Mon 081117 塾の奴隷になるな 塾のカバンを使うな 志望校を変更するな | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon 081117 塾の奴隷になるな 塾のカバンを使うな 志望校を変更するな

 情報が少ないところには、当然デマが広がりやすい。「連立方程式を使うと0点」などに代表されるバカげたデマが、デマのくせに「クチコミ」の名を借り、カフェでの情報交換で際限なく広がっていくのは、甚だ苦々しい光景である。こういう状況では、情報を一手に握っている存在、あるいは情報を一手に握っているように巧みに見せかける存在、いかにも裏情報にも通じ、その裏と何らかのパイプでつながっているように感じさせる存在の支配力が強くなる。大学受験ではそれほどでもないが、「単願」「専願」「推薦」「確約」など多種多様な制度が入り乱れる高校入試の世界になると、「塾の言うことを聞かないと合格できないのでは」という不安が大きくなって、塾の支配力は一気に高くなる。
 

 一昨日書いた中学受験の算数についての神話はその好例だろうし、もっと情報が限定される小学校お受験の世界では、生徒も父母もほぼ「塾の奴隷」状態。志望校決定から受講すべき講座の選択・普段のしつけや親子の会話の内容・面接試験での服装や靴の色や髪型・面接時の発言や控え室での行動の仕方まで、完全に塾の指示通りでなければ合格は難しいと断言されるのである。
 

 対象年齢を5歳6歳まで引き下げた入学試験になると、子供の能力やポテンシャルを客観的に測るのは困難を極める。「お箸で豆をつまんでみましょう」「クマさんのマネをして歩いてみましょう」という試験でどうやって点数をつけるのか見当もつかないが、実際に「クマさん歩き」は試験でも課されるし、小学お受験塾の定番でさえある。信じがたい、というよりセクハラ以外の何物でもないと思うが、試験会場に同伴したタイトスカートのママたちにも同じ「クマさん歩き」を要求した小学校があるのだという。こういう客観性を保てない試験、選ぶ者の主観や好みに委ねられる試験で、不安からデマが闊歩し、デマが闊歩するところでは、「情報を持つ」と自称する者の支配力が高まるのは当然の成り行きである。

 

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(浅田ニャゴ、トリプルアクセルに挑戦)


 この状況は、就職試験、大学生のいわゆるシューカツでも変わらない。男子も女子もほぼ同じデザインのグレースーツ。ワイシャツもブラウスもネクタイも髪型も同じ。男子学生のまるでニワトリのトサカのような髪型を見るたびに、今すぐに日本を変えたくなる。チェインジすべし、である。中学受験も同じこと。首都圏では、夜10時頃のターミナル駅に塾帰りの小学生を大量に見かけるが、紺の地に「N」の文字が大きくデザインされたリュックのようなカバンを背負ったたくさんの小学生を見たら、マトモな大人なら悲しくならないはずはない。これでは、生徒を塾の宣伝媒体にして、まるでチンドン屋のように街中を練り歩かせているようなものである。もちろん、懸命に勉強している塾生はたいへん立派。問題は塾側の考え方である。有名中学の入試当日、中学校の入り口に「N」のカバンを背負った大量の12歳たちが黙々と列を作っている様子は、見るからに全体主義的で、滑稽。チープなギャグのようだ。日本の光景として外国人に見せたくない光景のNo.1と言ってもいい。

 

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(浅田ニャゴ、ジャンプ失敗、転倒)


 塾の奴隷になるのは、デマにとらわれるのとほとんど変わらない行動であり、そういう受験生は、評価する者から見て、人間的魅力の欠ける存在である。シューカツするなら、せめて明るいグレーのスーツや、せめて紺のスーツで自らを際立たせてはどうか。ピンクとまではいかなくても、少しぐらい個性の主張できる若者がほしいと、マトモな大人ならみんな思っている。
 

 「会社人間は組織にとけ込むことが大切。個性を主張するような外見は嫌われますよ」というデマがどこから出るのか、およその見当はつく。しかし、そのデマの元になっている人間が、本当に「組織にとけ込み、組織に順応した会社人間」なのか、本当に組織の中で巧みに生き抜いてきた人なのか、となると、冷静に考えればすぐにわかるが、それはたいへん疑わしいのである。人に羨まれる超一流企業の中で勝ち抜いてきた一流の人間は、予備校なんかで教えてはいないし、就職コンサルタントなんかになって大学生相手にカラ威張りなんかしていない。
 

 だから、どんな年齢でも、塾や予備校の奴隷になってはいけないのである。塾の奴隷は、魅力が全くない。魅力がない人材が、他人に選ばれることはない。塾から与えられたお揃いのカバンを嬉々として背負っているようでは、中学校の先生から見て魅力はないだろうし、「組織人間的な中学生」などという滑稽なものを求めている中学校なら、合格しても行かない方がいい。

 

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(浅田ニャゴ、魅惑の高速スピン)


 特に気をつけなければならないのが、塾で行われる「二者面談」「三者面談」なるものである。面談の場では、ほとんど全ての受験生が「思わしくない成績表」をつきつけられ、それを材料に志望校選定を話し合うハメになる。「文句のつけようのない好成績」など、とっている生徒はごくわずか。多くの生徒と保護者は、「この成績では、とても第一志望は無理ですね」と諭されるばかり。まだまだ合格可能性は残っていると感じていても、目の前に成績表をおかれ「ああー、その志望校は危険ですね。ワンランク下げて、ここはいかがですか」と言われてしまうと、もうグーの音も出ない。
 

 最近はパソコンに生徒のデータが入っていて、面接の先生はパソコン画面を眺めながら「ああー、無理ですね」「うん、ちょっとね、危険だね」「ああー、志望校、下げた方が無難ですね」をやることになっている。パソコン画面ばかり見ていて、相手の顔も目も見ないで話をする失礼きわまりない態度は、最近は大きな病院の医師たちも似たようなものだが、風邪を引いて病院に行ったのとはちょっと話が違うのだ。子供の一生、自分の一生がかかっている。ああそうですかと奴隷のように引き下がってはいけない。
 

 そういう面談の時には、とにかく夢中になっているから、自分が本当に目指してきた志望校とは似ても似つかない志望校を提示されても、思わず頷いてしまうものである。例えば「ああー、東大文Ⅲは、ちょっととどきませんね。京都の文学部ではどうですか」と言われて、すぐに受け入れてしまうのは、「偏差値さえある程度高ければOK」とあさましく考えている証拠。東大と京大では(特に文学部なんかは)全く校風が違うのだ。予備校の面談で「ちょっと無理」と言われても簡単に変更などしてはならない。それはもちろん他の入試でも同じこと。残り数ヶ月の自分の努力を数倍にし、力ずくでも合格圏にのし上がっていく決意とともに、そんな提案を断固拒絶して第一志望を貫くべきである。

 

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(浅田ニャゴ、華麗なステップで観客を魅了)


 「そんなに頑固に第一志望を貫いて、万が一玉砕したらどうするんですか」と尋ねられることもよくあるが、玉砕したなら次のステージでのリベンジを目指せばいいだけのことである。リベンジのチャンスなど、これからいくらでも訪れる。チャレンジもせずに敵前逃亡して、いつまでも「あのときチャレンジしておけば」などと愚痴を言い続ける人生はつまらない。偏差値が近いからといって、チャレンジする前に塾の助言で逃げ出してしまうような人は、どんな学校に入ってもすぐに不満を言い出すし、どんな就職をしても文句ばかり言って「自分は本来こんなところに来るはずの人間ではなかった」などと同級生や同僚を見下すような態度を取るものである。
 

 ついでに言ってしまえば、塾の面談で奴隷のように「ワンランク下げた」人は、そのことで返って気が抜けてしまって、勉強に気が入らず、ワンランク下げたその志望校にも合格できなかったりすることも多い。余程かけ離れた「記念受験」でないかぎり、わずかでも希望が残っている限り、志望校を気軽に変更するのはヤメにしたほうがいい。その分、残った数ヶ月に全力を尽くしてチャレンジする方が、どれほど将来のためになるかわからない。

 

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(浅田ニャゴ、涙と感動のフィナーレ)