FB相田公弘氏投稿 「サウンド・オブ・ミュージック、マリアが語る一家の物語」 | imaga114のブログ

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以前、NHKの”プレミアム10”で「サウンド・オブ・ミュージック、マリアが語る一家の物語」という番組でトラップ家の次女マリアのインタビューを放映してました。
サウンド・オブ・ミュージックはローマの休日と並ぶ私のお気に入りの映画です。
1965年のアカデミー賞5部門、ゴールデングローブ賞2部門を取った名作で、中学生の時に観てオーストリアの景色、歌、ストーリーに感動しました。
次女のマリアは高齢でしたが、チャーミングな女性で、ザルツブルグの音楽院でカラヤンと一緒だったそうです。以下にジュリー・アンドリュースが演じたマリア・フォン・トラップの記事を記します。



生まれてすぐに母を亡くしたマリアは、父の手で親戚に預けられたが、その父も九歳のときに失った。やがて預けられていた親戚との折り合いが悪くなると、彼女は家を出て全寮制の学校に入った。音楽が好きだった彼女は青年たちのグループに加わってオーストリアの民謡を習った。もともとキリスト教に反感をもっていた彼女は音楽を聴きたいためだけにカトリック教会のミサに預かっていたが、やがてキリスト教に心を惹かれるようになった。



信仰を徹底しようと、ザルツブルクにあった女子ベネディクト会のノンベルク修道院に志願者として入ったが、修道院の暮らしになじめず体調を崩した。そこで院長の勧めで修道院を離れ、娘マリアの家庭教師を探していたトラップ家に住み込みで働くことになった。



1926年にトラップ家にやってきたマリアは、もともと音楽が好きだった七人の子供たちと心を通わせるようになり、子供たちとハイキングに出かけたり、バレーボールやサイクリング、ダンスなどに興じるようになった。やがて、父親のゲオルク・トラップと心を通わせるようになり、1927年11月27日にノンベルク修道院で結婚式をあげた。このとき父親のゲオルクは47歳、子供たちは長男ルーペルト16歳、長女アガーテ14歳、次女マリア13歳、次男ヴェルナー12歳、三女ヘートヴィック10歳、四女ヨハンナ8歳、五女マルティナ6歳であった。やがてゲオルクとマリアの間にもローズマリー、エレオノーレ、ヨハネスという一男二女が生まれ、12人の大家族になる。



1933年、オーストリアを襲った金融恐慌によってトラップ家の財産を預けていた銀行が倒産し、財産を失った。その頃知り合ったフランツ・ヴァスナーという神父は、グレゴリオ聖歌に精通しており、兄弟姉妹の歌の指導をするようになった。さらにひょんなことから1935年のザルツブルク音楽祭に参加し、ヴァスナー神父の指揮で兄弟姉妹と母親で歌ったところ優勝してしまった。以降、この合唱団は人気となり、やがてヨーロッパ全域を回り、「トラップ室内聖歌隊」という名前でコンサートをおこなうようになった。



1938年、オーストリアはナチスに併合された。ちょうどその頃、アメリカ合衆国のエージェントから公演の依頼を受けていたこともあり、家族でオーストリアを離れることになった(ナチ党員だったにもかかわらず一家に同情的だった執事が亡命を進言した)。一家と行動を共にすることに決めたヴェスナー神父と一家は汽車を乗り継いでスイス、フランス、イギリスへと渡り、サウサンプトンからアメリカへ向けて出航した。アメリカでのビザが切れると再び一家はヨーロッパへ戻り、そこでもコンサートを行って、1939年10月に再びニューヨークへやってきた。



1940年になると大手プロダクションが家族のプロデュースを引き受けることになったが、その時に「トラップ聖歌隊」という名前を改めて「トラップ・ファミリー合唱団」にし、曲目から聖歌を減らしてフォークソングを中心にするよう改められた。こうしてアメリカ中をまわるようになると再び評判を呼び、1956年までコンサート活動をおこなった。1948年、一家はようやくアメリカの市民権を得た。



夫ゲオルクは1947年に亡くなったが、マリアは家族の歴史をつづった『トラップ・ファミリー合唱団物語』(1949年、邦題:『サウンド・オブ・ミュージック』・「サウンド・オブ・ミュージック アメリカ編』)や『トラップ一家の物語』(1955年)などを次々と出版し、ベストセラーになる。



1956年、ドイツの映画会社がマリアの著作の映画化と関連権利のすべてを9000ドルで買い取った。この時収入を必要としていたマリアがすべての権利を売ってしまったため、以降の映画がもたらした莫大な収入の恩恵に家族はまったくあずかることができなかった。ドイツではこの著作を元に,当時のトップ女優ルート・ロイヴェリク主演の二本の映画(「菩提樹」「続・菩提樹」)が作られ、さらにアメリカのプロダクションがその権利を買い取ってミュージカルを作ろうと考えた。そこでリチャード・ロジャーズとオスカー・ハマースタイン2世の売れっ子コンビが作品化を引き受け、トラップファミリー合唱団の実際の演目を使うという当初のアイデアを捨てて、完全にオリジナル曲を作ってミュージカル化した。



ミュージカルは大ヒットしたが、あまりに現実とかけ離れた物語や父ゲオルクの人物造形にマリアと子供たちはショックを受けた。やがて1965年にジュリー・アンドリュースの主演で映画化されると世界中で大ヒットした。このときもマリアは脚本家に対して、夫ゲオルクの書き方を改めてくれるよう頼んだが、結局聞き入れられなかった。



一家がコンサート活動を終えると、マリアは数人の子供たちとバーモント州ストウにトラップ・ファミリー・ロッジを開き、自給自足の傍ら、訪問者をもてなしながら各地で講演活動を行った。



映画以上の激動の人生を送ったマリアは1987年3月28日に闘病生活の末にこの世を去った。現在、マリアはトラップ・ファミリー・ロッジの一角の墓地にゲオルクらと共に眠っている。

 

 

 

 

 

 

 

Aerial view of Lodge




豆知識
原作者のマリア・フォン・トラップ本人がワンシーンだけ通行人として映画に出演している。(『自信を持って』の曲中)
ザルツブルクで撮影された本作だが最後の山越えのシーンは視覚効果のためかザルツブルク-スイス越えルートとは全くかけ離れた場所で撮影された。このため地元民から見ると地理的にありえないラストシーンとなりこれを見た彼らは唖然とするばかりであった。それゆえ地元であるザルツブルクではこの映画はあまりヒットしなかったという。
修道女の一人、シスター・ソフィア役は王様と私などのミュージカル映画の歌の吹き替えで有名なマーニ・ニクソンである。
長女リーズル役のチャーミアン・カーは将来を嘱望されていたが本作の直後に結婚出産したため女優業を引退してしまった、しかしながら今でもこの作品の思い出話などの講演依頼が途切れることはなくそれなりの副収入になっていると本人は語っている。
当時トラップ大佐役のクリストファー・プラマーは35歳、マリア役のジュリー・アンドリュースは28歳。実話では、トラップ大佐はマリアより25歳年上であった。ちなみにリーズル役のチャーミアン・カーは、当時UCLAの学生で21歳であったが、16歳の長女役を演じた。
トラップ男爵はかつてオーストリア海軍の潜水艦隊司令官を勤めていた。第一次世界大戦中多くの戦果をあげ、その功績によりいくつかの勲章と准男爵の爵位を得ている。ドイツが男爵を引き込もうとした背景には、こういった戦歴や名声を政治的宣伝に利用する目的もあったと思われる。また「大佐」と呼ばれているが、これは誤訳であり、実際には少佐が最終階級であった。
当時20世紀フォックス社は作製した映画が失敗続き、起死回生をねらった大作「クレオパトラ」にも大失敗、倒産も間近と思われたが、この映画の大成功により経営を立て直すことができた。

このトラップ・ファミリー・ロッジを訪問したくなりました。