愛理は休み時間、教室の机で肩肘を突いていた。

ここ最近、透が学校に来ていない。


愛理には、小さい頃に両親を亡くした友達の透が居た。

2人は小学校から何をするにも一緒で、時々つまらない喧嘩しながらも仲直りを繰り返していた。

ずっと一緒で、時には鬱陶しさを感じながらも 

離れる事が無かったのはお互いにお互いの孤独を少しずつ分け合ってきたからかもしれない。

そうやって中学校も一緒にあがって 大きくなってきた。

透は、透けそうな白い肌に制服がよく似合う。いかにも な典型的薄幸の美少女だった。

愛理はどちらかというと、秀才肌で皆から頼りにされるけど、前に出ないタイプの子どもで、

いつも学級委員長などに指名されてしまう。責任感が人一倍強いタイプの子だった。

そんな愛理もずっと一緒に育ってきた透が居ると、

飾らない、ありのままの我侭な自分を知ってくれている という安心感を持つ事が出来た。


透は両親を同時期に亡くしたのではないのだが、父親は透が3歳の頃に事故死。

母親は病苦で自殺をしてしまった。

そこに至るまで、病弱になっていき徐々に気力を失い、未来を憂い。精神を病んでいった母親の精神面でのしんどさは透が引き受けていた様で、周りの大人は、その事を知りながらも巻き込まれる事を恐れ。

透のしんどさを救い上げる事が無かった。透は幼いながらも随分、辛い状況に身を置いていたのだと思う。

それから、父親が唯一残してくれた持ち家に祖父母が住み、そこで一緒に暮らした。

透の祖父も、祖母も 中々家から出ない人で 

社会的な唯一の接点が 買い物や愛理の母とのおしゃべりだけで、

そんな事から透の担任から、愛理はいつも「連絡係」としての役目を頼まれて、果たしていたものだ。

透の事は愛理の母は何でも知っていた。


小さい頃から大人と 親密で濃い、心地よい関係を築く事が少なかった透は

今でも大人と接するのが得意ではなさそうだったし、

母親と自分が辛い時期に誰も手を貸してもらえなかった事への大人への不信感はずっと変わることが無く。

表立って変に騒いだりはしないものの 

少しだけ反抗的でもあって そういう部分が愛理とは違う。

愛理には入っていけない透の大人びた部分に見えていた。

透は何故か人生の中で、人がそう体験しない。

誰かを見送る 『死』というものに直面する機会が、人よりも多い。

彼女は 周りに居る 多くの人間、ペットで買った野良猫、野良犬を見送ってきたせいか、

日常でも 漠然と 死に対する恐れを胸に抱いているように見えた。

どんな暮らしの中に在るにせよ。

明るい部分を抽出して生きていくのも人間の強さであり。

また『どこかに光を当てなければ生きていけない』のは人間の弱さでも在る。

普段 生きていると 自分が自然と『切り捨てて考えている諸々の事柄』を思った。

生きて行く為に、生き易くする為に、深刻にならないために、考えないようにしている諸々の事を。

悲しい、辛い、苦しい をなるべく抽出させないように と 意識したことが その頃の愛理には無く。

明るい世界の中で生きている事は 当たり前の事だと思っていた。


しかし透は意識して何かに光を当てなければ 

自分という人間の『確かさ』を実感できない という様なところがあった。

いつも大丈夫だと思っていなければ、良いことに光を当て続けなければ 生きていけないという所があったのだ。


透を通して、愛理は自分の身近な人を見送ると言う事、不条理で理不尽なものを残してしまう事。

近親者が健常な状態から近親者の老いを見ていく様や、希望する死に方、希望しない死に方 などを

考えた。

それを考えると いつも たまらなく怖くて仕方が無くなる。自分の大切な人。

普段、鬱陶しがっていても、「ちゃんとご飯を食べなさい。」といってくれる愛理の母親が、

普段忙しく働いているサラリーマンの無口な父親も。

居なくなったら・・・会えなくなったら・・・・と 考えると。

とてつもなく 怖い。誰が 私を守ってくれるんだろう。自分の当たり前の生活も全て、周りの人間なしでは考えられないんだと思うと、愛理は自分の未成年として守られる立場の不確かさと弱さを思った。

でも、透は こんな思いを何度も繰り返してきたのかもしれない。


久しぶりに愛理は部活の後で、透の家に行って様子を見てみた。


透は、元気そうだったけど 何故か 何処かよそよそしく見えた。

近くには『自殺遺児の会』という閉じた冊子と

『フリースクール○○学園』というパンフレットが置いてあった。

「これ、何?」と聞くと。

「そこに行ってみようかと思うの。」透は遠くを見るような眼で愛理を見た。


「学校は行かないの?」と聞くと。


しばらく沈黙していた後に

「私には・・生きていくのがやっとだから。生きてる事が当たり前の人と居ると、辛くなる。」と透は言った。

「もう帰って。」言い捨てるように言った。


愛理はショックを受けた。


透は『遺児』という言葉がすごく嫌いだった。 

それは 如何にも「可哀想に見えるから。」だそうだ。

「確かに 人から見たら 可哀想なんだと思うけど。可哀想だといわれて 嬉しく思うことは無い。」 と 

透は言っていた。


だから、透が そういう会に参加することになるとは愛理には思ってもみない事だった。


透は「人の情けを受ける というのは 嬉しい事だけど。

その可哀想という思いの『根源』を見てみると 

色んな事をマイナスの方向で思い出して、いつも 自分がいかにも可哀想に思えて大丈夫じゃなくなる。」と愛理にだけ胸の内をうちあけていた。

「そう言う事を自分にだけ話してくれて嬉しい。」と愛理は思っていたし、透にもそう伝えた事が昔あった。

透の辛さは愛理だけのものだ と思っていた。


誰かの死、何かの死に対しても 透は敏感すぎた。

最近死んでしまったペットの野良猫 モモの死にしても。

透は1週間も寝込んでしまった。死に直面するたびに、透は大きなショックを受け続ける。

そのくせ、透は野良猫や野良犬を拾ってくるのをやめなかった。


愛理が 母に事のあらましを話すと

「考えてみたら、透ちゃんは いつかこうなるのが当たり前だったのかもしれないわね。」と言った。

愛理は透が弱いと言われているようで、何か 違和感を感じた。


愛理は「でも透は心弱いだけじゃないよ。弱くなるのは 死ぬ事と向き合う時だけだよ。」

透に比べればかえって愛理の方が、心弱いくらいだよ・・・ 愛理はその言葉を飲み込んだ。


透はすごくしっかりした『誰にも譲れない自分像』というものを持っていた。


人間は何処か自分勝手で人には譲れない という 一面が無ければ、

世の中に出てやってはいけない。人を押しのけてでも自分が前に出るという気持ちが無ければ。

決して、自分を守れはしないんだな と 愛理は 透を見て思った事がある。


愛理は人にどう思われるか考えて、流されてばっかりなのに、

透は 自分を軸にして 何でも考えられるのだ。


時々、愛理は人の世話を焼いてるんじゃなくて、焼かされてるんじゃないかと馬鹿らしく思うことがあった。

『何の為に 私 こんな事をやってるんだろ・・・。』と。

いつも布を引いてアイロンをかけるいつもきちんとした制服。

眼鏡。肩にかからないショートヘア。指定の色をした靴下。優秀な成績。人当たりがいい態度。

人とうまくやっていく為に、人に合わせたり遠慮をしたりする事。


『何の為に・・・・。』そう考えると。

いつも自分のために生きていない様な気がして、愛理は嫌に為る事があった。


透自身は 自分という者を脇に追いやったり、遠慮をしたり。

自分を捨てた事は今までにあまり無かった。


それは親が居なくて「~しなければならない。」という強制力や 相手に対する気遣いや遠慮を

見て学んだりしなかった事も関係あるのだろうか・・・と 愛理は思った。


透がそうやって生きてきた積み重ねと言う事もあるし。、

結局のところ そうあらなければ透は 

自分で自分を生かしていられなかったのかもしれない とも 思う。


透が「これ以上は 誰にも踏み荒らされたくない。」「誰の影響も受けたくない。」 と 自分で自分を 

必死で守っているようにも見えた。

自己防衛のために譲らないし、誰にも渡さないのかもしれない。

それは愛理にしたら羨ましくもあった。自分もそういう強さを持ちたいと思った。

でも 透の頑なな姿を見ると、愛理は何処か胸が痛くなる。

それは決して 健全な思考から生み出されたものではなく。

透が辛さや痛みをもって生み出したものだと思うから。


そんな透が

誰かに自分の思いを渡せたり、情けをかけられることをよしとするには、彼女はまだ痛みを抱え込みすぎている。

痛みや苦しみは彼女にとっては 終わりが無いものなのでは 過去の事として処理されないのでは と思う。

そう思うと、何とか一緒に背負えないものか と 思うこともあった。どうか痛みが和らぎますように と 願うしか 私に出来る事は、無いと思っていた。


その透が 自分の痛みと向き合う努力をし始めたのだ。


透は自分自身で気がついていた。


「最近、モモが死んでから、私の周りには髑髏のグッズがふえはじめていた。」

「髑髏は生と死の象徴のようなものだ。」とテレビでどこかのリポーターが言っていた。

透は ポップでキュートな髑髏のマークが好きだった。

それは 自分自身が、生まれて初めて『より強く生きたい』という魂のメッセージのように感じていた。

ただ漫然と自分の事を何も知らない人の中で生きていたら

そういう風には為らなかったかもしれない。自分の事を知ってくれている愛理が居て、

あの子が私に優しくて、あの子が皆に慕われる存在だから。

私も影の中に閉じ込められている様な生き方が嫌に為ったんだ。

私も 自分の中に在る抱え込んでいる孤独を何とかしなくては と 思えたんだ。

透は愛理が憎い訳でもなかったけれど。自分に無いもの。

どうやっても手に入らないものを見ると、ついどうしようもなく腹立たしくて仕方がなくなってしまう時があり。

そんな時、愛理に対して邪険になってしまう自分の弱さを恥じていた。


自分でも 家族像というものに対して憧れが強く、

自分に肯定的なまなざしを注いでくれる人に対して執着がものすごく強いと思う。

反抗的な態度をとってしまうのに、極度に『失うこと』を恐れている。

まるで人を試している様な・・・「自分は寂しいんだ。」と訴えている。

デモンストレーションの様な受け取り方をされることがよくあるのだ。

でも、何処かに 『人はいつか離れていくものだ』という若い癖に、妙に老成した腹の決まりが在り、離れていった人の後は決して追わない。それは透のなけなしの自尊心がそうさせるのかもしれない。

「追いすがっても、立ち止まってくれた事の在る人など 居なかった。」その体験も透の思いを強化させていた。


そして 透は 自分のそういう部分が すごくアンバランスだと思った事がある。

『何で もっと素直になれないんだろう。』

もっと泣いたり 叫んだり、表現したりすれば 楽になるのかな・・・と 思った時期もあったけど。

透の中では いつも 死に直面する時、その事を考える時

自分の亡くなった両親の事が生々しく思い出されて 言葉にしたり、表現したりなどは

とてもじゃないけど出来なかった。

表現というのは、あるレベルまで心が落ち着いているから出来る事なんだと思う。

「私にとっては 両親の死はまだ過去のことではない。」 と思った。

そして、それは たとえ愛理であったとしても 感覚的に受け取るのは難しいだろうとも思っていた。


だから 同じ様な境遇のヒトタチと話す方が 良いだろうと 透は 思ったのだ。

たとえ 容姿が恵まれていようとも、私には決して勉強や人望で愛理に叶うわけは無い。

環境という土台が違うのだ。スタートラインが大きく離れているのだ。愛理は私に起こったことや状況は知ってるけど、痛みも悲しみも全部 私自身のものだ。


愛理の持っているもの、身につけたものは 私には手に入れられない。

全部自分でやらなくてはいけない。

喪失感の克服にしろ。生きていく為の肯定感にしろ。

誰から与えられるでもなく、誰をあてにするでもなく。

新しい環境では 全て、自分が動いて、自分で手に入れるのだと腹を決めていた。


今の状況では、同級生や教師と話すのさえ、時に辛く感じる透は。

だったら、新しく 全然違う自分にあった環境で一から始めてみるのもいいじゃないか。

出来たら、速い内が良い。


そう思った。だから 自分で動いたのだ。

遺児の会でお互いのことを少しずつ話し始めて、少しずつ少しずつ。話せるようになってきた。

時々、泣きながら話す言葉は いつも 哀しみと憎しみで満たされていた。

そういう部分を出す事が透には必要だったのだ。

その中で出会った遺児の1人 3歳上の咲紀と愛理は割りと年が近い事と趣味が似ている事から、

すぐに仲良くなった。


咲紀は言っていた。

「私には身近な父親像と母親像、青年期の大人像があまり頭の中にイメージとして無いらしくって。

そういう事に対しての礼儀や姿勢に対して、相手に対する親しみや

そういったものから生まれる保身的なずる狡さというものがあまりないんだよね。

そういう意味では社会的なスキルが身についているとは言えないかも・・・。」


透も自分にも同じところが在ると思った。


「目上の人と話す時は、いつも絶えず不安と希望が混在するの。

何処か「これで良い。」と人から言ってもらえるのを期待して 

独善・偽善的になってしまう。誰にでも優しさを振りまいてしまって、後で苦しくなったり。

誰かの言う事を良く聞く、『従順な良い子ちゃん』 に なってようやく安心するという様な面もあるしね。」

・・と咲紀は言っていた。


咲紀の内に秘めた『辛さ』は 抑圧してしまう事より、吐き出す事を望んでいるように見えるのに。

彼女はいつも枠の中にすっぽり納まって痛みを抱えたまま押さえ込んでしまう。

でもそこに触れてしまうには、まだ痛みを抱え込みすぎていて、とてもじゃないけど触れられない。


前の自分も こんな様子だったんだろうか と 透は前の自分の辛さを抱え込んでいた最中の姿を思った。


自分の中の辛さは少しも減っていないように思うけど、人に言えたのが まず大きな一歩だ。

・・と 現在の自分の姿と 辛さを抱えたまま必死に生きていっている咲紀のことを比べて考えた。


咲紀の家庭は 元々母子家庭だった。咲紀の母はシングルマザーだったのだ。

咲紀が12歳で、母が新しい夫と再婚して、生活の糧を得る為に夫を優先し、

少々家庭内のバランスを崩している母親に育てられ。

咲紀は精神的に搾取された と 言っていた。

弟や妹が次々に生まれ、その度に、余計に家庭を省みなくなっていく夫の様子に、

余計に妻である母親は苛立ち。混乱して。

その中で、母親が何度も自殺を繰り返し、ついに在る日成功してしまった。

それは咲紀にとって、ある意味では安堵と大きな哀しみを背負った出来事だった。

その後、彼氏が出来て 彼氏の家に泊まったりしていたそうだが。

その彼氏も暴力的な男で、しょっちゅう喧嘩になり、そのたびに痣を作っていた。

咲紀は このままでは幸せになれない と 思って。

住み込みのバイトを探して、ようやく自立したのだという。


「自立するようになって、余計に 寄り添ってくれる人なら誰でも良いとは思わなくなった。」と咲紀は言った。

「こんなに自分は頑張って生き抜いてきたんだから、絶対に自分にふさわしい人が現れる!と思うようになったよ。」


咲紀は笑った。

「私も精神的に問題を抱えている事は変わらないし、あんまり無理しないで、ボチボチ生きていこうと思うの。」と言うとピアスがついた口で缶ジュースをごくんと飲み干した。カチッと金属音がした。


咲紀の笑顔を まだ10代の前半で親権者の保護下ある透は、すごく眩しく思った。

「私もそういう風に思えたらな。」とため息をつく。

「なれるよ。きっと。」もう一度咲紀は言った。

透からみたら咲紀の笑顔は 自立する事の憧れと独りで何でも乗り越えて生きていく寂しさ、孤独。

そういうものを耐え抜いて頑張っている人の輝きに見えて、

周りに今までに居る『当たり前の幸せ』に浴した大人たちの 何処か冷たい姿とは違っていた。


透は毎日勉強のために フリースクールに通っている。

出来たら、将来 1人でも生きていけるように、手に職が在る仕事につこう とか、寮のある高校に入ろう と 思って勉強している。


幼馴染の愛理はこのまま順調にいったら

有名な学校に入って日本社会に容易に入りこんでいく事の出来る。

『肩書き』を手に入れる人生になるんだろうな と 透は思っていた。


だけどある日、突然 愛理は手紙を送ってきた。

「人の言いなりになったり、人の顔色を見て付き合うのが辛いの。」


透は 手紙を読んで初めて、愛理が居る世界も、普通に恵まれた状況の中で生きて

ただ単に真面目なだけではやっていけないんだ と理解した。


「崩れることで共感する思いもあるみたい。私 ずっと良い子ちゃんをしてきて目上の人からの受けを狙ってきて、苦しかった。『良い子』って言われるのも辛い。周りの子の反感を買っちゃうから。それだけじゃ、やっていけないの。多分透が側に居てくれた事で、何処かバランスをとっていたんだと思う。今までサンキュ。」


綺麗な字でそう書かれていた。


亡くなる日の前日に出した手紙だった。




















服を買って、髪を切って、自分の好きな音楽を流そう。

カフェでお茶しよう。自分の好きな空間の中に身を置く事で

依理子は 自分を大事にするという事の意味を考えていた。


誰にも頼らず。

誰かとも あわせずに気ままに過ごす。

それは依理子の性に合っても居た。


依理子は いつも いつも 介護と育児に追われる日々を送っていると 

自分の中の『何か』が 浸食されて 

自分という『人間』が無くなるような気がしたのだ。

そういう気持ちでなければ 他の自由に生きて青春を謳歌しているまだ娘のような独身の友達を見て、

『自分には何かが足りない』という焦燥感と嫉妬で いっぱいになるのだった。


母として 嫁として どこの部分にも 自分を一番に考える『隙間』などなく。

心の余裕など どこに置き忘れたのか とさえ思う。


母としてというのは 何時の日か終わりが来る。

子どもの成長をつぶさに見て、喜びを感じていく事の出来る依理子は

成長して いつか自分の元を飛び立っていく日までは、力を尽くして頑張ろう。

子どもの為だったら、生活費を削っても何とかする。何とかできる。

・・とも思えたのだけれど。

嫁としての介護の日々には もう永久に終わりは無いのではないかとさえ 思いつめていた。


自分の事さえ できず。


いつも神経を遣い。


いつも ぴりぴりしている。


時に 我を忘れた義母に掴みかかられ。

怒鳴り散らされる。顔に傷を作ったり、あざを作ることも多く。


そんな中でも 田舎だから近所の目が在るからと 『理想の家族』の姿として

義母の老いさらばえて 子どもになりつつある姿を かくしかくし生きてきたのだ。


しかし 「一体隠す事が 何になるのか?」 と 思うと やるせない気持ちでいっぱいになった。


夫は結局 仕事に行くし、子どもも学校に行く。

義母の面倒を見るのは 私で 殴られたり蹴られたりするのも それを家族の為だと隠すのも 依理子なのだ。 


お給料が出るわけでもなければ、誰に褒められるわけでもない。

何時になれば終わり という区切りも 無い。


そんな中で


むしろ人から「偉いね。」「大変ね。」など言われたら 依理子は イライラしてしまう。


どうせ何を言われたとしても 誰も介護を依理子とかわってやってくれるわけでもないのだ。

同情のまなざしなど要らない。依理子は『自分には関係が無い』という他人からの冷たい視線や

かけられるおざなりな言葉に 自尊心を打ち砕かれる思いがした。


どっちにしろ 「可哀想」や「依理子さんは偉いね・・・」などという人は 

遠くから要らぬ噂をするだけで。それなら余計な事は言わない方が良い。


そう夫は 言った。


「お前も 余分な事を言われたら イライラするだけだろうし。」と


その通りだけれど。何か やるせない気持ちを抱えてしまうのはどうしてだろう。


夫は家族の事として考えてくれているのだろうか。

そう考えると、とてつもなく寒々しい思いにとらわれてしまう。


介護というモノは私ひとりの手に、余るのかもしれない。


これからもっと子どもの成長とともに何かが起こる事も在るだろう。

今でも介護で手一杯なのに。

介護も育児も自分だけでは 抱えきれなくなってしまったら どうなってしまうんだろう・・・。


依理子は そんな不安を常に抱えて 何とか 日々自分にできる小さな事を こなしていたのだ。


「今日はあったかいね。」そう 義母に言うと 少し目を開けて 「うん。」と 言う。

少し 笑ったように見えて 依理子は少し嬉しかった。


そんな小さな嬉しさが在る反面。現実の重さに疲弊してしまう。


老いていくのは 誰もが通る道なのだ。


だけれども それを看取る方はなんと責任と負担の掛かることだろう。


自由な時間を満喫した後

依理子は1つ葉っぱが地面に落ちるのを見届けて また 家の門をくぐった。

そう 『家庭』という 戦場に。


「私も葉っぱの様に ただ落ちて地面に還るだけならばよいのに。」依理子は呟いた。


義母を見ていると つい 自分が年をとった時の事も 考えてしまう。

子どもたちに 自分と同じ様な思いをさせたくない・・・。


でも ひとりで死ぬのは寂しすぎる・・・。人間として 誰もが考えることだ。

気丈にひとりでも大丈夫 などと言うには 依理子は 未だ 若すぎた。


ただ 葉っぱが土に還って 肥やしになるように 

子どもたちには 自分がしている介護、義母が見せてくれているそのままの姿を見せてやりたい。

老いと言う事 老いと共に生きると言う事は こういう事なんだ。という事を 見て学んでくれたら良い。


どんな偉い人の薀蓄や説教などを聞くよりも

自分たちの姿が子どもたちの心に残り 肥やしになるんだ ということを信じよう。


それは依理子がウソ偽りの無い向き合い方で真摯に介護に向き合ってきた毎日の中 

子どもたちに 心の根の部分に栄養を与える事が出来た事なのだった。













 



スポンジに洗剤が吸収されていくのをじっと見ながら

母の怒鳴り声が聞こえる。

「お前はまた!・・・・」・・・・の言葉は毎度違うが。

たいして大きな意味はない。

ただ彼女は怒りたかっただけなのだ。


いつの間にか 抜き差しならない状況に我が身を置いている実感の苦しみに

美咲は自分の身体が今 張り裂けて バラバラに散らばっているところを想像して、自己破滅的になる事で気持ちをどうにか落ち着かせていた。

ワタシガキエテシマッテモダレモナニモオモワナイ。


「とにかく。」いつも その言葉で 自分の体制を整えようとしていた。

「とにかく・・・。」・・・・と母に指示を出した。

しかし母からは「あんたはいつも×××!」と 怒りと罵倒の言葉が返ってくるのだった。


それはいつもの佐伯家の日常風景なのだった。


だけど 美咲には これが自分の当たり前の日常だとは 決して思わなかった。

母は常に 何かに対して怒っているし、いつも怒りたがっている。

いつも何かに文句を言っている。いつも誰かに自分の事を何とかしてもらおうと思ってる。


「こんなに母の事を嫌っているのに

私は また この家に帰ってきてしまった。」美咲は 帰ってきてしまった自分の浅はかさを悔やんでいたし。

自分の中で自己破滅的な想像力が養われるのは そのせいなのかもしれないと考えていた。


考えたら 美咲は頭痛に 襲われた。

これもいつもの事。

ガラスのコップを手にして、水を注ぐ。

偏頭痛の薬を飲んで 暫く横になって ようやく落ち着いた。


美咲も美咲の母 伊予も 身体が弱い。

代々の遺伝という要素もあるし、そうではない要素も在る。

美咲は、母が傍若無人だからといって 

母を殴り倒したりしては居なかったが

母に対して怒りや憎しみを徐々に募らせるというのは

内攻的な美咲からして、仕方が無い事だったのかもしれない。


美咲は 実家の佐伯家から逃れたくてアルバイトをして働いたお金で 家を出て、彼氏と住んだ。

宗教勧誘に熱心でしつこい友達から逃れたかったからという理由も在る。

都合の良いときだけ親友だと言う彼女は 

美咲の存在など 自分の踏み台くらいにしか考えて居なかった。

しかし、離れようとしても 離れない。

美咲が親切にすると逆に逆ねじ食らわせてくるような女だった。

そこで 友達であった彼氏に相談すると 彼氏は縁を切れと言ってくれ

相談にも乗ってくれた。その時は、すごく親切に見えた。

しかし彼氏は 全てにおいて 短絡的な人だった。

やはり美咲と同じ様に 家庭に問題を抱える人でそれがゆえに 未だ大人になりきれて居なかったのだろう。

美咲は 彼の言っている事だけを信じずに、彼がしている行動を見た。それは賢い方法だった。

言葉ではいくらでも自分を良く見せようとすることが出来るが

態度や振る舞いは 修正がきかないのだ。

彼との破局は決定的だった。


それから まもなく 佐伯家に戻る事になった。

ただ戻るに当たって 美咲は覚悟もしていた。

美咲が居なくなって父とも上手く折り合えず放って置かれて

精神的に不安定になっている母が居たからだった。

美咲は それでも 家族として もう一度 この関係を構築しなおそう と 思った。

そして、家族として もう一度 助け合って分かち合って生きていく事を 選んだのだ。


そうしなければ 自分は 一生家族というものに縁がないのでは とさえ 美咲は思った。


「母の様子がいつもと違うと一番先に感じるのは、いつも私。
小さい頃から そうだった。具合が悪い人にいつも一番先に気が付いてしまう。」友人にはそう自分の置かれてる状況を説明していた。

伊予にする それらは『介護』ではなく『介助』という段階だけれど・・・。
伊予は行こうと思えば一人で外出だって出来るし、何だってひとりでも出来る筈なのだから。
介護ではない。身体をケアしなければいけないから介助ではある。


だけれども伊予は独りではどこにも行こうとしなかった。

それは 自分が万が一どうなってしまうのか解らないといった不安からなのか

それとも 社会的能力が欠けている為に 周りに馴染めない事が原因なのか。

父の啓蔵と美咲が・・・・中学生の頃から ずっと 伊予ケアをしてた。


美咲の身体の先天的に弱い部分も父の啓蔵がケアしてくれてる。


そういう意味では啓蔵は美咲にとって母の様な存在ではあり、それが唯一美咲の救いだった。


実の母といえども 時に 伊予と居る事は 美咲にとって試練の様に思えるときが在った。


伊予は 耳が悪いせいもあり、人の言う事を素直に聞かない。
耳が悪いと言う事が直一層 伊予の強固な『我』を、更に強くさせている。
聞こえない部分を自分の思考力で・・・脳内で言葉を埋めてしまうからだ。
要するに 何を言っても通じない人なのだ。

昔からそういう部分はあって、
実の母の伊予は、娘の美咲の言う事は信じないのに その癖
外から入ってくる情報には受動的な態度であった。


母として子どもを守る人ではなく 伊予は常に美咲を『責める人』であった。
伊予の中心には常に伊予だけしか居なかった。
『自分の為に』美咲に『良い子である事』を強要する様な母親だった。
そうではないと癇癪を起こす。地団太を踏んで。大声を出して。人目を憚らず怒り狂う。
美咲はそんな母を人前に出せないと思ったし、恥ずかしいと思っていた。

「お母さんの思い通りにならなくたって、人前で怒鳴り散らされるような覚えもない。」と

美咲が常に反抗的なので 途中から 伊予も諦めたのだろうが・・・

自分の欲求に対しては伊予は満たされるまで引き下がらなかった。


そんな事から、美咲は 母親の愛情というのに縁が無く 辛い思いも した。

伊予は母でもなく、女でもなく、ただの『子ども』だったからだった。


そう娘として 満たされていない思いが美咲にはあって 
それが 更に 母 伊予の面倒を見ることを精神的に難しくさせている。
「何故 私が 母の面倒を見なければならないのか。」 と 美咲が思うときも 無くはない。

「だけど 娘であるのは事実で その責任からは逃れられない。」と 美咲は思っていた。


「実の母でなければ・・・」捨ててるのに・・・。


伊予は 実は、脆くて傷つき易い自分の精神を守る為に、家族に攻撃的になり(甘えからか)

自分の虚栄心を外に向けて満たして、ようやく自己肯定感を得る。


家族が褒めるだけでは 彼女は 満たされない。


頑固で朴訥で不器用な父の啓蔵とだけでは暮らしていけないのも事実なのだ。


美咲でなければ家庭内の調和は保たれない。


それについては・・・・美咲は『人間としての役割を与えられている』とも思うのだが
子どもとしての立場で言うならば、親として見た時に彼らを苦々しくも思うし、時に重く感じる時もあった。


美咲は思う。

まぁでも 年をとるに連れて 人間は子どもに戻っていくのだと誰かが言っていたっけ。


伊予は痴呆症ではないのだけれど、

時代のせいもあって
子ども時代に物質的な我慢を強いられた事、
子沢山の家族で育って愛情というものまで生存競争を強いられてきた精神的我慢があった事。
時代の移り変わりの激しさ というのが・・・
彼女の心のバランスを崩した主な原因なのだろうと考えた。
それに加え あまり 世間一般の主婦がやってるように 
小ずるく立ち回り 自分を擁護してくれるようなコミュニティを築く事も 彼女には出来なかった。


田舎というわりあい閉鎖的で特殊な環境せいもあるし、彼女の持つ独特な世界が彼女自身が生きるのを難しくさせているようにも 美咲は感じる。


なんて不器用な母・・・。でも、考えてみたら不器用なのは娘である美咲も一緒なのかもしれなかった。


伊予は家庭内の主婦という一国一城の女主人の座を射止めるだけの裁量が在るにも関わらず。
自分を、自分の周りをも『幸福にすることができる能力』が無かったのだ。


『足りないもの』に目を向けるのは 何て 不幸なことだろう。


そういう母の精神の中の
『諸々』が 家庭という小さな檻の中で 噴出してた・・・そして今も尚 している。


彼女の心の中では、きっと 悲しくて 辛くて、惨めで 
整理でききれない事が いっぱいあったんだろうと美咲は想像する。


我侭を聞いてくれる誰かが居る・・・・そういった肯定感は
彼女にとっては必要なものなのだ。


だけれども、彼女は 自分は何の努力もしないで簡単に何かを手に入れる『楽な方法』として
『自分の当然ある権利』として・・・・
家族の中で行使する。「あれして。」「これして。」

それは娘である私こと美咲や、夫である父の啓蔵を 召使の様に扱うという事なのだ。


そして、それも時に 程ほどにしなければいけないということを
どうやったら 解らせる事が出来るのか ・・・・と言う事を考えると
美咲は また頭が痛くなる。

彼女は 娘である美咲を人前で恥をかかせたり罵倒したりする事も平気でするのだ。


父 啓蔵は「母の言う事を聞いてれば 問題は起こらない。」 と 考えている。
だけど、本質はそういう事じゃない。

啓蔵もまた、ある意味では問題から目をそむけている。


根本は満たされぬ思いを抱えた泣いてる子どものままの姿の母にあって
そういった自分の辛かった出来事を見つめ返して、考え直す事に対して
母の伊予は いつも 目をそらして逃げている。


母 伊予は『大人の心で』未だ幼かった頃の事を受け留めきれる様な段階ではないのだ。
そしてそれを理解し、受け容れ易くする事を啓蔵は考えない。


「大人だから。」と。


ある意味では 「仕方が無い。彼女はそうなるべくしてなってしまったんだ。」という部分も確かに在るのだ。


「今更 辛いことに対峙させるのは無理。」「今更、何も変わらんって。」啓蔵は言う。
美咲は その言葉を聴くたびに 絶望的な気持ちになる。

・・・・その通り。何もしなければ 何も変わらない。
変えないで済む。
啓蔵は決して 悪い人ではないのだが・・・
母の精神的な重荷を自分の伴侶の荷物として・・・自分も背負うべきものとして
受け容れる気概が全く無い。


啓蔵としては このまま ただ 伊予の我侭を受け容れて居るだけの方が楽なのは確かだ。

そして 病院の力でさえ借りようとはしない。

伊予が嫌だと言って怒鳴り散らすからだ。

いつも話はそこで終わる。根性のない啓蔵に美咲はうんざりもしていた。


美咲に負担が掛かっているという事実を 何故 啓蔵は解っていて
少しでも良くなるように・・・変えよう と 努力をしないんだろうか。


言っても聞かないのは確かだけど。何故 誰にも 手を借りようとしないのだろうか。


台風の様に怒りの風が吹きすさぶのをただ耐えてるだけでは おさまらない事なのに。


母が あぁいう風になってしまった原因の一部は 多分 啓蔵にもあるんだと 美咲は思ってる。


その事で喧嘩もした。


でも、いつも啓蔵は美咲に言う。「美咲には解らん。」と。


・・・・・啓蔵は 自分だけが辛い思いをしたと 思っているのだろうか?


母は 自分が抱えている孤独や寂しさ不安を 物質で満たそうとする。
ものがない時代に生まれたから、ものがあるという事に満足するのだ。
でも、美咲は部屋が物で溢れかえること我慢ならないでいる・・・ 
というのが 我が家の主な喧嘩の理由の1つでもあるのだけど・・・・

でも、今更 もう年だし・・・・ 
性格であろうが、習慣であろうが・・・思考であろうが
何かを極端に変えることはできないだろうな・・・と 美咲は半ば諦めかけても居る。

喧嘩のお陰かしら・・・と美咲は考える。

今は 少しでも 母が楽になるのならば・・・
私に出来る事があればやってあげたい・・・

そう思ってはいる。

美咲にとって それらは 『試練』なのだけれど。


少しでも 気持ちが 喜びに触れるように と 思う。


美咲は思った「強くなりたい。
家族が 幸せで居られるように。」


まずは 今の現況を 良い状況に変えるために美咲が出来る事は

今の現状を受け容れる事だけだった。


いつも均衡の取れるような尋常な状態ではない事もあるだろう。

そういう危険をはらんだときこの家族は 

新聞に載るような事件に発展するのかもしれない。