Fri 081114 制限時間をイヤがるな ストップウォッチを使うな | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Fri 081114 制限時間をイヤがるな ストップウォッチを使うな

 3~4日前の朝日新聞を読んでいたら、軽い人生相談の欄に「時間制限なしで勉強したい」という中3生からの投書があって、たいへん面白く読んだ。「受験勉強には時間制限があって、なかなかじっくり考え抜くことが出来ない。特に数学の問題の時間制限がイヤだ。歴史に残っているような世界の大数学者は、みんな時間制限なんかなしにトコトン考え抜いて偉業を達成したはずだ。さすがに彼らにも『死ぬまで』という時間制限があったとしても、私もこんな受験勉強の時間制限なんかに縛られずに、問題を納得がいくまでトコトン考え抜いてみたい」というのが人生相談の要旨である。


 この人生相談に回答しているのが、明川哲也氏。私はよく知らないのだが、有名なミュージシャンで予備校講師でもあるらしい。その回答が「いかにも」という朝日新聞的な回答で、そのほうはあまり面白くないから斜め読みで済ませてしまった。まあ簡単に要約すれば「まさにその通り、素晴らしいことに気づきましたね。時間制限なんか気にせずに人生の様々な問題をじっくりトコトン考えていてください」みたいな話である。中学生に対する回答としては、いかにも無難というか、これ以上難しいことを言ってもなかなかわかってもらえないかもしれない。
 

 確かに受験生はみんな制限時間に縛られて生きており、いつでも「時間との勝負」でギュウギュウ絞り上げられていると誤解しているから、試験監督は敵に見えるだろうし、ストップウォッチを持って受験生をビシビシ鍛えるオニのような形相の先生がマンガにも描かれていたりする。「だから物事をじっくり考えられない」「トコトン考え抜きたい」「時間無制限で解けるまでいろいろ試してみたい」と彼らが思うのは、理解できる。周囲の大人が優しい顔をしてあげて「人生は、時間制限の中で出来ることを競うのではなく、粘り強く考え抜く力で決まるのです」と慰めてあげたくなるのも、またたいへんわかりやすい。

 

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(ボール猫1)


 しかし実際には、「制限時間」というものをそんなにイヤがってはいけないのだ。試しに「時間制限なしの戦い」がどれほど厳しいものか想像してみればいい。ボクシング選手が戦えるのは「いつかゴングが鳴って戦いは終わる」とわかっているからである。「時間制限なしのボクシング」は耐えがたいはずだ。ゴングが鳴って、「もうやめていいぞ」と言われた瞬間、彼らは心から救われ、互いの健闘を称える余裕を持つことが出来る。時間制限の存在こそが彼らを支えていると言っていい。
 

 もっとふざけた例として、生のタマネギを1個与えられて「さあ、時間無制限です。1個まるまる、じっくり粘り強く食べてみなさい」と言われた場面を考えよう。それはおそらく拷問に近い。それに対して、5分とか10分とか時間制限があって、そこでチャイムかベルが鳴って、試験監督がニヤニヤ笑いながら「はい、もういいでしょう」と言ってくれる、そうやって苦手なタマネギから解放される、その方がどれほど楽か分からない。拷問ついでに言えば、拷問の苦しさの根源は「時間無制限」から発するものであって、1時間で済む、30分で許してもらえる、という時間制限がついているからこそ、歯医者のイスの上でもグッと我慢が出来るのだ。
 

 算数でも数学でも英語でも、事情は同じである。日々の時間制限に疲れ、時間との戦いにウンザリした受験生なら、「時間無制限でじっくりトコトン取り組んでみたい」などという弱音を吐くのは当たり前。しかしそういう弱音は、周囲の大人は笑って聞き流し、「この程度で弱音を吐いちゃダメだ」とピシャリと厳しく言ってやるぐらいでないといけない。もし本当に「時間無制限でトコトン」などということになったらどれほど苦しいか、しっかり諭してあげられないような大人が、無責任に子供の愚痴や弱音に同調して、「本当の人間の価値は、粘り強くじっくりトコトン思考する力にある」とか、そういうことを言って甘やかしたり、安易な人気取りをしてはいけないのである。
 

 チャイムが鳴ってそれで終わり、ベルが鳴ったら戦い終了、そういうのは、実は「子供だから、その程度で勘弁してやろう」ということなのである。実際の戦いにはチャイムは鳴らないし、どちらかが死ぬまで終わらない、拷問によく似たものである。偉大な数学者の思考は、どんな貧困にも苦しみにも耐えて継続するものなのである。
 

 「この問題を解きたいから、1年でも2年でも取り組んでみたい、そのためなら進学なんかどうでもいい。何年浪人して構わない」という覚悟さえないクセに、安易にもらした弱音や愚痴は、そばにいる大人がピシャリと片付けてしまうべきである。何故なら、たとえごく平凡なサラリーマンや専業主婦であろうと、大人の戦いはほとんど全て時間無制限であり、時間制限のある子供のゲームなんかより遥かに高次元の戦いを、日々戦っている当事者だからである。

 

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(ボール猫2)


 ただし、マンガで描かれているような「過度の時間制限」には、私は大反対である。マンガやテレビドラマで描かれる受験には、過度の時間制限や、その象徴としてのストップウォッチがメッタヤタラに登場するような気がしてならない。


 最近のマンガには「受験マンガ」というジャンルが出来たらしくて、ストーリーはだいたいどれも同じ。まず「落ちこぼれ高校」とか「ダメ中学」が登場して、教師も生徒も完全に無気力。将来の夢も希望もなくて、生徒は毎日ダラダラ遊びやゲーセンやカラオケで過ごし、教師はガチガチの官僚タイプ。生徒の生活管理と自分の立場の保全にしか関心がない。そこへ熱血先生が登場。熱血先生は、自ら語ろうとしない過去をかかえていて、「元不良」「元落ちこぼれ」「医療ミスで追放された医師」など。なぜか「赴任」という滅多につかわない言葉が、この場面にだけは必ずと言っていいほど使用される。


 まあ、その弁護士崩れやロック歌手崩れなどの熱血教師が「学校を救おうと立ち上がる」のであるが、「ドラゴン桜」以来、立ち上がる方向性がすっかり様変わりした。昔は、ラグビーとかサッカーとか野球とか、スポコン方面に立ち上がったのである。馬術に立ち上がったり、料理に立ち上がったり、ブラスバンドやダンスドリルに立ち上がった、などという変わり種も少なくなかったが、さすがに「受験勉強に立ち上がる」というのは、つい5年前までなら考えられない事態だった。


 で、受験勉強に立ち上がると、熱血先生は必ず「どこかの片隅で朽ちかけていた受験のプロ」をスカウトして(というより義理人情で口説いて)そのダメ学校に連れてくる。その「元受験のプロ」「元カリスマ」がクセモノ。マンガを読み進めると、元カリスマはほぼ例外なしにフトコロからストップウォッチを取り出して「制限時間3分。かかれエエ」「いいか、時間との勝負じゃあ。始めエ!!」とか絶叫することになっている。


 「始めエ」と言われた方のダメ受験生は、全身汗だらけで問題に取り組むが、もちろん最初からどんどん解けたりするわけはない。「だ、だ、大丈夫なんですかあ、先生」と主人公は焦るが、プロは「ふ、ふ、ふ」とか不敵に笑って生徒たちを見回し、何やら思うところと、隠された戦略と戦術がある様子。「ふ、ふ、ふ、受験は結局時間との勝負じゃ。どんなところにも時間との勝負を持ち込む … それが極意じゃ。よーし、3分経過!! 出来た者はいるかあ!!! だれもおらん? そうじゃろうなあ。この、落ちこぼれメラがア!!!!!」。まあ、こんな感じ。これが受験のプロのイメージなのかもしれない。

 

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(ボール猫3)


 こういうオニみたいなイメージで考えるから「一度でいいから時間制限なしでジックリ」とかいう弱音も吐きたくなるのだ。しかし、このイメージは正しくない。制限時間とは「それ以上考え込んでいても進歩がないから、まあこのぐらいにして、許してあげよう」という優しい意図で作られたものであり「このアホ、このボケ」と罵るためのものではない。


 どんな科目でも、良問というものは、1問の大問が3つか4つの小問に分けられていることが多い。木で鼻をくくったような態度で、ドカッと大きな問題を1問与え「時間無制限。ジックリ考えてみなさい」というようなのは、問題を出す側の怠惰なのだ。高い山に登らせるのに、いきなり「さあ、時間無制限だ。登れエ」と怒鳴るのではなく、(1)(2)(3)の小さな問題に分割し、ちょうどいくつかの短いハシゴや階段や近道を指示しながら、最終的な山の頂上、大きな問題の正解に導いていく。良問とはそういう問題のことであり、優れた教師とはそういう先生である。


 本当の受験のプロは、ヤタラにストップウォッチを取り出して「1分経過! 2分経過!! 終了。鉛筆を置けエ!!!」とか騒々しく生徒を責めたてたりはしない。大きな問題を考えさせるために、最初はたくさんの小さな問題に分けて考えさせ、「自分にもできる」と実感させ、次第にハシゴを少なくして、いつの間にか一人で大きな問題を考えることが出来るように導いていくのが、真のプロである。


 だから、真のプロのテキストは易しく見える。難問など、決して含まれていない。何故なら、難しいことを教え、理解しづらいことをマスターさせるのに、優れたプロはその問題をたくさんの小さな問題に分解して、たくさんのハシゴをテキストの中に忍ばせているからである。「こんなにわかっていいの」「どうしてこんなにわかるの」と生徒が焦るほどに噛み砕いたテキストを与えてしまえば、もうストップウォッチや罵声は一切必要ないし、熱血ぶりを誇示しながら教壇を走り回ることもない。冷静沈着に1問1問をこなしていけばそれでいいのである。