Thu 081120 「どれ、見せてみろ」と言うな 「お父さんが受験生の頃にはな」は決して言うな | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 081120 「どれ、見せてみろ」と言うな 「お父さんが受験生の頃にはな」は決して言うな

 「父親力」や「父親の役割」についてジャーナリズムが騒ぎすぎるせいで、家庭内では本来なら起こらずに済むいろいろな問題が発生する。予備校講師の立場で言わせてもらえば、せっかく塾や予備校に任せてしまったのなら、お父さんは安心して任せていた方がいいし、任せる気がないなら最初から子供に全て一人でやらせてあげた方がマシである。受験雑誌には「父親が起こした奇跡」のような記事が溢れているが、そういう記事は例外中の例外。パパたちの中に残っている「ミラクル君」的なヒロイズムをくすぐって、販売部数を伸ばそうとしているだけのことである。中でも一番困りものなのが「どれ、見せてみろ」と「お父さんが受験生の頃にはな」の2つ。そういう余計な口出しをすると、親子ゲンカの元になり、夫婦の冷戦を激化させ、子供はせっかくのやる気を失くさせ、受験勉強の効率をワンランクもツーランクも低下させてしまうことになりかねない。


 まず「どれ、見せてみろ」である。学歴が高くて、今もなお学力に自信がある父親ほど、この「どれ、見せてみろ」をやりがちであり、それが失敗のもとになる。もともと「自分ができること」と「それを子供に教える能力」の間には大きなギャップがある。父親が理科系大学院卒なら、数学でも算数でも理科でも、子供が苦労している問題をチラッと眺めた瞬間に解き方がわかってしまうのは当たり前である。
 

 自分が解けるものだから、ついつい「どれ、貸してみろ」が出てしまい、そこから先はほとんどの場合、地獄絵図になる。方程式、プラスとマイナス、移項、平方根、逆数、関数、解の公式、そういう数学用語が小学5年生相手に連発され、たかが虫食い算一つ教えるのに、一時間かかっても全くラチがあかない。結局「お父さんに聞いても、全然わからない」ということになり、「お父さん、頼りにならないわね」「これからは、お父さんに聞いちゃダメよ」と続き、ダメ押しのパンチが「うちは、父親力がないから」の一言である。
 

 こういうのは「自分が出来る」と「教えられる」を混同した結果である。塾講師は、父親に比べて学歴は低いかもしれないし、社会的地位も低いことがほとんど。しかし、たとえ文系の学部卒でも、小学生に算数を教えることについては、彼らはプロなのである。父親がノーベル賞受賞者並みの能力があって、90分あれば高等数学や量子力学の理解に向けて子供の目を開いてやれるような自信の持ち主なら別だが、中途半端に「オレにやらせてみろ、こんなのは簡単だ」という口出しをするのは、絶対に避けた方がいいのだ。

 

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(ナデシコ的思考1)


 文系のパパが、社会や国語に口出しするのは、もっと禁物である。地理分野も公民分野も、パパが勉強した時代とは大きく変化していて、パパにとっての常識の中には、もはや世界の非常識になってしまったものも少なくない。歴史分野でさえ変化するのだ。30年前の日本史の教科書と今の日本史の教科書では、人物の挿絵や評価さえ大きく変わっていたりする。うっかり口出しすると「お父さんって、間違いばっかりだ」ということになりかねない。
 

 「お父さんが受験生の頃には」で始まる会話は、特に大学受験生の子供とのケンカを引き起こしやすいから、この言葉をはそれ以上に禁物。決して口に出さない方がいい。「お父さんが高校生の頃はな、塾や予備校なんか、通わなかったものだ。英語なんか、自分で出来るだろ。単語集一冊をボロボロになるまでやってみろ。あとは、英文解釈の参考書を1冊選んで暗記するほど繰り返せば、東大でも何でも合格できるもんだ」というのが、最もありがちなお説教の典型である。
 

 確かに一理ある話だし、30年前なら、そういう勉強で難関大学でも十分突破できたかもしれない。しかし、21世紀に入って英語の入試傾向は大きく変化し、今や「1冊の参考書をボロボロになるまで、むさぼるように」やっても、それが合格に直結するほど、大学入試英語は単純ではなくなってしまった(080831参照)。難関校ではほぼ例外なく信じがたいほど大量の英文を読ませ、ノーマルスピードに近いリスニング問題を課し、英作文も100行以上になる自由英作文が主流。プロの講師でも、生徒たちに教えるのは容易はでない。量的にも質的にも、結う羽刕な高校生でさえアップアップしているのが現状である。


 そういうつらい訓練をやらされて、精神的にも肉体的ヘトヘトになって塾から帰ってきた息子や娘に向かって、「お父さんの頃はな」が始まっても、子供からみると「超ウザイ」だけだ。「はいはい、昔はよかったですねえ」「何だと、お父さんはな、お前のためを思って言ってるんだゾ」「余計なお世話だって」「何を」「時代が違うんだから、ほっといて」「そのクチのききかたは何だ。だいたいな」「いいから、からまないで。疲れてるし、ハラ減ってるし」「母親が悪いな」「何ですって」、で、あとはお馴染みの地獄絵図である。

 

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(ナデシコ的思考2)


 進路についての「お父さんの頃にはな」は、もっと禁物である。「大学の選択」「学部の選択」、そういう話になってしまって、父親と大ゲンカになった経験は、今40歳代50歳代の親にもあるはずだ。その話題こそ、親子の大ゲンカの地雷原なのである。特に「文学部に行きたい」と言い出した息子vs父親の対立は伝統的な図式。「文学部なんかに行ったって、就職できねえぞ」「法学部とか経済学部とか、もっとツブシのきく学部にいくもんだ」「ツブシってなんだよ、それよりオレは文学部でやりたいことがあるんだ」「お前みたいな平凡な人間が文学部にいってどうなるんだ。高校教師にしかなれないぞ」という親子ケンカを30年前にオヤジと繰り広げた思い出が、今父親になっている世代には多いはずだ。高校教師は人生を捧げるに足る素晴らしい職業だと思うが、私なんか「文学部に行きたい、東大文Ⅲに行きたい」と言ったら、「高校教師にしかなれないぞ」と、何と高校教師に言われた経験さえある。


 その地雷原「文学部」は、自ら名称をいろいろに変えて変装し、親子ゲンカの温床になるべく大学の世界に巧みに身を潜めている。「国際教養」「教養人間」「キャリアデザイン」「教育人間」「ライフデザイン」「情報人間」その他、キーワードは教養・国際・ライフ・キャリア・人間・文化・環境などであるが、正直言って、今の状況は仕事で忙しい父親が把握できるような甘いものではなくなっている。「オレ、教育人間に行く」「アタシは、情報人間」と息子や娘が言い出したとき。父親として「なんだ、そのバケモノみたいなのは」と口走ってしまう気持ちはわからなくもない。オランダに「グロニンゲン」という都市があるが、親にとって大学の学部は、まさに子供を強奪するグロ人間みたいなものなのだ。

 

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(ニャゴロワ的思考放棄)


 で、始まってしまう。「お父さんの頃にはな。まず、就きたい職業を決めたもんだ。そしてその職業にとって有利な学部を決める。それで最後に、その学部が有名だったり、有名な教授がいたりする大学を選ぶ。決して偏差値では決められないものなんだ」という大演説である。これが、子供にとって「これ以上は考えられないほどウザイ話はない」類いの昔の夢物語なのである。「では、お父さんは最終的に、その『就きたい職業』につけたのか。そんな選択をして、結局、夢をあきらめて普通のサラリーマンになっただけではないか」という問いかけが、親子の間でのタブーになっているのは子供もウスウス気づいているから、その決定的な地雷原には近づいてこない。「ウゼえ」「メンドイ」「宿題がある」「ネミー」「カッタリー」に類する捨てゼリフで子供が勉強部屋に去ってしまうのは、実は父親に対する思いやりと、決定的な地雷を踏むまいとする見事なバランス感覚だったりするのである。


 子供が将来の選択をしようとするとき、親や教師の助言は無用のものなのではないか。我々より一世代昔の優秀な学生は、鉄鋼・石炭・造船を就職先として選択した。我々の世代は、証券・銀行・不動産・保険を選択した。弟妹や甥姪は、IT業種を選んだ。構造不況業種や、金融大不況の渦中に立たされる業種や、一瞬のバブルに浮かれるだけの業種を選択してきた我々が、次の世代に向かって「オレが若い頃にはな」などと、人生の先輩ぶってアドバイスじみたことを言い始める必要はないのかもしれない。教育人間だろうと、グロ人間だろうと、彼ら彼女らが将来自分の選択に責任を持てるというなら、諸手を上げてその選択に賛成してあげる方がいいのかもしれない。少なくとも、17歳18歳になった段階で、彼らの選択を尊重することもなく、頭ごなしに「就職できないぞ」などと言ってその選択を否定するのはおかしいだろう。