Fri 080620 ライ麦畑 ベルガモ Baretto di San vigilio | 今井宏オフィシャルブログ「風吹かば倒るの記」Powered by Ameba

Fri 080620 ライ麦畑 ベルガモ Baretto di San vigilio

 何かのはずみで本棚の庄司薫のホコリを払って読んだとすれば、その翌日にサリンジャーを引っぱりだして読みふけるのは、まあごく自然な流れである。庄司薫はすっかりホコリをかぶり、日本史の彼方に霞んで見えないほどだが、サリンジャーの方はまだまだ生きている。高校生時代に夏休みの課題図書で原典を読まされた世代が、やがて自ら高校の英語教師になり、その生徒たちにこれを勧め、その生徒たちも教師になって推薦図書にする。そうやって世代から世代へと受け継がれていく姿は「まさにバイブル」という実感がある。
 

 ただしちょっと気に入らないのは「英語の勉強のため」という色合いが濃いこと。高校の「課題図書」として、または大学1・2年の教養課程の教材として、最近は塾や予備校で「速読用」テキストとして採用されたりすることさえあるのだ。そういう使われ方で、またはそういう人気の保ち方で、最後に「ピュアな心に感動をもらった」とか、軽薄な感じのくくられかたで終わりというのでは、あまりに寂しいのだ。
 

 まあ、文学として不滅の魅力があるのは確かとして(実際メリーゴーランドの場面では今でも涙が出てしまうが)、さすがに少しは小説として金属疲労のようなものが感じられる。「村上春樹訳」というのは読んだ経験がないが、昭和中期・庄司薫の文体登場のきっかけになった「野崎孝訳のサリンジャー」を書店で見たりすると、どうしても一時代前のものであることを実感することになる。さすがに「やっこさん」はないだろう。
 

 しかし、もしも主人公ホールデンに今の日本の読者が共感できるとすれば、それは素晴らしいことである。これほど気難しいこだわりがあって、街でみかけるもの全てにいちいちうるさいコメントがついて、フォニーは全部嫌い、本物以外認めない、友人でも教師でも行き交う人々でも、少しでも誠実でないものがあれば拒絶し、強い吐き気を感じ、敬愛する兄であっても、映画の台本を書いているというだけの理由で否定し、「好きだ」とハッキリ言えるのは小学校低学年の妹Phoebeと、何年も前に死んでしまった弟Allieと、駅で出会った貧しい2人の修道女だけ。そういう17歳の少年の存在に、21世紀の日本の同世代の人々が心から共感し、終末部に示される彼のわずかな幸福の気配に深く感動できるなら、やはり不滅の力をもった小説なのだろう。
 

 そのへんの難しい話を、真剣に聞き入るニャゴロワが、もしもこんな賢そうな表情をしていたら、高級ペットショップの高級ネコに負けないのだが、残念ながらこの顔は3月中旬にエサか虫か下らないオモチャを発見したときのもの。実際は今日もテレビの下で缶詰のエサの夢でも見ていらっしゃるご様子。

 

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 一方、賢いナデシコには「これほど気難しい少年が、20年後30年後にどんな中年オヤジになるか、考えてみたことがありますか」と質問。「それは、もしかして、つきのわさん。あなたみたいな、我慢できないほどうるさくて、やかましくて、元気すぎるオジサンかもしれませんねえ」と答えて、肉球を見せてひっくり返った。つきのわさんとは、私のことである。(ただしネコたちの写真は3月12日のもの)

 

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 5月12日、ベルガモ・アルタのレストランの続きに入る。出してもらった赤ワインは5分ほどであっという間に空になり、早く12時になってレストランの営業が始まらないかと、30分近くずっと時計とにらめっこして過ごす。ところが、12時を回っても、料理を出し始める気配は全くない。それどころか、11時50分を過ぎてから一番向こうのテーブルに賄い料理が並び始め、店の従業員10名ほどがズラッとテーブルに並んで座を占め、賑やかな賄い料理パーティーが始まった。それがいかにも旨そうであり、楽しそうである。ワインの瓶も並んでいる様子。時々わっと笑い声が上がって、客のテーブルよりも雰囲気ははるかに明るい。


 私もワインの追加を注文したいし、いつもならグラスワインなんか30分もあれば5杯でも6杯でも飲み干すのだが、従業員たちの賄いテーブルが余りにも楽しそうで、とてもジャマなど出来そうにない。それが不快、あるいは不愉快、そういうのではない。客のことさえ目に入らないほど盛り上がっている従業員たちの食事の様子を見ているのが、何かパフォーマンスでも見るような感覚であり、笑いがこみ上げるほど楽しくて「あえてジャマしたくない」というのが実感。店からの眺めも悪くない。初夏の白い雲の下にロンバルディア平原が広がっている風景を眺めていれば、何もわざわざイライラすることもないだろう。写真右側が新市街バッサ、樹木の左側がアルタ。

 

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 他の客も同じように、従業員たちの楽しげな昼食テーブルを眺めて、実に嬉しそうである。私の隣のテーブルのオジサンなど、ちょっと腰を浮かしてそちらの方を眺めているほど。もちろん、なかなか始まらない食事にシビレを切らして帰ってしまった若いカップルもいたけれども、何しろここはベルガモ、しかも故障中のフニコラーレ2本分を苦労して登ってきたレストランである。ヴェネツィアやフィレンツェで、大急ぎで食事を平らげて次の観光地に走っていかなければならないパックツアーではないのだ。こういう「いかにもイタリア」というシチュエーションを楽しまなくては、むしろその方が大きな損失である。


 結局、レストラン営業開始、12時30分。パスタ1皿と肉料理1皿を注文し、赤ワインをハーフボトルで1本、さらに白ワインをフルボトル1本追加。ワインの銘柄などにこだわるような面倒くさいことは、そういうことの大好きな人に任せて、よく食べて空腹を満たし、ひたすらよく飲んだ。


 「イタリア語しか通じない」「英語は分かってもらえない」という状況もおおいに楽しめた。2枚の大皿から直接ガツガツ食らうのではみっともないから「小皿を2~3枚ください」と言ってみたが、これが通じない。「Puo portarmi due o tre piatini, per favore」はヴェネツィアでは通じたのに、全く分かってもらえないばかりか「完全にお手上げ」のポーズをされた。まず、言ったタイミングの問題。料理の注文の一部に「それと、小皿も」と言われたら「コザラ、なんていう料理は、うちでは出してない」と言いたくなって当然だろう。次に発音のスピードの問題「ピアッティーニ」をゆっくり発音しすぎた可能性がある。ニヤニヤしたアジア人が、遠慮深げに「こーざーらー、こーざーらー、こーざーらー!」と連呼していれば、やっぱり変態の襲撃か、変人の居直りにしか思えないかもしれない。

 

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 午後2時近く、すっかりいい気分になって、ベルガモ・アルタの中心街に降りた。今のレストランですっかり長居したから、今日このあとブレーシャに行く計画は完全に変更。夕方までじっくりベルガモを満喫することに決めた。上の写真はベルガモ・アルタのDuomo正面である。

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