●火鉢=径440mm・高さ36mm  火箸=265mm・333mm

 幼い頃、「火鉢」と「火箸」とは知らず、「ひばち」と「ひばし」、ややこしくて、よく混同しました。



   











使用可能ながら使わなくなったコンロ。

昭和の時代、関西、特に大阪ではほとんどの家庭にあったとみられる、

電気・ガスを使う卓上用のコンロです。


●電気コンロ(電熱器)



   



●ガス用たこやきコンロ


  









私は使った覚えのない、ちょっと昔の煮炊き用道具「こんろ」です。



 *「こんろ(焜炉)」は、土や金属でつくり、煮炊きに用いる持ち運びの出来る小さな炉。

「しちりん」「かんてき」「ちんからす」などとも呼ばれます。

 *「しちりん(七輪・七厘)」は、物を煮るのに価七厘という少量の炭で十分の火力を得ると

  いうことから名付けられた焜炉の一種。

  多くは土製で、「かんてき」はこの京阪地方の方言です。

 *「ちんからす(涼炉)」は、琉球から渡来した焜炉の一種。「ちんから」とも略します。

                       (以上、『広辞苑』など)



 写真の二点は共に土製で、主に室内用の焜炉と見られます。


●高さ150mm



●高さ195mm





















●掛け軸は、「木堂尺牘」と書かれた木箱に納められています。

 「木堂(もくどう)」は、第29代内閣総理大臣にも就き、憲政の神様とも称された

 「犬養毅(いぬかい つよし)」の号。

 「尺牘(しゃくどく、せきとく)」は、手紙・書状・書簡の意。

 従って、「木堂尺牘」は犬養 毅からの書状となります。


●犬養 毅は、安政2年(1855)岡山県生れ。

 昭和7年(1932)の五・一五事件で暗殺されています。享年78歳。

自由民権運動に活躍し、明治16年(1882)、大隈重信が結成した立憲改進党に参加、

帝国議会開催後は18回連続当選を果たしました。


●一方、書状の宛名の「中敬男(なか よしお)」は、筆者の祖父で、

 中甚兵衛からの八代目として、明治10年(1877)に旧福井藩士・栃谷家から中家に入りました。

 嘉永6年(1953)生れ、昭和4年(1929)没。享年77歳。


●敬男は犬養よりも一年早く、明治15年(1881)に立憲改進党に入党。

 明治23年(1899)の第一回衆議院議員総選挙に犬養らと共に立候補しました。

 しかし結果は敬男は落選、地方政治(郡会議員・村長・府会議員など)に就き、

 教育・治水・行政・政党活動に注力することになりました。


●二つ年下で国政議員に当選した犬養との交友はその後も続き、

 敬男が上京した時は大歓迎を受けたといいます。

 党首の「大隈重信」(1838~1922)にも知遇を受け、

 アメリカ渡来のキャベツの種子をもらい、在住地の今米(いまごめ)

 わが国初めてともいえる西洋野菜の本格栽培を行なうこともありました。

●書状の内容は、中敬男の病気見舞いで、

 「せいぜい自らの身体をいたわるべきで、そうすれば病もだんだん快方に向かい、

 きっと心も安らかになる」と、

 短い文ながら、いたわりと励ましに満ちたものです。







 ●昭和の終戦直後の復興期、昭和25年(1950)、高額紙幣として発行された千円札に「聖徳太子」の肖像が採用されました。正月7日のことです。

 以後、昭和59年(1984)に文化人に代るまで、千円・五千円・一万円と、お札と言えば聖徳太子というイメージが定着、高額紙幣の代名詞までになりました。

 ●今回の写真は、千円札が出る以前、戦時中の昭和19年(1944)に発行された百円札の聖徳太子です。(94mm×163mm


            

 オモテ面。正確な位置に印刷されていないのも、ご愛嬌でしょうか。





 「左栗(さりつ)」は、中 甚兵衛の子・九兵衛から数えて四代目、多くの俳句や短歌、書画を残した

「中 九兵衛重信」(1816~68)の俳号です。

 25歳になった天保11年(1840)、父・九兵衛重正の死後25年を機に、

それまでの俳号・蘭里を改め、父の俳号・左栗を襲名しています。


 その軸物のひとつです。


              


 「松引いて 手に持ちそゆる 若菜かな」の句と、

春の七草に含まれる、「菘(すずな)=蕪」と「蘿蔔(すずしろ)=大根」が描かれています。


 「松引き」は、七草粥を食べる正月7日の行事で、門松を払ってとんど焼きのため神社に送り込むことから「松送り」とも呼ばれます。









 熊手を持つ翁(おきな)と、箒(ほうき)を持つ媼(おうな)の一対の人形。

 高さ70mm程度の小さなものです。


 翁曰く、「お前(掃く)まで、わしゃ九十九まで(熊手)、共に白髪の生えるまで。」

 高砂(たかさご)と住吉の相生の松に寄せて、夫婦愛と長寿を言祝ぐ能の「高砂」をモチーフに、

結婚式などで目出度い謡(うた)いとして知られる俗謡にみえる台詞(せりふ)です。

 共に白髪になっても優しく微笑み合う姿は、末長く仲睦ましい夫婦の理想像とされます。



                                




 百僲(ひゃくせん)は、明治から大正にかけての京都東洞院の画家、「鈴木松年(すずき しょうねん)の初期の号。松年はのちの号。

 本名=鈴木 謙、幼名=百太郎。鈴木派の祖・鈴木百年の長男。
 嘉永元年(1848)生まれ、大正7年(1918)没。

 18世紀中期の江戸期の絵師「曽我蕭白(そが しょうはく)の再来と評され、「今蕭白」とも呼ばれました。





七福神に選ばれる、「恵比須神」と「大黒天」です。共に、高さ70mm程度。



作者は、近代の仏師・彫刻家として名高い「高村光雲(たかむら こううん)」。

生没年次は、嘉永5年(1852)~昭和9年(1934)。息子に高村光太郎がいます。

明治30年(1897)の東京・上野の「西郷隆盛像」(傍らの犬を除く)が、代表作の一つです。


 明治23年(1890)、 旧制で、帝室(天皇一家・皇室)の美術・工芸品の用命を受けた美術家で、官職待遇の栄誉職である「帝室技芸員」に任じられています。


          恵比須神                     大黒天


         

                      帝室技芸員 従三位 高村光雲作
















富山の名工「横山白汀(よこやま はくてい)」作の「寶槌」。

白汀の生没は、明治5年(1872)~昭和12年(1937)。

富山県東礪波(となみ)郡井波(いなみ)、現南砺(なんと)市に工房。