにだって、長いしっかりした努力が必要なのである。何ヶ月も何年も真剣な努力をして、その努力の中で育ってしまった固定観念のことをウロコと呼び、優れた教師との奇跡的な出会いによってその固定観念を打破した瞬間に「目からウロコが落ちた」「今までの努力に一つだけ間違いがあった」と溜め息まじりにつぶやくのが正しい使い方なのだ。固定観念のウロコがとれたとき、それまでの努力が一気に花開いて正しい方向に修正され、爆発的に結果を出し始めるのが「目からウロコが落ちる」という感動体験である。努力を積み重ねたわけでもなく、努力の方向性がずれていて誤った固定観念が出来ていたのでもないのに、立派なウロコなんか出来るはずがない。努力しても努力してもどうしてもダメだった、そういう苦労人だけに許されるフレーズなのであって、努力を開始して間もない人間が「ウロコ」などと言うこと自体が生意気というか、勘違いなのである。


 だから、初心者は、目からウロコが落ちたなどという前に、まず分厚いウロコが出来てしまうぐらいにしっかり着実に努力を積み重ねることが重要。英語なら、単語熟語集を3回でも4回でもやり抜き、英文法の問題集の答えを暗記するぐらい繰り返し、高校のリーディングの教科書を30回でも50回でも音読し、しっかりした硬いウロコをくっつけてから、素晴らしい授業を受けに行きたまえ。そういう諸君だからこそ、剥がしてあげたい大きなウロコがある。そういうウロコだからこそ、ウロコを落とした瞬間に奇跡的に伸びる可能性が高いのである。


 「感動」という言葉も、不用意に使われすぎている。確かに私の世代も、小学校以来の先生方に「感動しなさい」「もっと心を動かしなさい」と耳にタコができるほど言われ続けてきた。理科の実験をしても、歴史の逸話を聞いても、遠足でも運動会でも社会科見学でも、とにかく感動が大切。物語を読んで、別に感動していなくても感想文には「感動した」と書かなければならなかったし、感動しない人間はダメ人間だ、存在しないに等しい、生きていても仕方がない、というような言い方で叱られたことも少なくない。子供はほめられるのが大好きだし、ほめられるには「感動した」とウソをつくのが一番早道だから、別に感動していなくても「感動した」と口にするイヤなクセがつきやすい。

 

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(足も少し自慢)


 結果として、至極簡単に感動する若者が増えた。私なんかは昔の人間だから、感動などというのは一生で10回あるかないかの貴重きわまりない体験だと思って大切にしたい方なのだが、生徒たちはやたらに感動し、感動を浪費する。英文法の授業で感動し、物理の授業で感動し、先生の歌や踊りやバク転や人生論で感動する。感動させればさせるほどアンケートがよくなり、感動させるほど給料が上がり、感動させるほど単科ゼミの数が増えて、要するに立場がよくなるから、予備校講師はひたすら感動を狙い、感動を煽るのである。


 ニセの感動を煽る努力を怠り、ごく普通に理解させ、理解によって成績をあげることに夢中になる誠実な講師については、「あいつの授業はわかりやすいが、感動はない」という意見が支配的になり、クチコミなり情報交換なりで「わかりやすいが感動はない」という悪口が定着する。これは完全に間違っている。仮定法だの、前置詞だの、冠詞だの、その程度の文法事項の説明でいちいち感動しているのは、感動の本質を誤解しているのである。


 感動は、着実に成績が上がり、ウロコを落としてもらい、1年前には絶対ムリとあざ笑われた志望校に合格し、家族やカレシやカノジョと肩を叩き合い、勝利の雄叫びを上げる瞬間までとっておくべきものである。感動の垂れ流しは、人生を誤るモトである。いや、本来なら、志望校に合格した程度で感動などしていてはいけないのかもしれない。感動は、もっともっと大切に、出し惜しみに出し惜しみを重ねて、それでも抑えきれなくなって爆発したり、心の信じがたいほど奥の方から激しい勢いで噴出したり、一生で2回か3回あるかないか、そういうものだと思っているのが正しい認識だと思う。

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