Mon 080901 大学は採点基準を公表すべきだ ゆがんだモノサシでの戦いについて | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Mon 080901 大学は採点基準を公表すべきだ ゆがんだモノサシでの戦いについて

 昨日も書いたように、私はこの10年ぐらいの大学入試には「少し悪ノリしすぎなんじゃないか」と感じ、いろいろな場所でそういう発言をしているのであるが、大学というところは、予備校とか塾とか、そういう社会の底辺で蠢く存在に対してなかなかマトモに向き合ってはくれない。

 

 若い教授の中にはその不遇時代に予備校講師のアルバイトをして生活費を稼いでいた方も多いと思うのだが、いったん教授職を得てしまうと、もう古巣のことなどすっかり忘れてしまわれるのかもしれない。

 

 だから、予備校の講師たちがある程度は公式の発言の場で「正解と採点基準を公表してほしい」とお願いしても(少なくとも大学全体としては)木で鼻をくくった態度に終始する。というより、冷笑・失笑・嘲笑といった対応の方が遥かに多い。

 

(写真上:スポットライトの中で、白い手袋を自慢そうに誇示するナデシコ。モデルなみの表情が、なかなかニクい)

 最近は、少子化の影響もあって「正解や採点基準を公表する」という大学もないことはなくなったが、正直申し上げると、そういう少数派はむしろ「塾や予備校に少しはいい顔を見せておかないと、今後生徒募集に苦労し、経営にも困難を生ずる可能性のある大学」がほとんどである。

 

 もっと正直に言えば、そういう大学の入試問題は、別にそんなにいい顔をしてみせてくれなくても、正解も採点基準もこちらでもすぐに分かるし「どれが正解か」で予備校講師の意見が割れることもない。

 


(写真上:箱入りニャゴ姫。その1)


 特に我々が公表していただきたいと切望するのは、記述論述式の問題が主体になっている難関大学である。例えば京都大学の英作文が、どのような基準でどのように採点されているのか、出題者はどういう意図で問題を作成し、それに対してどういう英文を書いてくる学生を求めているのか、といったことである。

 
 その類いのことは、いろいろな有名予備校講師がいろいろなことを言い、その発言を巡って受験生ばかりか高校教師の間でも再び議論になり、議論はしばしば(どの予備校のファンか、どの講師のシンパかで)怒鳴りあい、罵りあい、つかみあいのような様相を呈することもあり、私などから見れば「明らかな時間の無駄」の原因になっている。
 

(写真上:箱入りニャゴ姫。その2)

 京都大学なら京都大学の、早稲田大学なら早稲田大学の、東京大学なら東京大学の出題者または問題作成責任者が、どこか公式の場で「こういう意図で出題し」「こういう基準で採点し」「こういう英作文を書く学生を求めている」と発言してくれれば、それですべて終わる話ではないか。
 
 それだけのことでこういう時間の無駄や罵り合い・怒鳴りあい・つかみあいにはすべて決着がつき、高校生も浪人生も安心して学習に励み、講師も教師も意味のない論争に明け暮れることなしに、日々の指導に専念できるというものである。
 
 簡単に言えば、その大学に入学したくて日々マジメに努力している受験生に、余計な心配はさせないでほしい。目標に向かって努力している青年たちに、ゲームのルールを明示するのは、学校としての責務とまでは言わないにしても優しさではあるのではないか。
 
 ルールを誰も明示しないので、「きっとルールはこうなんじゃないか」「いや、そうじゃない。ルールはきっとこっちだよ」と行き当たりばったりにいろいろ言ってみるのが予備校講師の仕事の一部分になってしまう。
 
「正しいのはあっちだ」
「いや、こっちだ」
「ばーか」
「ばかはどっちだ」
「おれの先生は天才だ!」
「わたしの先生は神よ!!」
「何で神や天才が予備校なんかで教えてるんだよ?ばーか」
「他人をバカというヤツがバカ」
とか、最後は幼稚園児や小学生のケンカみたいになって、まあ見苦しいとも息苦しいとも、あまり感じのよくない会話が展開されることになってしまう。
 

(写真上:どんな小さな箱でも入る。箱入りニャゴ姫3)

 ルールが明示されないゲームでは、当然みんなが疑心暗鬼になるのだから、こういう展開もやむを得ないのだ。ある者は「これはサッカーだ」といい、ある者は「これはラグビーだ」という。ラグビーだと信じた者が両手でボールを持って走り、思い切りタックルに突っ込む。サッカーだと信じた者が抗議の声を上げ、悲鳴と罵声がグラウンドを包む。
 
 と、思ったら「これはマラソンだ」と教えられた者たちが、その脇を黙々と駆け抜け、「これは柔道だ」と天才だかカリスマだかに教えられその「信者」になった者たちがマラソン派に寝技で攻撃をかけ、金属バットの鋭い音とともに打球がセンターとライトの間を縫って外野を点々とし、そのボールをフェンシングの選手と剣道の選手が奪い合い、競技場は怒号の渦と化す。
 
 そして、その大乱闘の競技場のどこか誰にも見えないところで、誰かが何かきわめて深遠で理解しにくい基準で「彼らの目で見ると優秀」な青年を選んでいるのである。
 
 私が愚かだからなのかもしれないし、私が無知だからかもしれないし、もしかしたら私が短足だからかもしれないが、法律でも経済でも医学でもルールを教え考え方を学ぶ場でもある大学が、学生を選択するルールを明示するのは当然の話のように思うのだ。
 
「どうしたら勝ちか」の教えられないゲームなんか、互いに罵りあいでもしていなかったら、楽しいはずがない。いや、もちろん私が愚かで無知で短足でヒゲだらけで、神でも天才でもカリスマでも何でもない、ただの中年の凡人だからなのだろうが、「このゲームに勝ちたい」と真剣に努力している参加者が毎年数十万人もいるのに、その主催者が「ルールは教えてやんないよ」と言ってソッポを向いているなんて、奇妙にしか思えないのだ。
 

(写真上:それでも私は入る。そこに箱があるからだ。)

 で、最後に大学側の悪ノリが始まる。「ルールは教えないけど、すんごいの作っちゃった」といって、冷たい風の吹き荒れる2月のある日、破裂しそうなほど緊張している数万人の若者たちに「キミの人生をいくらか左右するゲームソフト」を出してみせる。
 
 確かに「すんごい」感じ。特に英語は毎年毎年「すんごいよ」という悲鳴と喚声をあげさせるゲームの進化があって、
「去年のマラソンは42.195kmだったけど、今年は80kmにしたよ。制限時間は90分、はい、始め」
「わあ、すんごいね」
「これって、どうすれば勝てるの?」
「何位まで、メダルもらえるの?」
「しらなあい」

ま、こんな感じか。すると、背後から「熱血先生」がいろいろ奇抜なことを言いはじめる。
「去年のレースで、途中でタクシーに乗って、それで抜群で勝ったヤツがいる。ことしは80kmだから、飛行機をチャーターしろ」
「おれは天才だ、オレについてこい」
「どんな距離になっても、地道にコツコツ走るだけだ。それが正攻法、正統派」
「すばやく走る努力が必要。一歩で1km進む訓練を」
「変な熱血先生にダマされてはいけない。ご用心を」
「途中でつまずくと勝てません。デコボコにご注意を」
「だから、普段から鍛えておけって言っただろ!!」

 で、まあこの場合はホントに80kmを90分で駆け抜けるヤツはいないのだから、90分経って「ヤメ」と言われた時点での上位者が勝者になるワケだが、やはりここでもレースの前にルールの開示が必須であることは、論をまたない。
 
(写真上:「すんごいの」。早稲田大学国際教養学部。紙切れ16枚100分。1枚6分の計算)

 「悪ノリ」は他にもいろいろあって10000m走るレースのトラックに突然ハードルをいくつか設置するようなこと(予告なしにリスニングや自由英作文が出題されるのがその例)も頻繁に起こる。
 
「熱血先生」はのんき(というか、どうせ他人事)だから、その後になってから「だから、常日頃から、どんな問題にでも対処できる本格的な英語力を養成することが大切だ」とアドバイスしたりするのだが、私はそれよりも何よりも大学側に「悪ノリはこのぐらいにしてほしい」と思う。
 
 何故なら、自分がこれから教える学生を選ぶ場面で(ある意味で大学として最も重要な場面で)ルールを明らかにしない悪ノリを続ける大学というものは、入学後だって当然、悪ノリのレポートを出し、悪ノリの論文を書かせ、ルールの明確でない採点をし、ルールの明確でない成績を出し、そうやってルールの明確でない教育を施して学生を社会に送り出し、ルールを明示せずに大学院生を選び、ルールも方針もなく弟子を選び、悪ノリについてこない学部生や院生を破門し、ルールが明示されないことへの不平と不満を、無限に拡大再生産し続けるだろうからである。
 
(写真上:続「すんごいの」。早稲田大学国際教養学部。これ1枚6分。「飛行機に乗れ」と言いたくなる私の気分は、間違いだろうか)

 私は、そろそろだいぶ年をとったせいか、このごろは「いろいろ変わった発言をして目立つコーチになりたい」という欲望はなくなった。昔(10年ほど前の代ゼミ講師時代)は「飛行機に乗っちゃダメというルールはないんだから、もし100kmを90分でと言われたら、迷わず飛行機に乗れ」などという発言をして「目立つ」というより「物議をかもした」ことがあったし、それを書いた参考書は10万部も売れたのである。
 
 しかし今では、ちょうど平成生まれの受験生の父親ぐらいの年齢に達してしまったせいか、そんなことよりもむしろ、ルールを示さない戦いに果敢に飛び込もうとする若者たちの身が案じられてならない。
 
 実際の世の中というか、実社会というものにも「どうすれば勝てるのか」「なぜこいつが勝者であいつが敗者なのか」について公平なルールが存在するわけではないし、それが人間のほとんどの不平不満のもとなのであるから、大学入試やその後の大学教育の中で、その予行演習をしておくのはいいことなのかもしれない。
 
 しかし「全てが公正に評価されるわけではない」「不公正を許容しないと生きられない」という余りにも冷酷な事実を伝えるのには、いま目の前にいる生徒たちはまだ若すぎるように感じる。
 
「実は、絶対無謬の裁判官がいるわけではないのだ」
「満点をとっても、75点の者に負けることがあるのだ」
「1位でゴールしたのに金メダルがもらえない戦いがあるのだ」
という事実について、「しかしそれでも努力しなければならない」という倫理について、18歳の青年が知ることはあまりにも可哀想に感じるのだ。
 
 しかも大学という場は、本来、絶対無謬の真理を希求する場であって、その入り口に立って希望に燃えている息子や娘に、父親役の役者がそういう生臭い世間の真理を書いて手渡すのでは、まるでレイヤーティーズを送り出すポローニアス(「ハムレット」参照)ではないか。
 

(写真上:箱入りバカネコ)

 とはいうものの、これから4年後、彼ら彼女らが就職活動を開始する頃には、みんなそのことを思い知らされるのである。「会社」でも「役所」でも「大学院」でも全く同じこと、「1番だから金メダル」が必ずもらえるというものでもないし、むしろ「1番だから失格」ということにもなりかねないのが4年後の世界。
 
「合格点だからオリンピックに出られる」と思っていると、「合格点だから引退」と言われるのが4年後の世界。そういう理不尽なことを決める門番役がどこかに隠れていて、門番に気に入られるように八方手を尽くすのに、その門番役を見間違えたために永久追放の処分を受けるのが、4年後の世界。
 
 医師になっても、弁護士になっても、料理人になっても、実は同じことである。その門番の前に立ちつくして、「実力通りに見てくれない」「実力を正しく評価してくれない」と言って信じがたいという表情で不平不満をもらすのは、決まって優秀な学生である。
 
 優秀であればあるほど、かつて大学学部の入学試験までは「キチンとしたルールで、キチンと実力を評価」してもらってきた青年たちなのである。彼ら彼女らは、大学を出た途端に、自分を計ってくれる世の中のモノサシが、歪曲されたモノサシになることを受け入れられないのだ。
 
 常に公正公平なモノサシが存在することを信じ、それは小学校時代から自分に常に有利に働いてきたモノサシであることを疑わず、だからそのモノサシで上位に食い込む努力をに励み、しかし22歳にして身体にあてられるモノサシは、何か別の基準に変化しているのである。
 
(写真上:マトモに向き合ってくれないナデシコ。ときにはヒトデのように、5角な女になりな)

 ならば、いま、大学入試の世界で、すでに「モノサシは曲がっている」「モノサシは入れ替えられる」「モノサシは、常に自分にとってのみ不利なものをあてられる」という社会の現実に触れる予行演習をしておく方が、将来のためになるような気もするのだ。
 
 父親として、そういうことを教えるのには死ぬほどの苦しみを味わうからこそ、ポローニアスはレイヤーティーズとオフィーリアの前ではあれほど滑稽なのだし、別のモノサシの存在を嫌悪するハムレットの「ネズミがいるぞ」の一言に嘲弄され、一切の抵抗なしにそのハムレットの剣に命を奪われるのではないか。
 
 大学、大学院、その先のポスト争奪戦、そこでもモノサシは歪曲されている。1番でも金メダルをもらえない世界に住む者が、1番のものに金メダルを与えようしないどころか、返ってその人物をワナに陥れようとする気持ちさえ、最近はよく理解できるようになった。

 今日も長く書きすぎた。イタリア紀行はお休みにする。実はこういうことを書きながら、何だかつらくて泣きそうになってしまって、とてものんきなイタリアの旅の記録なんかつけている気分ではなくなってしまったのだ。


1E(Cd) Ashkenazy & Philharmonia:SIBERIUS/SYMPHONIES 1/4
2E(Cd) Ashkenazy & Philharmonia:SIBERIUS/SYMPHONIES 2/4
3E(Cd) Ashkenazy & Philharmonia:SIBERIUS/SYMPHONIES 3/4
4E(Cd) Ashkenazy & Philharmonia:SIBERIUS/SYMPHONIES 4/4
5E(Cd) Krivine & Lyon:DEBUSSY/IMAGES
6E(Cd) Rogé:DEBUSSY/PIANO WORKS 1/2
7E(Cd) Rogé:DEBUSSY/PIANO WORKS 2/2
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