Thu 080703 有楽町ガード下 ミラノからコモ湖へ | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Thu 080703 有楽町ガード下 ミラノからコモ湖へ

 午後から東進・吉祥寺1号館にて授業収録90分×2。「B組」2学期の5・6講である。神戸大学と立教大学の過去問にほんの少しだけ手を加えて「B組」受講者にちょうどいい難易度にした。どちらも40行程度の長文だから、やりがいがあり、かといって難しすぎることもなく、楽しく勉強して力をつけるにはちょうどいい教材になっている。授業途中の「雑談」に相当する部分も適度に抑えて、今日も間違いなく最高の出来だった。


 終了後、有楽町に飲みに出かける。最近は西麻布・六本木と渋谷ばかりになっているから、銀座・有楽町に遊びに出かけるのは久しぶり。最後に有楽町でお酒に親しんだのは、もう1年以上昔になるかもしれない。有楽町駅前に丸井が出来たのも知らなかったし、その丸井に付随してたくさん末社みたいな店ができたのも全く知らなかった。「末社」というのもまた死語なのかもしれないが、大きな神社の周囲に無数に散らばって、ついでにご利益に与ろうとしている小さな神社のことをいう。


 好天というほどではなかったが、少なくとも雨は降っていなかったし、気温が30℃近くまで上昇した1日の締めくくりだったから、ビアガーデンがいいだろうということになった。7月に入った銀座の午後6時で1軒目がビアガーデンというのは、今はどうか知らないが、昭和60年頃なら社会人の常識であった。しかも場所が有楽町なら、そのビアガーデンはニュートーキョービルの屋上以外は考えられない。これも昭和の常識。しかし考えてみれば「ニュートーキョービル」などというものは、私が大学生の頃から有楽町に存在している国宝級の建物であって、応仁の乱や鳥羽伏見の戦いまで遡ることはないにしても、少なくとも戦後のドサクサの匂いは残っている。マチコ巻きだの、「君の名は」だの、「銀座の柳」だの、まあそういうビルである。


 1年も2年もご無沙汰して、2年も3年もその姿を見ないで過ごして、ほとんど中学校の同窓会なみに久しぶりの再会となると、彼が突然老いてしまったことを実感せずにはいられない。1階のビアレストランも、5階「ロチェスター」7階「桃杏楼」も、よく通ったのは15年も20年も以前のことである。エレベーターがその階に停止するごとにそのフロアを少しだけ覗き込んでみたけれども、残念ながら、懐かしさよりも「ひと時代終わったんだ」という寂しい実感の方がはるかに強かった。


 だから、屋上階のビアガーデンにエレベーターが到着するよりも前に、私は「逃げよう」と心を決めていた。このビルとの同窓会は、寂しすぎるのだ。5階「ロチェスター」で「スコッチの水割り」を際限なく飲み干していた時代。7階「桃杏楼」で大好きな「カシューナッツと鶏肉の炒め」を結構ぜいたくをしているつもりで楽しんでいた時代。世良公則&ツイスト、もんた&ブラザーズ、柳ジョージとレイニーウッド。古いエレベーターが息を切らし、身体をふるわせて最上階にたどり着く頃には、そういう花やかな時代はみんな夢のように消えていて、夕暮れの近づいた「屋上ジンギスカン・ビアガーデン」には客の姿はほとんどなかった。時代の趨勢に逆らってまで、2年か3年前に消えてしまった「ジンギスカンブーム」をまだ追いかけているのも、この店ぐらいかもしれない。ジンギスカンブームは「あるある大事典」とともに時代の裂け目に姿を消したはず。しかも、悲しいことに私は「この店は間違いなくジンギスカンを続けているはずだ」と予感していたのである。
 

 あまりの寂しさと、客の少なさと従業員の多さ、従業員の注目の激しさに圧倒され、エレベーターから1歩だけ外に出て、それだけですぐに引き返すことになった。これはいけない、これは寂しすぎる。せっかく有楽町で時代を遡ろうというのに、そんな中途半端な遡り方ではいけない。すぐに考え直してエレベーターで逆戻りした。そうして私が目指した時代は、三善英史、日吉ミミ、中村晃子、奥村チヨの世界。要するに、ガード下の焼き鳥屋にほぼ5年ぶりで足を運ぶことにした。

 

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 「有楽町のガード下」といえば、欧米で売っている日本旅行のガイドブックにも大きく掲載されている名所。「名所」というより「旧跡」に近いかもしれない。実際には古い焼き鳥屋が10軒ぐらい営業を続けているだけで、博多長浜のラーメン屋や、同じ博多の中洲の屋台には比較すべくもない小規模なものである。客層も、ナジミの客より「初めて来た、こんな場所があるのか」といって驚いている観光客ばかりである。
 

 「居酒屋たぬき」の外に並べられた10個ばかりのテーブルには、まだ誰も座っていなかったけれども、夕暮れの風が気持ち良さそうだったから1番乗りで外の席に腰を下ろした。枝豆、タコ焼き揚げ、山芋千切り、焼き鳥8本盛り、生ビール、ついでに冷酒1本。生ビールと日本酒を同時に注文すると何故かビックリされるが、そういうところにも「酔っ払いがタムロする飲み屋街」というより、初めての客が物珍しそうにおそるおそる座ってみる観光地になってしまった姿が現れる。ま、いいだろう。頭上を新幹線が頻繁に走り過ぎ、空も次第に夕暮れらしい色に変わり、北の空には夕立の気配があり、タコ焼き揚げとツクネと日本酒と生ビールを追加し、やがて近くの「スナック加代」の明かりが灯り、強めの風が吹き抜けて、少々煙いのがまたさらに気持ちがいい。

 

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 「スナック加代」の小さな明かりは、新大阪方向に走り出した新幹線の左の車窓からよく見えるのだ。「入ってみようか」という気を起こさせるような店ではないが、それもそれで大いに結構。10年前、私が毎週一回代ゼミ名古屋校に出講し、毎週火曜の早朝に大好きな駅弁「深川アサリめし」を食べながら寝ぼけマナコで見ていたスナックの看板が、今まさに目の前に昭和の明かりを灯したのである。だから、それも大いに結構。その向こうの空には帝国ホテルまで見えている。おお、昭和、昭和である。
 

 隣の席に座った30歳代の男女は、耳を澄まして聞いた会話によれば、2人とも会社を辞めて法科大学院に通っているらしい。資格をとって独立することの素晴らしさを、お互い夢中で言い合っている。それも大いに結構。ただ、夢が小さいねエ。会社勤めの人生ではつまらない、自己実現できない、自己表現もできない。だから、資格をとって弁護士として独立、その前に税理士の資格も取っておいたほうが確実。おお、立派。頑張りたまえ。おおいに頑張りたまえ。でも、何だか小心翼々の標本みたい。資格とか、そうやって保身ばっかり考えてないで、せっかく若いんだから何かもっと夢のあることは考えられないの? 酔っ払うに連れて、横から口出ししたくてしたくてたまらなくなってくる。こちらはまさに昭和の酔っ払いの標本である。

 
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 帰ると、ニャゴロワどんはまたまた盆踊りの練習。「盆踊り、やめたんじゃなかったの」「おや、つきのわどん。他の人のことを批判している暇があったら、参考書、参考書。早く書かないと、みんな呆れてしまいますよ」「そんなイヤなことを言うと、ツメ切るよ、ヒゲもひっぱるよ」「おお、イヤだ。酔っ払うと、これだから」。

 

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 ナデシコは、礼儀作法の練習中。「右手と左手と、こんなふうに重ねるのが小笠原流なんですの」と言って見せてくれる。「なんだ、小笠原ってのは」「こういう手の重ね方ですの」「なんだ、ですのってのは」「ですのはですの、ですの」。というわけで、ナデシコのきれいな純白の手袋をした両手に見とれて眠ることにした。ネコまで昭和に巻き込んで、楽しい1日だった。

 

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 5月15日、早朝はホテルで参考書の執筆。ミラノにまでパソコンを持ち込んで、ちゃんと怠けずに執筆の仕事は進行中。9時、ホテルの朝食。いままで書かなかったが、ビジネスマンの多いこのホテルの朝食はなかなか充実していてよかった。ただし、少し混みすぎ。8時前後には席が見当たらないほどで、確実に待たされる。もちろん大人しく席が空くのを待っているのは日本人だけであって、イタリア人アラフォー(そろそろ死語になりつつあるか)のオバサマたちなど、男3人で盛り上がっているテーブルに、1人颯爽と入り込み「お相席」で朝食を楽しんでいらっしゃる。


 それでいて、日本人の予想と違うのは3人の中年男性と1人の中年女性の間には、全く何の会話も発生しないということ。挨拶だけは交わし、一度だけ空々しい笑顔の交換があり、それで意思疎通は終わりである。同じ狭いテーブルを共有し、同じようなハムとソーセージと卵とジュースとパンとフルーツを置いて、あとは間に高いしきりでもあるかのように黙々と粛々と食べ、黙々と粛々と飲み、黙々と粛々と去っていく。日本人の想像としては「底抜けに陽気で気さくで人なつこい」イタリア人の男女なら、朝のテーブルで知り合い、語り合い、打ち明け合い、助言し合い、クルマがあればクルマで送り、なければ同じ地下鉄に乗り、語り、笑い、だまし、裏切り、許し、肩を叩き合い、ののしり合い、仲直りする。そういう騒々しくも暖かいイタリア映画そのものの関係があるはずで、その始まりにしか見えない朝食のテーブルなのに、実はそこには黙々くんと粛々サンばかりが並んでいるのである。
 

 そのまま正午近くまで部屋で雑用をこなして、いよいよコモ湖に移動することにした。昨日まで晴れて快適だった空が、今日は今回ミラノに着いてから初めての曇り空。その曇り空の下を、ポプラの種の白い綿毛がいつもよりたくさん風に舞っていた。12時20分、Milano Centraleを出発。IC、しかも1等車の座席を機械で予約してしまったのは、昨日のトリノからの移動が(狭苦しい思いをしたにしても)やはり快適だったからである。


 ミラノを出てすぐ、2つ向こうの座席で検札係が不正乗車を発見。私が「例文集200丸暗記の実力」で聞き取ったところでは、この客は「1等車だとは知らなかった」「すぐ2等車に移動するから、罰金を支払う必要はないのではないか」と主張している。検札係としては、客が謝罪しなかったことを重視。同じように「1等車とは知らなった」と告白し謝罪してすぐに2等車に移動した女性客はすぐに見逃してあげたのに、下手に抗弁したこの男性客については「普段からこういうことを繰り返しているのではないか」と迫り、私が聞いていても「うおっ」と唸りそうになる高額の罰金を示唆。いったん見逃したように見えたが、やがてもう一人の職員を連れて戻ってきた。しかも、決して暴力的に罰金を徴収しようというのではない。話し合い、ただひたすら話し合いである。10分後、男は肩をすくめて、その高額紙幣を差し出す。検札係はそれ受け取って端末に何か打ち込み、何故か2人とも席に腰掛けて、何故か男と打ち解けて語り合い始めた。


 おお、なかなか楽しそうである。罰金を払ったばかりの男も、大いに楽しそうに語り、笑い、何度も肩をすくめてみせている。「これからは、ちゃんと気をつけて、楽しい旅を心がける」というような決意を述べている。2人の検札係も、その決意をほめ、激励し、3人肩をたたきあっている。これこそ、日本人の理解を絶した暖かさである。「ちょー、ムカついた」「ウザクない?」といって睨みつけるようなことは、正直いって誰も楽しくないし、誰も幸福にならない。払うものは早く払って、仕方がないから肩をすくめ、仕方がないから肩を叩き合い、ゴマかしあって、それで気持ちよく別れる。こういうのは、なかなか真似できない上級者の生き方である。


 13時20分、ちょうど1時間でICはコモ湖の国鉄駅Como San Giovanniに到着。さすがにヨーロッパを代表する保養地だけあって、タクシーもたくさん並んでいるし、駅前に大きなスーパーマーケットも発見。何より、タクシー運転手の感じが非常にいい。もちろん行き先がVilla D’Esteだったせいもあるのだろうが、今まででヨーロッパで乗った全てのタクシーの中で、1番か2番の乗り心地だったような気がする。写真は、Villa D’Esteの入り口。

 

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 ガイドブックには「入り口にはうるさい門番のオジサマが立っていて、訪問の目的や身分を入念にチェックされる」とあったから、両手に汗をかき、パスポートをガッチリ握りしめ、頭の中ではイタリア語想定問答集を作り上げて何度も反芻していたのだが、そんな入念なチェックなんか全くなし。拍子抜けするほど単純に素通りできた。ガイドブックというものは、とにかく大袈裟なものである。

1E(Cd) Myrra:MYRRA
2E(Cd) Hayley Westenra:PURE
3E(Cd) Solti & Chicago:BRAHMS/SYMPHONY No.1
4E(Cd) Solti & Chicago:BRAHMS/SYMPHONY No.2
5E(Cd) Solti & Chicago:BRAHMS/SYMPHONY No.3
6E(Cd) Solti & Chicago:BRAHMS/SYMPHONY No.4
7E(Cd) Menuhin:BRAHMS/SEXTET FOR STRINGS No.1 & No.2
8E(Cd) Baumann:MOZART/THE 4 HORN CONCERTOS
11D(DvMv) COCKTAIL
14D(DvMv) DEAD POETS SOCIETY
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