何故好きなことをした方が良いのか、それをとめることはどうなるのか
表現について考えさせられる出来事がありました。
先日、駅前のとあるお店で万引き未遂を目撃しました。
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肩掛けバッグに商品二つを入れようとした若い男性。
私が突然目の前に登場して目が合ったらバッグからまた取り出しました。
暫くしてその男性はお店から出て行きましたが
どう見ても常習犯。
私はお店の方にお伝えしました。
帰宅して家族とその話をしました。
その男性は、何を抱えているか分からないけれど
何か抱えていることがある。
お金に困っているようには見えない。
絶対に何か抱えてる。
変な言い方かもしれませんが、その男性にとって万引きは「表現」なんです。
反社会的な「表現」。
じゃあその反社会的な「表現」はどこから来たのか。
私は、本当は建設的な「表現」ができるのにその表現をしたい欲求を
どこかで抑えている証拠なんじゃないかと思います。
よく「注目されたいから、人の気を引きたいから万引きをする」と聞くことがあります。
その方に当てはまるかどうか分かりませんが
本当は何か他のことで注目を浴びたいのにその行動が出来ない。というか、しない。
本当にしたいことは、長期的に見たり本当の意味では
人に必要とされることだったりするのに
沢山の言い訳が不安の味方をして怖くてしない。
だからその抑圧から衝動、表現として万引きをしてしまうのではないかと想像しました。
抑圧でなかったら「よし!自分は万引きする為に生まれてきたんだ!」という前向きな理由があり
万引きしたところを私に見付かってバッグからまた取り出す、という必要もなくなります。
とは言っても私の頭の中で考えただけで
その本人の頭の中をしっかり見たわけではないので
一つの仮説でしかないのですが。
因みにもし、社会的に建設的と思われる表現欲求を抑えたら、
私の場合は自分をいじめるタイプです。
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これ、「私だけが傷つくからいいじゃん。」ではなく、
家族や友人たちはそんな私を見てもっと傷つくに違いありません。
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いくら自分をいじめるとはいえ、人間一人をいじめるのだから
人をいじめてるのと変わりありません。
万引き未遂を目撃したことは社会的に悲しいことだけれど、
自分にとって色々考えさせられるきっかけにもなりました。
ところで
私の周りにも、周りや社会を元気にする表現をする友人・知人、お世話になっている方々が沢山います。
本人は「こんなで?」と思っても、その活動は人を傷つけないし
喜ぶ人が一人でもいれば充分建設的な表現です。
なのでその表現は尊敬・尊重に充分値します。
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もし自分の大事な友人たちが表現を抑圧したら・・・と想像するだけでゾッとすることもあります。
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心を健康に、幸せでいてくれる姿は、周りも元気にします。
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