Thu 081016 生授業にこだわるな 大学の講義もライブラリー化したら | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 081016 生授業にこだわるな 大学の講義もライブラリー化したら

 昨日書いたのと同じようなことだが、「ナマ授業でないと意味がない」という迷信についても書いておいたほうがいいだろう。「一方通行ではダメだ」「キャッチボールが必要だ」という迷信にどっぷり漬かってしまうと、スタジオで収録した授業は、もちろん一方通行だしキャッチボールもできないから、「生授業でないとダメ」という結論も当然のことになる。


 これらの迷信は最初あまりにも強固なもので、とてもクリアできそうになかった。だから、昔から予備校は「生授業に決して劣らない臨場感ある大画面」とか「FAXや電話やメールで直接質問できる」とか、いろいろな工夫を繰り出して、「生授業に劣るものではない」ことを懸命にアピールしようと考えたのである。20年ぐらい前の草創期には、衛星で全国中継するか、またはそれを録画した映像授業が中心であり、どこの予備校も黒板いっぱいの大きさの大画面を設置して生と変わらぬ臨場感をアピール。やがて画面は小さくなってプラズマTVとなり、さらに個人対応のパソコン画面にまで縮小して、映像もスタジオ収録のものが中心になった。そして画面の縮小に伴い、これに反比例して映像授業を好む生徒の数は大きく増加した。


 こんなふうに映像授業主流の状況に市場が変化すれば、慌てるのは「生授業至上主義」でやってきた古式ゆかしい塾である。ホームルームや面談で必死に映像授業批判を続けて、頑迷ともいえる迷信を築き上げたのが、今の状況。そのうちの「一方通行」「キャッチボール」について、昨日書いたのである。しかし、世の中の趨勢は迷信によって逆転できるものではない。

 

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(真剣に話を聞くナデシコ)


 生授業という方針だと、どうしても教師の質が低下することを避けられない。いい教師の数は限られるのだ。まして、予備校とか塾とかいう非公式の場になれば、アルバイト気分の教師も多く存在する。目の前の先生の機嫌が悪かったり、そのせいで受講生がムカついてしまい、とても受講どころではなくなることだってある。つまり授業に対人関係が関係してきて、よくない緊張感が生まれるのだ。緊張感があるのはいいことだ、と断定してしまうのは素人なのであって、緊張感にはプラスに働くものとマイナスに働くものがある。生だ生だと絶対視する迷信が愚かなのは、マイナスの緊張感というものを知らない証拠である。


 講師の質の問題は、深刻だと思う。30年も昔を思い出せば、大学受験の予備校は今のように「どこの街にもある」というものではなかった。急行や準急の停車する駅前に大きな塾があっても、それは高校受験対応まで。大学受験に対応できる予備校というものは、新幹線の停車するようなターミナル駅の駅前にしかなかったのである。だから受験生はお茶の水や代々木までたっぷり通学時間をかけて出てくるほかなかった。夏休みになれば秋田や青森の高校生は仙台まで夏期講習を受けにでたし、九州全域の高校生は福岡の予備校に集まった。そこまで行けば確実に、今まで聞いたこともないような素晴らしい授業が受けられたからである。


 しかし今では、私鉄の準急や急行が停車する程度の駅の駅前にでも「大学受験に対応できる」とうたう塾がひしめいている。そのどれもが例外なく「一流講師陣の生授業」だと主張しているから、疑うことを知らないナイーブな高校生は「一流講師陣の生授業」を受けるために、両親のせがんで高額の授業料を払い込む。


 で、どういう一流講師陣が出てくるかと言えば、新聞の求人広告欄を見て時間給につられて集まった、ほとんど指導経験のない若者たちである。今の大学受験予備校の多くは「第2新卒の受け皿」になっていると言っても過言ではないぐらいだ。まあ、教師になりたてで経験不足でも、懸命に努力している先生方なら、その生授業も一概にダメだとは言わないし、本当に素晴らしい授業をされていらっしゃる方も少なくないかもしれない。私自身、かつて予備校講師を始めたときは、まさに第2新卒そのもの。へたくそな授業で多くの生徒に迷惑をかけた時期も長かったと思う。


 しかし、それなりに努力もしたつもりだ。まず、黒板の消し方。黒板ふきをどう構えて、どのぐらいの力でどういう消し方をすれば黒板が手早くキレイになるか、深夜の教室でそういう練習に打ち込んだこともある。そのことだけで授業の効率は格段に上がってくるのだが、そういう努力を若い先生方がしているのかどうか。勢いだけで引きずり回すような授業をしていないかどうか。教壇に駆け上がり、生徒が20人にも満たないのにマイクを握り、教壇を駆け回り、「さあ、はじめるぞお」「さあ、今回は前回の続きだ」と当たり前のことを絶叫し、そのくせ「前回どこまでいったっけ」と生徒に質問し、キャッチボールが盛り上がりすぎてテキストが半分しか終わらないような授業をしていないかどうか。

 

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(真剣に話を聞き続けるナデシコ)


 何と言っても授業の質を下げてしまうのは、変な口癖である。麻生首相が「なんとなく」を連発するというので朝日新聞がいろいろ批判(というより個人攻撃)しているが、そういって記事を書いているご本人も是非一度自分の口癖をチェックしたほうがいい。私も「この上なく」という口癖についこの間気づいて、極力使わないように抑えているけれども、塾・予備校であまり授業がお上手でない先生方の口癖は「ね」「いいですか」「はい」「うん」「要は」など。この連発で授業が成り立ってしまうような先生も少なくない。


「はい、いいですか。次の問題はね、正解はね、2なんだ、うん。要は、1はね、うん、ちょっとね、変だろ、うん。でね、はい、いいですか、3はね、はい、いいですか、ね、うん。英語ではね、こういう表現はね、うん、しないんだよね、はい、うん、ね。だからね、うん、はい、だめですね、うん。いいですね、はい、でね、残った4ですけど、はい、要は、これ選んじゃった人はね、いいですか、だれか4選んじゃった人、いますか、はい。うん。あれ、結構いますね。高田クン、キミはどうして4にしたの? よくわからない? はい、うん。ね。要は、ね、4みたいな表現だとね、はい、いいですか、要は、うまく外人(!!)に通じないことになるんです。ね、いいですか、うん。では、ね、次の問題にいっていいですね、はい、いいですか、うん … 」
 

 これが今ありがちな授業の実況中継。「実況中継」タイプの参考書があまりにも多く出版されて、先生方が予習のつもりでそういう本を読みまくり、こういう無意味な口癖だけで授業が出来上がってしまう、という状況なのだ。これでも生授業にこだわらなくてはいけないかどうか、考えればすぐにわかることである。


 もちろん、収録された授業のメリットについては、「時間を気にせず、自分のペースで受講できる」「気に入った授業なら、1年分を2~3ヶ月で一気に受講できる」などというものもあるが、それは各予備校が広告や案内書で強調していることだから、何も私のブログで詳しく紹介する必要はないだろう。


 確かに、生授業にこだわっていれば、部活・学園祭・体育祭・風邪引いた・お腹痛い・家族が病気になった、そういうことがあるごとに欠席せずにはいられなくなる。学校でも塾でも1回欠席すればそれを取り返すのは至難のワザであるが、そんな場合でも収録されたものなら何の苦もなく取り返すことができるし、第1お金の無駄がないのである。


 1講座にお金を払うと、その講座を受講し終わるのに必ず1年かかる、というのも生授業のデメリット。4月に「基礎講座」に1年分お金を払えば、基礎が終わるのにどうしても1年かかる。基礎が終わると、すぐに入試が来る。それでは合格はおぼつかない。収録されたものなら、やる気さえチャンとしていれば、1年分を3ヶ月4ヶ月で修了できるだろう。私の講座など「1年分を1ヶ月でマスターした」などというカッコいい男や女が続出している。で、3ヶ月で基礎をマスターしたら「よし、じゃ、難易度をぐっとあげるぞ」といて張り切って応用力養成の講座に進めるわけだ。しかも、本来なら1年かかるその講座も、やる気さえあれば、またまた3ヶ月で修了できる。「本人のやる気さえあれば」という前提で、収録授業のほうが圧倒的に有利なのは、こういう面からも明らかだと思われる。

 

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(思考するナデシコ)


 「生でないと意味がない」などと頑固に言ってしまったら、NHKラジオの語学講座はみんな「意味がない」ことになる。私など、語学についてはメッタヤタラにNHKラジオ派で、中2生の時に目一杯背伸びして東後勝明「英語会話」を聞いて以来(それを理由に当時売り出されたカセットテープレコーダーを買ってもらったのだが)、30歳になるまで語学はほぼ全部NHK。生授業だと、大学の第2第3外国語も早稲田大学語学研修所でも全然続かなかったのに、NHKなら何語でも最後まで聴講できた。ドイツ語は中島悠治と宮内敬太郎でやったし、フランス語は石井晴一、スペイン語は清水憲男で最後まで聞いた。イタリア語、というのはつい最近始まったものだから聞いたことはないが、「生でなくても意味がある」どころか「収録だからこそいい」のである。


 やがては大学教育にも映像が取り入れられ、概論の講義などには、歴代の名物教授の授業がライブラリー的なものになって保存されていくようになるのは目に見えている。もともと「研究大好き、講義は嫌い」という教授は多いのだ。概論の講義が、かつての名物教授のアーカイブで多種多様になれば教授も学生も大いに助かるのである。法学部で、同じ民法概論や憲法概論の講義を1980年代・90年代・2000年代の3本を聴講できれば、学史的な興味からしても価値が高い。同じことは経済学部でも文学部系の学部でも間違いなく言える。大学の経営サイドとしても、名物教授の講義のライブラリー化は将来性を見込めるビジネスチャンスではないか。ましてや「研究大好き、講義は時間の無駄」と考える教授の多い理系の学部では、概論のアーカイブ化は大歓迎されるはずである。
 

 すでにNHKの語学講座ではアーカイブを放送し始めている。何年も前の放送で人気の高かったものを再放送しているのである。フランス語やスペイン語がたった10年ぐらいで大きく変化するはずはないのだから、評判の良かったものを何年か経過してからもう一度放送というのは、素晴らしいことである。
 

 予備校の英文法の講座とか古典の講座とかも同じであって、出題傾向は変化しても基礎や基本は変化しないのだから、基礎講座に限れば何年か前の名物講師の講座のほうが、目の前で展開されるあまりお上手とは言えない「ね、うん、はい、いいですか」の授業にウンザリするより遥かにいいのだ。

 

0730
(続・思考するナデシコ)


 もっと言えば、同じ1人の人気講師でも、調子がいいときと悪いときがある。人気講師だって、いつでも絶好調とは限らない。風邪を引いて声が出ない、喘息気味で話すと苦しい、朝からちょっとお腹を下していて、いつ悲劇が訪れるかでソワソワしている、そういうことも起こるだろう。若い人気講師だと、カノジョとの関係がうまくいかなくて落ち込んでいることもあるだろう。そんなふうにどうも調子が出なくて落ち込んでいる時に、絶好調時の授業をDVDで眺めてウットリするなどということも珍しくないはずだ。そこまで「講師の自己管理ができていない」などと責めるのは酷だと思う。


 ならば、ぜひ絶好調時の授業をライブラリー化して、生徒に利用させるべきではないか。同じ授業料で、下手な講師の授業や、人気講師ではあっても風邪や腹痛で不調な時の授業を受けさせられるより、人気講師の絶好調時の授業を受講したいと生徒が考えるのは、当然である。同じことをぜひ大学でも試してみるべきではないか。いや、それどころか、同じことを、高校や小中学校にまで拡大できれば、登校拒否状態になっている生徒の自宅受講だって可能になるはずなのである。

1E(Cd) Walt Dickerson Trio:SERENDIPITY
2E(Cd) Earl Klugh:FINGER PAINTINGS
3E(Cd) Brian Bromberg:PORTRAIT OF JAKO
4E(Cd) Surface:SURFACE
5E(Cd) Surface:2nd WAVE
6E(Cd) Enrico Pieranunzi Trio:THE CHANT OF TIME
7E(Cd) Quincy Jones:SOUNDS … AND STUFF LIKE THAT!!
10D(DvMv) STIGMATA
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