午後からは弥山(みせん)に登拝させていただきました。
ロープウェイを乗り継いで、終点からは歩いて山頂に向かいます。
歩きながら、三輪山(大神神社)を登拝させていただいたときのことを思い出す。
エネルギーは違うんだけど、似ている。(三輪さんはキビシー。でもすごく好き)
『神のハラの中に居る…あの感じ』
山そのものをご神体とする三輪山同様、
宮島は『いつく(き)しま(伊都岐島、斎島)』と呼ばれ、島自体が神そのもの(ご神体)として信仰されてきた。
宮島は「島全体」と言うところがポイントだと思っていて、そのポイントとは、山もあり海もあり、真水もあり海水もあり、、、というところだと思う。(これが「すべてある」ということ)
★自然(神)の中に自分を放り込み、そのエネルギーと同化する。自ら入る。修行とはそうしたものである。
弥山山頂はずっとここにいたいと思うような場所でした。
景色も素晴らしい。
岩と岩のすき間で遊んだり、寝転んだり、しばらくボーッとする。
すると落ち着くを通り越して、なんか落ち込んでくる。しかし、それが今のわたしなのだ。
『本当のところがあらわになる』
地上に降りるにつれ、自分がどれだけ波動超絶たかおな場所に居たのか認識されてくる。
聖地にいれば『よき自分』『清々しい心持ち』でいられるのは当たり前。
しかし下界?に降りて、それを保っていられるか?聖地の波動から学び取り、本当に『そう』なれるか?
『自分が聖地となれるか?』
『自分が聖地で居続けられるか?』
山を降りながら、ちったあ今よりましな人間になりたいと思う。
私が思うましな人間はきっと、私の家族が思う(期待する)ましな人間とは
大分違うだろうな、、、なんて思いながら。
でもそれでも、私は私の道を歩きたくなっていた。
帰り道で再度『霊火堂』を経由したため、お参りをさせていただく。
この霊火堂では、空海さんが灯した火を、絶やすことなく燃やし続けていてくださっている。
その月日は1200年。
その火で沸かされた水(湯)を飲ませていただくことが出来るのです。
その湯のあたたかさは確かに私の根源に届いた。
絶えぬ炎が私の中にも燃えている。
(炎と言えばやはり煉獄さんBY鬼滅の刃)
のうまくさーまんだ ばざらだん せんだん まかろしゃだそわたや うんたらた かんまん(不動明王真言)
のうぼうあきゃしゃ きゃらばやおん ありきゃまりぼり そわか(虚空蔵菩薩真言)
何度も何度もご真言を唱えながら下山します。
弥山へ登拝させていただけたこと、この場所が存在しているという事への喜びを噛みしめながら。。。
そして私は磐座の魅力にやっと気づいたかもしれない。。。
③につづく!
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