④
9月9日 9:08
医師の家庭物語(4)
夫は医師
妻は専業主婦
長男の隆
次男の健二
という4人家族のコメディー。
医師の夫は急激な身辺の変化に
戸惑い始めた。
子供の頃から神童扱いをされ、スポーツは
苦手だったが学業は優秀で進学校に進み、
医大に進み医師免許を取得、地域でも医師
として一目置かれ子供が小学生の時は当然の
ごとくPTA会長も務めた。
年収も悪くない。
家庭も特に問題もなく順風満帆に日々を過ごし
ていた。
しかし、コロナ禍が始まってからの2年半は
ことごとく妻と意見が合わなくなり最近は
二人の息子まで自分に反発するようになってきた。
医師の夫には考えられない展開である。
更には生まれて初めて浴びせられた人生初の言葉
「お父さん、頭悪いね。」
という屈辱を次男の健二から受けた。
職場の看護師からも周囲からも言われたことが
ない人生初の言葉に医師の夫は戸惑った。
何がどうなっているのか成功体験しか経験のない
医師の夫は理解できない。
いつものように朝食の場面。
妻
「あなた、まだ根に持ってるの?」
夫
「別に。」
妻
「顔に書いているわよ。さっきからふてくされた
まんまで。」
夫
「そうかな。」
妻
「結果論だけど、良い断捨離になったじゃないの。
もう受験時代の偏差値なんて忘れたらどうよ?」
夫
「模試で全国3位だったんだぞ。それを・・・。」
息子の隆
「お父さんまだ言ってる。」
夫
「いくら親子とはいえ、人のものを確認もしないで
廃品回収に出すなんて許せんな。」
息子の健二
「古新聞の束の上に置いていたんだよ。廃品回収に
一緒に出すと思うじゃないか。」
夫
「河合塾の全国模試で偏差値75を出すのが
どれだけ凄いか健二は分からないだろ。反省しろ。
少しは反省を。」
息子の健二
「偏差値偏差値って、お父さん何か小さいなあ。」
夫
「お父さんの思い出を勝手に捨てておいて、健二、
ごめんなさいとか悪かったとか、何か無いのか!」
妻
「あなた、やめなさいよ。何をムキになってるのよ。」
夫
「俺の青春時代の努力の記憶だぞ!河合塾の全国模試
で全国3位になることがどれだけ大変で、どれだけ
凄いことかお前たちには分からないだろうな。」
息子の健二
「そんなもの別にもういいじゃないか。」
夫
「健二!ごめんなさいくらい言ったらどうだ。」
そうして怒りを抑え切れず立ち上がり腰に手を
当ててミルクを飲み干す夫。
息子の隆
「別に模試の記憶なんて、いつまでもこだわる
中身じゃないよ。お父さんの青春時代は模試しか
無いの?他にお父さんの青春時代の話題を聞いた
ことが無いよね。」
妻
「お父さんの青春は暗い青春だったからね。」
夫
「おい、何を言うんだよ。」
息子の健二
「俺たちが小学生の時の運動会、お父さんは
足が遅かったよな〜。地区対抗リレーでさ、
先頭でバトンを受けたお父さん、ゴボウ抜きされて
一気に最下位になってさ。しかもかなり離されて。
皆んなに笑われたよな〜。」
夫
「おいおい、そこに話題が行くのか。」
息子の健二
「皆んなにからかわれたんだよ。健二のお父さん、
お医者さんだけど足が遅いな〜って。木村くんの
お父さんは速かったな〜。」
夫
「やめろよ、その話。」
妻
「ふふふ。」
夫
「お前、何を笑ってるんだよ。皆んなで俺を
見下したように。」
息子の隆
「お父さんの青春時代の話、全然聞いたことが
ないな。」
夫
「また今度な。」
息子の隆
「お父さん、中学生の時の部活動は何だった?」
夫
「うむ。」
妻
「帰宅部よ。何もしてないわ。」
夫
「お前、息子の前で余計な事を言うなよ!」
息子の隆
「はははは、帰宅部!?」
夫
「うるさい!」
息子の隆
「じゃあお父さん、高校生の時の部活動は?」
夫
「うむ。」
妻
「帰宅部よ。何もしてないわ。河合塾一筋よ。」
夫
「お前なあ、息子たちの前で余計な事を言うな!」
息子の健二
「はははは。お父さん、オタクだったの?」
夫
「コラッ!何を言うんだ。」
妻が息子たちのご飯のおかわりをつぐ。
不機嫌にミルクを飲む夫。
夫
「ところで隆と健二、そろそろ志望校を絞って
考えたほうが良いかな。特に隆は受験の年だし、
健二も再来年だし早めのほうが良いだろう。」
妻
「自分らで考えてるわよ。」
夫
「ところで隆は医科大学に進学するつもりは
ないのかな?」
息子の隆
「ない。」
夫
「あっさり言うんだな〜。お父さんの姿を見て、
将来は医者になりたいという夢はないのかな。」
息子の隆
「ない。」
夫
「健二はどうだい?将来は医者になりたいという
夢や目標はないのかな。」
息子の健二
「ないよ。」
夫
「あのなあ、隆と健二、お前ら最低でもどちらかは
お父さんを見倣って医者を目指せよ!」
息子の隆
「嫌だ。」
夫
「じゃあ隆、健二、お前らの夢は何だ?」
息子の健二
「旅に出たいなあ。自分探しをしたいな。」
夫
「健二、お父さんは真面目に聞いてるんだぞ。
医者になりたいという夢はないのか!」
息子の健二
「ないよ。」
不機嫌になり怒りを抑え切れず腰に手を当てて
ミルクを飲み干す夫。
妻
「あなた、さっきからミルクばかり。飲み過ぎよ。」
夫
「お前が最近、息子たちの前で陰謀論ばかりを
唱えるからこうなるんだよ!医者になりたいと
思わないなんて、何を考えてるんだ!」
妻
「あら、いいじゃないの。この子らは自分で
考えて決めたら良いのよ。」
夫
「許さん!それは許さんぞ。隆、健二、最低でも
お前らどちらかは医者を目指せよ!」
息子の隆
「うるさいなあ。俺はやりたい事があるんだよ。」
夫
「何だよ?」
息子の隆
「起業したいんだよ将来は。」
夫
「何の?」
息子の隆
「健康企業だよ。液体被害の人々を解毒したい。」
夫
「隆、お前なあ。液体被害って陰謀論じゃないか。」
息子の隆
「お父さん、陰謀論の多くは事実だぜ。」
夫
「お前たち!3人揃って陰謀論者になったか!」
息子の健二
「お父さん、石頭だな〜。」
夫
「お前らどちらかは医者になれ!いいな!今日は
お父さんは少し早めに帰るからゆっくり話し
合おう。ハンバーガー買って帰るから。」
妻
「やめて。」
夫
「マクドナルドが嫌だったな。じゃあモスバーガー
なら良いか?」
妻
「そういう問題じゃないでしょ。」
夫
「マクドナルド、モスバーガー、どちらもMだが。」
妻
「関係ないわ。あなた、そろそろ出勤の時間よ。」
そうして妻に促されて玄関で靴を履き藪病院に
向かう夫。
今日も一家の一日が始まる。
つづく。
9月10日 9:13
医師の家庭物語(5)
爽やかな早朝。
小鳥が木々に飛び交い次第に街が
動き出す。
いつもの朝食の場面。
息子の隆
「お父さん、567ってまだ誰も
存在を証明できないそうだね?」
夫
「ん?」
息子の隆
「ん、じゃないよ。世界中でまだ誰も567
の存在証明をした人はいないそうだね。」
夫
「何言ってんだ。ウイルスの写真が毎日毎日
出てるだろ。」
息子の隆
「お父さん、本当に何も知らないんだねえ。
もしかしてお父さんB層?」
夫
「お父さんは医者だぞ!隆よりは膨大な資料を
見ているし臨床もしている。」
息子の隆
「国立感染症研究所が567の存在を証明できない
じゃないか。」
夫
「ん?それは・・・・・。」
息子の隆
「567ウイルスが存在している証明を日本の
最高検査機関ができないのにさ、なんで液体が
存在できるの?おかしいじゃん。」
夫
「隆、それは、それは・・・・そ、それはな。」
思わず席を立ち、腰に手を当ててミルクを飲み干す
父親としての医師。
動揺が隠せない。
息子の隆の成長が著しく、的確な質問や的を得た
嫌味にたじろいでいる自分に気付いたからだ。
ミルクを飲み干して深く息を吸い込んだ。
おかしい、何かがおかしい。
これまで自分は常にエリート街道を歩いてきた筈だ。
誰からも無知や学力の無さを笑われたことはない。
しかし、しかしだ。
最近の息子たちは明らかに軽蔑と嘲笑の眼差し
で父親である自分を見つめているではないか。
しかも、最近は息子たちの的を射た会話にうまく
切り返せなくなっている自分がいる。
何故だ。
何かが違う。
自分はまだ時代に取り残されるつもりはない。
俺は医者だ。
多数の看護師を部下に持ち指導してきた。
落ち着け。
息子に負けてはならない。
しかし息子たちの鋭い視線や的確な嫌味にいつまで
耐え切れるのか。
落ち着け。
落ち着け。
俺は医者だ。
俺はエリートじゃないか。
息子に翻弄されてどうする・・・・。
そうして腰に手を当ててもう一度ミルクを飲み干す。
妻
「あなた、ミルク飲み過ぎよ。お腹壊したら
どうするのよ。」
夫
「ああ、ちょっと気合いを入れたのさ。」
そうして席に戻る夫。
息子の隆
「来年春まで567液体って治験中らしいね。」
夫
「ん?」
息子の隆
「ん、じゃないだろ。治験中の液体って推奨して
もいいの?」
夫
「へ?」
息子の隆
「へ、じゃないだろ。治験中ってことはさ、まだ
安全や効果が確定していないって意味じゃん。」
夫
「は?」
息子の隆
「は、じゃないだろ。打って打って打ちまくれって
お父さん言っているけど、いいのか?」
夫
「うっ・・・。」
息子の隆
「安全が確定していない液体を打ちまくるのは
お父さん、犯罪だぜ。」
夫
「な、何を言い出すんだ隆!」
そうしてまた席を立ち、腰に手を当ててミルクを
飲み干す夫。
と、腹が痛くなりトイレに駆け込む。
妻
「あなた、ミルクの飲み過ぎよ。お腹を壊したら
看護師らに笑われるわよ。医者の不養生って。」
夫
「うるさい!」
しばらくトイレから出てこない夫。
息子たちのご飯のおかわりをつぐ妻。
健二は朝から食欲旺盛で味噌汁のおかわりが
3杯目になる。
妻
「あなた、まだなの?時間が無くなるわよ。」
息子の隆
「お父さん、本当に何にも知らないね。大丈夫
かなあ。」
妻
「隆に論破されて朝からショックみたいね。」
息子の隆
「これくらい結構みんな知っているよ。」
妻
「与えられた知識と情報ばかりに生きてきた人
だからね。枠を出た話は全部、陰謀論だと
切り捨ててきたから進歩しないのよ。」
息子の隆
「化石になっているなあ。」
妻
「ちょっとあなた、まだなの?味噌汁が冷める
わよ。出勤の時間も考えて!」
ようやくトイレから戻ってきた夫。
口角を不自然に釣り上げた作り笑顔が見え見え
だった。
夫
「隆くん、朝食は議論の場ではないよ。食事は
美味しく、楽しく頂くことが大切だからね。」
息子の隆
「お父さんが知らなさ過ぎるだけだよ。」
夫
「隆くん、美味しく食べようね。さあ。」
息子の隆
「安全が確定していない液体を打って打って
打ちまくることは人道上の罪になるぜお父さん。」
箸が止まる夫。
隆のその言葉に固まってしまった。
夫
「隆くん、隆くん、まるでお父さんが犯罪者で
あるかのような縁起の悪い話を朝から、しかも
朝食の場で言うことはやめてくれないかな。」
息子の隆
「お父さん知らないのか?新ニュルンベルク裁判
ってのがさ、世界規模で動き出してるよ。」
夫
「つまり・・・・?」
息子の隆
「人道上の罪は極刑だよ。軍事裁判になるみたい
だぜお父さん。」
夫
「た、た、隆!何が言いたいんだ!」
息子の健二
「お父さん、賄賂でも貰ってるのか?」
夫
「健二まで!何を言ってるんだ!」
妻
「あらまあ、隆も健二も、朝っぱらからお父さん
を追い詰めたら可哀想よ。話題を変えなさい。」
呼吸が乱れて大きく肩で息をする夫。
箸が全く進まず、ほとんどが手付かずのまま
食卓に並んだまま。
息子たちの著しい成長に戸惑いを隠しきれなく
なっていた。
息子の健二
「ところでさ、お父さんとお母さんってさ、
どうして結婚したの?」
妻
「さあ、どうしてかしらね?ね、あなた?」
夫
「・・・・。」
息子の健二
「どう見ても美女と野獣じゃないか。謎だよな。」
夫
「またお父さんに刃が向かうのかよ。何が野獣だ!」
妻
「ふふふふふ、この人ね、そりゃあまあ、とても
とてもしつこかったのよ。」
夫
「なんだよ、お前まで。あ、もう出勤の時間だ。
お父さん、行ってくるからな。」
そうして逃げるように玄関に向かい靴を履き、
藪病院に向かう夫。
いつしか食卓が針の上のむしろのように感じ
られてきた。
玄関先でつい一言。
夫
「もしかしたらしばらく夜勤で帰れないかも
知れないよ。」
息子の健二
「逃げるな!」
こうして一家の一日が始まった。
この先どのような展開になるでしょうか?
つづく。
2022/9/11 9:49
医師の家庭物語(6)
4人家族の医師一家だが医師の夫
の帰宅が夕食時間帯には間に合わない
ために家族の食事時間帯がバラバラ
になる。
家族4人が揃って食卓を囲むのは
ほとんど唯一、朝食の時のみである。
夫の医師が出勤する前の朝食が唯一の
家族揃った一家団欒の場なのだが、
最近はやたらと妻や特に息子たちの
意見が的を射てきており、噛み合わない。
夫であり父親の自分は何か取り残された
かのような気持ちにさせられてきた。
まるで朝食が被告人席であるかのような
居づらいものに変わってきている。
夫の医師は次第に苦痛になっていた。
朝食の席は針の上のムシロのようだ。
さて、そのような中、いつものように朝が来た。
息子の健二
「お母さん、ごはんおかわり。」
妻
「健二は朝から食欲旺盛ね〜。いいわね〜。」
息子の隆
「僕もおかわり。」
妻
「二人とも朝からよく食べるからご飯を炊く量
を増やさなきゃいけないわね。」
息子の健二
「あれ、お父さんは今朝はまだ?」
息子の隆
「いつもなら降りてくる時間だけどな。」
よく耳を澄ますと階段から人の気配がしてくる。
ミシッミシッと微かな音がする。
台所の席を立ち階段を見に行く息子たち。
息子の健二
「あ、お父さん何やってんの?」
夫
「あ!」
息子の健二
「何やってんの?忍者みたいにコソコソと階段を
降りてこようとしてさ。」
夫
「あ、いやいや、あ、あのな、お父さん今日は
朝から緊急会議が入ったからすぐに出なければ
いけなくなったんだ!」
息子の健二
「だから?」
夫
「い、いや、だから朝食を食べる時間が今朝は
無いんだ。」
息子の健二
「だから?」
夫
「い、いや、だから君らに気を遣わせてはいけない
と思ってさ、こっそり家を出ようと思ってたんだ。」
息子が健二
「嘘つけ。お母さん、きちんとお父さんの分も
朝食用意してるよ。」
息子の隆
「で、何の緊急会議なんだよ?」
夫
「い、いや、ほら、何だ、看護師を集めてさ、
緊急ウイルス対策会議だよ!」
息子の隆
「そんなもの朝からあるわけないじゃないか。」
夫
「あるんだよ!」
息子の隆
「見え透いた嘘をつくなよ。さあ、早く台所へ
来ないと朝食が冷めるよ。」
夫
「会議が緊急にあるんだよ!だから今朝は一緒に
朝食を食べる時間が無いんだ!」
妻
「あなた、そんな所でさっきから何してるの?」
息子の健二
「これから緊急会議だってさ。」
妻
「あるわけないじゃない。さ、あなた、早く
台所へ来てよ。」
朝食という被告人席で吊し上げられる毎日の
屈辱から脱しようとした夫の浅知恵はあっけなく
見透かされ、今や恐怖の場と転じつつある台所
へ連れ戻されてしまった夫の医師。
もはや河合塾時代の偏差値75、総合模試で
全国3位だったという栄光は妻や息子たちの前に
全く何の重みも説得力も無くなっていた。
妻
「あなた、せっかくの味噌汁が冷めたじゃない。」
息子の健二
「子供じみた嘘をつくなよ、お父さん。」
妻
「あなたって、本当に赤ちゃんのまんまね。」
夫
「席に座るなりさっそく集中砲火かよ。」
息子の健二
「よっ!河合塾! よっ!全国3位!」
夫
「健二!お父さんをおちょくるな!お前が
お父さんの思い出を勝手に廃品回収に出しておき
ながら何だよ、その態度は!」
そうして夫は席を立ち、腰に手を当ててミルクを
飲み干す。
夫
「そうだ、我が家の朝食のルールをここで作ろう。」
息子の健二
「何?」
夫
「いいかみんな、我が家での朝食では病院の話や
医療の話、それから陰謀論はしないというルール
にしよう。」
息子の健二
「何わけの分からない事を言ってるんだよ。」
夫
「食事は美味しく、楽しく食べなければ意味が
ないだろ?ましてや家族なんだから。食卓を
楽しく囲んで美味しく頂く、これが大事だ。」
息子の健二
「朝食の時くらいしかお父さんと話をする時は
ないだろ。いいじゃないか。」
夫
「食卓は楽しく。」
息子の健二
「あ、分かった。自分より息子たちのほうが色々
と知識が増えてきたから嫌なんだろ?」
息子の隆
「図星だな、お父さん。」
夫
「そんな事はないよ。お父さんは医者だよ。まあ、
君たちよりは遥かに多くの事を知っている。
息子たちを相手にムキになっても意味がないだろ。」
息子の健二
「いつもムキになってるじゃないか。」
夫
「何だと!」
妻が健二の味噌汁のおかわり3杯目をつぐ。
隆も合わせて味噌汁のおかわりをする。
息子の隆
「そう言えばさ、俺たちさ、お父さんのかっこいい
場面を見たことが無いんだよね。」
妻
「あら隆、仕事は一生懸命してるのよ。」
息子の隆
「一度でいいからさ、お父さんのビシッとした
姿とかさ、お父さんのかっこいい姿を見てみたい
なあ。」
夫
「お前たち、藪病院に一度くらいは見に来たら
どうだ?お父さんのビシッとした姿が見れるよ。」
息子の隆
「そういうのじゃなくてさ、前の町内対抗ソフト
ボール大会でもお父さん、めった打ちされたし。」
夫
「またそういう話か。」
息子の隆
「ピッチャーのお父さんさ、ワンアウトも取れず
連打を浴びてさ、めった打ちだったじゃん。
野球をした事もない加奈子ちゃんにまで、その場
でレクチャーされたばかりの打席で3塁打を打たれ
たし。火の車で13失点。」
夫
「うるさいなあ。」
息子の隆
「あの試合の後、俺も健二もみんなから笑われた
んだぞ。隣の奥さんなんて本気で怒っていたんだ
からね。あっけなく初戦でコールド負け。地区の
みんな批判の嵐だったじゃないか。」
夫
「うるさい。」
息子の隆
「相手チー厶のピッチャーの佳代ちゃんの
フワフワした球、豪快に三振したのはお父さん
だけ。バットに当てることすらできないし。」
夫
「うるさいなあ!」
そうして夫は席を立ち腰に手を当ててミルクを
飲み干す。
息子の健二
「小学校の時の運動会も俺たち笑われたんだから
ね。地区対抗リレーでさ、先頭でバトンを受けた
お父さん、あっけなくゴボウ抜きされて一気に
最下位。しかもかなり引き離されて。PTA会長
のくせに足が遅いってクラスの皆んなに笑われた
んだぞ。もう少し粘るとかさ、しがみつくとかさ、
お父さんできないのかよ。」
夫
「何だよ、うるさいなあ。」
息子の健二
「木村くんのお父さん速かったなあ。後ろで
バトンを受けて一気にゴボウ抜きしてトップで
ゴール。」
夫
「お父さんは医者だから仕方ないだろ!」
息子の健二
「木村くんのお父さんは議員だったぞ。」
夫
「うるさい!」
そうしてまた席を立ち腰に手を当ててミルクを
飲もうとしたが妻に制止された。
妻
「あなた、ミルク飲み過ぎよ。お腹壊すわよ。」
夫
「お前が息子たちの前で陰謀論ばかり話すから
こんなことになるんだぞ。」
妻
「あら、こんなことって?」
夫
「父親の威厳が全く無くなっているじゃないか!
なんだ息子たちの俺を見下したような眼差しは!
お前のせいだぞ!」
妻
「あら、あなたが息子たちの前で情けない姿しか
見せないからそうなるのよ。私のせいにしないで。」
夫
「隆、健二、お父さんはな、部下がたくさん
いるんだぞ!他の医者にも指示してるんだぞ!」
お父さんは藪病院では偉いんだからな!」
息子の健二
「あ、そう?」
そうして玄関先に向かい靴を履き、藪病院に
向かう夫。
こうして一家の一日は始まる。
通勤の道のりを歩きながら医師の夫は感じ始めて
いた。
自分の知らない世界があるのではないか、と。
少なくとも息子たちの見ている風景と自分が
見ている風景とが違い始めている事に気付き
始めていた。
息子たちからとはいえ、生まれて初めて浴びる
嘲笑や軽蔑の眼差し。
通勤に向かう医師の夫の足取りは重かった。
つづく。
2022/9/12 9:33
医師の家庭物語(7)
小鳥が庭の木々でさえずり始めた。
一家にまた朝がやってくる。
街が次第に動き始めて通りを足早に
行き交う人々の姿がチラホラ。
いつもの朝食の場面。
息子の隆
「お父さん、有志医師の会って知ってる?」
夫
「え?」
息子の隆
「え、じゃないよ。知らないの?」
夫
「何だよ、それ?何かの勉強会なのか?」
息子の隆
「最近は各地に広がってるみたいだよ。なんか
仙台では街角の電光掲示板にこれ以上は液体を
打つなって有志医師の会が流したみたいだね。」
夫
「ふ〜ん。」
息子の隆
「お父さん、知らないの?」
夫
「医師の中にも変わった連中はいるからな。」
息子の隆
「お父さんさ、頼むからさ、自分が知らないこと
は全て陰謀論とかデマだっていう考え方はやめた
ほうがいいよ。」
夫
「医師のくせにデマを流す者も時々いるからな。
隆も鵜呑みにせず気を付けろよ。」
息子の隆
「お父さんこそ定説を鵜呑みにし過ぎだろ?
イギリスは何か子供に液体を打つことを中止する
とか出ていたよ。当然だと思うけどね。」
夫
「子供にも必要だよ。子供らを守らなければ
いけないだろ。それがお父さんたちのような
医者の使命だよ。」
息子の隆
「東京のクリニックもこれ以上は液体を打たない
でってホー厶ページに載せてたよ。」
夫
「どうせネット情報だろ?」
息子の隆
「クリニックが直接掲載しているんだよ。別の医院
でも手書きで液体はこれ以上は打つなって診察室に
貼っているのもあるぜ。」
夫
「いい加減な連中だな。」
息子の隆
「いい加減なのはお父さんのほうじゃないか。最近、町内会でもやたらと葬式が増えてきてるし。」
夫
「高齢化してきたからな。仕方ないだろ。」
息子の隆
「違うよ。液体が原因での心筋梗塞とか脳梗塞とか
突然倒れたりしたらしいぜ。」
夫
「何でもかんでも液体のせいにするなよ。」
息子の隆
「お父さん、いい加減にしてくれよ。なんで
そんなに意固地になるんだよ。」
夫
「意固地になってなんかないさ。お父さんは医者
だぞ。きちんと医科大学も出てきちんと医師免許
を持っているんだ。その辺りのいい加減な連中と
一緒にするな。」
息子の隆
「お父さん、ヤブ医者かよ。見ていて情けないぜ。
お父さんのそういう姿を見ているから俺は医者に
なんかになりたくないんだよ。」
夫
「隆!口を慎めよ!」
そうして夫は席を立ち腰に手を当ててミルクを
飲もうとしたが、
夫
「あれ、ミルクは?」
妻
「あら、昨日はスーパーに行かなかったから
ミルクは買ってないわ。今日買っておくね。」
夫
「なんか落ち着かないな。」
息子の健二
「有志医師の会って北海道から始まったんだよね。」
息子の隆
「そうだよ。最初に立ち上がった3人の北海道
の医師は勇気あるよなあ。そこから各地に伝わって
行ったみたいだな。」
息子の健二
「頑張って欲しいなあ。俺も液体なんか打ちたく
ないし。医者も全然分かってないからなあ。」
夫
「おいおい、隆も健二も、そういう過激な連中の
言説をすぐ信じてどうするんだ。」
息子の隆
「どこが過激な連中なんだよ。お父さん、本当に
いい加減にしてくれ。」
夫
「何だと!」
妻
「あなた、隆や健二も高校生なんだから。色々と
自分でも調べるわよ。頭ごなしに否定しないで。」
夫
「頭ごなしに否定してくるのはそっちだろ。」
そうして夫は席を立ち、腰に手を当ててミルク
を飲もうとするが、
妻
「今日はミルクは無いのよ。」
夫
「う〜む、きちんと買っておけよ。」
そうして席を立ったまま開けた冷蔵庫からおもむろに
竹輪を取り出してかじる。
息子の隆
「液体でかなり亡くなってるよ。」
夫
「まあ何だ、厚生労働省は1400人程だと発表
していたな。液体にはつきものだ。」
息子の隆
「そんな数字、誰が本気にするんだよ。100倍
した数字が現実だって言ってるよ。」
夫
「誰が?」
息子の隆
「お父さん、調べたら?情けないよ。」
夫
「液体には多少の副作用はつきものなんだよ。
仕方ない。」
息子の健二
「じゃあ、もし俺が打って、もし死んだら、
お父さん、仕方ないって言うんだな!?」
夫
「・・・・・、健二、な、何をいきなりそのような
不吉なことを。」
息子の健二
「今そう言ったじゃないか!」
夫
「い、いいかねお前たち。液体はな、いいかね、
感染症を予防するために存在するんだからな。
みんなが打って打って打ちまくることが世界を
守り世界を救うんだよ。分からないかね?」
息子の健二
「お父さん、情けないなあ。なんでそんなに
石頭なんだよ。頭悪いなお父さん。」
夫
「な、何だと!お父さんは優秀だ!」
息子の健二
「かっこ悪い。情けない。頭悪い。」
夫
「健二!お父さんは優秀だ!お父さんはな、
エリートなんだぞ!部下もたくさんいる!」
息子の健二
「情けない。俺、絶対に医者にはならない
からな。医者にだけはなりたくない!」
夫
「健二!」
隆と健二のご飯のおかわりを妻がつぐ。
健二は味噌汁のおかわりも3杯目をつぐ。
息子の隆
「有志医師の会が電光掲示板に液体を打つなって
流した仙台、お母さんの故郷だよね。」
妻
「そうよ。杜の都よ。」
息子の隆
「お母さん、東北美人だってみんなが言ってたよ。」
妻
「あら、まあ。」
息子の健二
「小学校の時もクラスの皆んなが参観日に来た
お母さんを美人だ美人だって騒いでいたよね。」
妻
「あら、そうなのね。」
息子の健二
「で、どうしてお父さんとお母さんが結婚したの?
そろそろ教えてよ。」
夫
「そういう話か。まだ君たちには時期尚早だよ。」
妻
「ふふふふ。まあ、この人ったら本当にしつこい
人だったのよ。断っても断っても何回も誘うし。」
夫
「ちょ、ちょっと!今そういう話をするなよ。
あ、そろそろ出勤の時間だ。行ってくるよ。」
そうして夫は玄関で靴を履き、藪病院に向かう。
こうして一家の一日が始まる。
妻
「あなた、たまにはゴミ出し手伝ってよ。」
夫
「はあ?」
妻
「はい、これ。ついでにゴミ出ししてから出勤
してちょうだい。」
夫
「はいはい。」
連日、部下や他の医師よりも鋭い指摘をしてくる
ようになった息子たちにたじたじになりながら
藪病院へと向かう夫であった。
つづく。