第1部6章 ①堕天使たちとその名前 | imaga114のブログ

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第1部 堕天使と洪水伝承

http://www.koinonia-jesus.sakura.ne.jp/apoca/7angelname.htm

 

 6章 堕天使たちとその名前
 
■シェミハザ
 「ベネ・ハエロヒーム」(神の子たち)の破滅を語る最古の黙示文学は『第一エノク書』(『エチオピア語エノク書』)の中にある「見張りの天使たちの書」です。

そこでは神の子たちが、人間の娘たちに「肉欲」を抱いたとあります。

しかし、この言い方は正確ではないので、以下に英訳を直訳してあげます。
 
あなたたちは、聖なる者たち、霊の者たちで、永生を持つ者。
だが、あなたたちは女の血筋によって己の身を汚し
肉の血筋によって子を生み
人間の血筋によって情欲を抱き
人間のするように行なったから
血肉となり、死んで滅びる。
 (『第一エノク書』15章4節)〔Nickelsburg(3)36〕
 
 ここにあげられた理由から判断するなら、天使たちの行為は、通常言われているような「高慢」からでた神への「反逆」行為ではありません。

そうではなく、彼らが「身を汚した」と言われるのは、本来天界の「霊なる者たち」であるのに「肉なる者たち」と交わって、人間と同じ「血肉」となったからなのです。

彼らが天から追放されたのは、自らの欲望に負けて、「人間の」女たちとの交わりに身を委ねたからです(第一エノク10章8~9節/同15章4節参照)。

 

これらの堕天使たちの指導者はシェミハザ"Shemihazah"です(第一エノク6章3節/同8章3節/同9章7節)。

「シェミハザ」(原意は「わたしの名は見た」)というのは、クムランの死海文書の断片から復元されたアラム語原典の名前です。『第一エノク書』6章7節では、彼の後に20人の首領たちが続きます(第一エノク69章2節以下をも参照)。

しかし、この堕天使たちのリストには、ベリアルもアザゼルもサタンの名もでてきません。

ただし、アザゼル(英訳では「アサエル」のこと)は、シェミハザの同僚の副官として後にでてきますが(第一エノク9章6節/同10章4節)、これについては後述します。

 

 

 シェミハザ(「セミヤザ」とも訳されています〔ラッセル(1)188〕は、堕天使たちの頭目でありながら、彼の副官のアザゼル/アサエルに比較すると登場することが少なく、シェミハザの正体は明らかではありません。

彼は、人間の娘たちとの結婚を言い出した張本人ですが(第一エノク6章2節)、その際に「実は、あなたがたはこういうことが実行されるのをひょっとすると好まず、わたしだけがこの大罪の尻ぬぐいをする羽目になるのではないかと心配だ」と述べています。

この言い方だと、天使たちに誘いをかけてはいるものの、自分で強力なリーダーシップを発揮しているとは思えません。

だから彼を堕天使たちの「王/頭目」だと見るのはあたらないようです〔ラッセル(1)225注54〕。彼の言う「大罪」とは、具体的に何を指すのかはっきりしませんが、前後の内容から、欲望に駆られて人間の娘を妻とすることだと思われます。

 

しかし、ほんとうは、肉欲にかられたことよりも、ほんらい独身であるはずの天使の身でありながら、自分の子孫を残そうとしことのほうに、彼らの罪の本質があると見ることができましょう。

どちらにせよ、シェミハザには、アザゼル(アサエル)やサタンのように、神に「敵対して反逆する」という意図は見えません。

 

『第一エノク書』8章3節によれば、彼が人間に「全ての魔術/呪(まじな)いと(草木の)根を断つこととを教えた」とありますから、魔術や医療(薬草による)を人間に伝授したことになります。

このことから、シェミハザは単にアザゼル(アサエル)の脇役に過ぎないという見方もあり、また、後でサタンが堕天使たちの「王座につく」ことを思えば、シェミハザには悪の頭目の名前だけが与えられていて、他の堕天使たちの「尻ぬぐいをさせられる羽目になる」(英訳では"I alone shall be guilty of a great sin.")という彼の予感は、あたっていたようです。

 

 

■アサエル/アザゼル

 

 村岡訳の『エチオピア語エノク書』では、この堕天使の名前は「アザゼル」"Azazel"と訳されていますが、英訳のほうでは「アサエル」"Asael"です〔Nickelsburg(3)〕。

『第一エノク書』6章7節にあるシェミハザを頭とする堕天使たちのリストに、「アザゼル」はでていません。

村岡訳の『エチオピア語エノク書』でアザゼルがでてくるのは8章1節が最初で、次いで9章6節と10章4節です。

訳者は、この堕天使をレビ記16章8~10節にでてくる荒れ野の悪霊「アザゼル」と同一視するところから「アザゼル」という訳語を当てたのでしょう〔村岡訳『エチオピア語エノク書』344頁注(3)〕。
 しかし、英訳は、村岡訳の「アザゼル」に、「アサエル」"Asael"という名を与えています

〔Nickelsburg(3)〕。

この「アサエル」は、『エチオピア語エノク書』/『第一エノク書』の6章7節の堕天使たちのリストの10番目にでてきます。

 

「アサエル」というアラム語/ヘブライ語の原意は「神は造る」です。

後で述べるように、『第一エノク書』では、このような場合の「神」は「天使」とほぼ同じ意味で用いられていますから、この名前は、同じリストの他の天使たちと同じように、自然と宇宙の様々な機能/働きを指すのでしょう。

なお、「シェミハザ」(「わたしの名は見た」)の意味は、「わたし=神/天使は見た」という意味で、これには、神/天使は彼の罪の行為を「見た」という皮肉が込められているのかもしれません〔Nickelsburg(4)179〕。

 

 アザゼルは6章7節のリストにはでてきませんが、アサエルは、そのリストの第10番目にでてきます。

だから、アサエルが最初に登場するのはシェミハザの手下の一人としてです。

しかし、10章では、アサエル/アザゼルがシェミハザよりも先に登場して(4節)、「全地はアサエル/アザゼルが教えることで堕落した。

いっさいの罪を彼に負わせよ」(8節)とあって、シェミハザ以上にアサエル/アザゼルのほうが堕罪の責任を負わされています。

シェミハザとアサエルとの扱い方のこのような食い違いは、ほんらいシェミハザ伝承とアサエル伝承のふたつの伝承があったことを示すものでしょう。

 

 これらの堕天使たちの伝承はヘルモン山の周辺に伝わるセム系の神話/伝承に由来すると考えられます。

セム系の神話は、その起源が古く確かなことは分かりません。

セム系の文明は、古代のウルク王朝(前2500年頃)からアブラハムの生きたウル第三王朝の時代(前1800年頃)にまで及んでいます。

メソポタミアを流れるチグリス河とユーフラテス河に沿って、古代のシュメール文明を受け継いで生まれたのがセム系の古代アッカド王国(前2500年頃)とエブラ王国(前2300年頃)で、古代バビロニア王国(前1800年頃)がこれらの文明を統合し継承しました。

セム系の文明は、チグリス河とユーフラテス河に沿って北上し、三日月型に弧を描いて、カナン地方からパレスチナ地方へと南下します。

この「肥沃な三日月地帯」と呼ばれる地域にセム系の文化が形成されたのです。

アブラハムがウルを出て、ハランへと北上し、そこからカナンへ降ってベエル・シェバへいたる旅の通路とこの三日月地帯とがちょうど重なります。

言語的に見ると、古代アッカド語、バビロニア語、アッシリア語など三日月の東部のセム系言語と、アラム語、ウガリット語、カナン語、ヘブライ語など西部のセム系言語とに別れます。

 

 シェミハザ伝承もアサエル伝承もこのセム系の神話へとさかのぼると考えられますが、その起源はよく分かりません。

ちなみに、創世記6章以下の洪水とノアの箱船伝承は、ウルク第一王朝時代(前2700年頃)にシュメール語で書かれた『ギルガメシュ』の物語にその原型がでています。

レビ記16章(6~10節)のアザゼルも、おそらくその起源は古代のアサエル伝承へとさかのぼるもので、これが、後に変容して「アザゼル」としてレビ記に採り入れられたと考えられます〔Nickelsburg(4)180〕。

 

 シェミハザとアサエルの堕罪に関する伝承で、もう一つ注目されているのが、ギリシア神話のプロメーテウス物語です。

この物語はギリシア神話としてよく知られていますが、これもまた、ほんらいは、シェミハザ伝承とアサエル伝承のもととなったセム系の神話から派生したと考えられます。

この場合、プロメーテウスと共通するのはシェミハザではなくアサエルのほうですが、この問題は後の章で扱います。

後述するように、アサエルが人間にもたらしたのは、武器その他の金属類の製法ですから、これは火を扱う冶金の技術と関連しています。

ただし、冶金の技術は創世記4章21節にでてくるトバル・カインの記事にもでてきますから、『第一エノク書』のアサエル伝承は、これをギリシア神話と関連づけるのではなく、直接創世記のトバル・カインがその出所だと見る説もあります。

しかし、トバル・カイン伝承よりもプロメーテウス神話のほうがアサエル伝承との類似性が強いことから、創世記のトバル・カイン伝承も、ギリシアのプロメーテウス神話も、『第一エノク書』のアサエル伝承も、共に同じセム系の神話/伝承へさかのぼらせて観るほうが適切だと言えましょう〔Nickelsburg(4)"Excursus:The Origin of the Asael Myth."191~92〕。

 

 以上のことを含んだ上で、ここで、「アザゼル」の名前に由来するレビ記の記事を紹介します。

レビ記16章は、贖罪の規定について述べる重要な箇所です。

ここでアロンは、雄山羊2頭を臨在の幕屋の入り口へと引いてきます。

その雄山羊のうち、1頭は贖罪の献げ物として祭壇に捧げられますが、もう1頭は、贖いの儀式を行なった後で、荒れ野の悪霊アザゼルのもとへ追いやられます。

ちなみにこの「アザゼル」は、マルコ福音書5章で、イエスが追い出した悪霊に関係するのではないかと考えられます〔私市『聖霊に導かれて聖書を読む』108~09頁〕。

この不思議な儀式は、年代的に見るとずいぶん古いもので、殺されて捧げられた一方の雄山羊の儀式が済むと、アロンはイスラエルの人びとのすべての罪責と背(そむ)きと罪とを告白し、アロンの手によって、これらのすべての罪責をもう1頭の雄山羊の頭に移して、これを荒れ野の奥へと追いやるのです。

その雄山羊は「全ての罪責を背負って無人の地へと行く」とありますから、これはまさに「身代わりの山羊」です。

ルネ・ジラールという社会心理学者は、この身代わりの山羊が、イスラエル共同体の内部に渦巻く敵意や憎しみや暴力を解消するためにどうしても必要な儀礼であり、それが宗教的、社会的にどのように機能していたのかを解明しながら、この祭儀の社会的宗教的な意味をイエスの処刑やペトロの否認やゲラサの悪霊と関連づけています〔ジラール『身代わりの山羊』164頁以下〕。

 

 レビ記のアラム語訳では、山羊が追われたその荒れ野は「ツクの荒れ野」と呼ばれていて、これはエルサレムの南5キロほどの所にあるベイト・ハルデのことであり(ベツレヘムの辺り?)、雄山羊は、そこの崖から突き落とされることになっています〔村岡前掲書344頁(注3)〕。

『第一エノク書』に、「アザゼルを縛って暗闇へ放り込め、ダドエル(ごつごつした神の山の意味)にある荒れ野に穴を掘ってその中に永久に坐らせておけ」(第一エノク10章4~5節)とあるのもこの儀式と関連するのでしょう。

ただし山羊が背負った悪霊に対するこの処置は、最後の審判ではなく、終末までの仮の処置のことです〔村岡前掲書344頁(注4)/第二ペトロ2章4節参照〕。

 

 先に述べたように、アザゼルではなくアサエルの名が、『第一エノク書』6章7節と69章2節の堕天使たちのリストの10番目に出てきます。

これらのリストでは、筆頭がシェミハザです。ところがアサエルについては、さらに『第一エノク書』54章5節で、「アサエル(アザゼル)が率いる天使の軍勢を捕らえて地獄の深みへ投げ込んで、彼らのあごにごつごつした石をいっぱいくっつけてやれ」と神がミカエルたちに命じています。

これも最後の終末において彼らが「燃えさかる火の炉に投げ込まれる」までの仮の処置ですが、ここではアサエルが、天使の軍勢を「率いて」いて、しかも彼は、サタンの手下とされています。

アサエルの名は『第一エノク書』全体に見られますが、サタンが登場するのは37~71章だけです。

 

この部分は成立年代が新しく、54章は「ノア書」よりも後の部分ですから、サタンは後になってアサエルの頭にされたのでしょう。

このことから判断すると、サタンが登場するのは紀元前1世紀頃からで、サタンが、それまでの「ノア書」のアサエルに取って代わったと見ることができます。

 

 

■堕天使の降下時期

 

 『ヨベル書』4章15節によると、見張りの天使たちが、神から遣わされて地上へ降ったのは、イエレド(ヤレデ〔村岡訳〕)の時であったとあります。

イエレドはエノクの父で、系図では、イエレド→エノク→メトシェラ→レメク→ノア→セム/ハム/ヤフェト(創世記6章18~32節)のように続きます。

『ヨベル書』で、天使たちが遣わされたのは、「地上で正しいことを人類に教えるため」とありますから、イエレドの前の時代には、天使たちの堕罪はまだ生じていなかったことになりましょう。

彼らはイエレドの時期にヘルモン山に降り立ったのです。

だから天使たちは、地上へ降下した後で罪を犯したことになります(ヨベル5章1節)。

だとすれば、天使たちの堕罪は、イエレドの後に、エノクの時代に起こったことになります〔グラッソン『ユダヤ終末論におけるギリシアの影響』113頁〕。

『ヨベル書』では、「神の子たち」ではなく「主のみ使いたち」となっていますから、ここでは明らかに「天使の」堕罪が意識されています。

この段階では、サタンやベリアルの名前がでてきませんから、彼らが堕天使として登場するのは、「ノア書」以後においてであることが分かります。

 

 

 「神の子たち」の項で述べたように、この伝承の起源にさかのぼるなら、ほんらい人間の勇者たちであった者が人間の娘と結婚するのは不自然ではありません。

だから、創世記では、洪水が起こったのは、「神の子たち」のゆえというより、むしろ人間の罪に対する罰とされています(創世記6章5節)。

ただし、創世記のこの部分はヤハウェ資料に基づいています。

ヤハウィスト(たち)が、はたして「神の子たち」をその原初の「人間の勇者たち」の意味で理解していたかどうかは疑問ですから、ヤハウィストが、洪水物語の直前にこの話を置いたのは、やはり天での神々の会議で、何らかの異変が生じたことを示唆していると見るべきでしょう。

 

これと関連して、詩編82篇1~7節(前3~2世紀)では、「あなたがたは神々、あなたがたすべては至高者の子かもしれない。

しかしあなたがたは人が死ぬように死ぬ」とあって、ここでは、神が「神の子たち」を裁き、彼らは永生を失って死ぬと宣告されています(ただし82篇の中の2~4節の部分は王権に関するもので、後からの挿入です)。

もっともここでは、天使たちが地上へ降下するとは言われていません。

また、神の子たちがどのような罪を犯したのかも明らかにされていません。

それにしても、創世記6章1節から詩編82篇までの間に、少なくとも300年間が経過しているのに、そのどちらも、神々の天の会議において、何らかの異変が起こって、その一部が罪を犯したという内容を含んでいるのです。

 

だから、『第一エノク書』を初め黙示文学は、この伝承を踏まえた上で天使の堕罪論を発展させたと考えられます。

『第一エノク書』でも「罪は(天から)地上に送られたのではなく、人間自身が作り出した」(98章4節)とありますが、人間に「天の秘密」を教えたのが、シェミハザとアサエルであるのは間違いないでしょう。

以上を総合しますと、黙示文学において天使の堕罪とこれによる「悪の起源」が生じたその直接の原因は、シェミハザとアサエル(アザゼルとも関連するか)の登場に始まる。このように結論してもいいでしょう〔ラッセル『悪魔』192頁〕。

 

 

■『第一エノク書』2章~5章

 

 『第一エノク書』の2章2節に、アラム語で「神のあらゆる御業」"all the works of God" とありますが、これはヘブライ語の「神の驚くべき御業」(ヨブ37章14節)にあたるものです。

この「神のあらゆる御業」はクムラン文書に繰り返し表われ、創造と歴史に関わる「神の業」を意味する重要な鍵語です。

『第一エノク書』の2章2節は、「観察せよ/注目せよ」で始まりますが、これは神がその業を通して啓示することを「オーズ」(観る)するように求めているのです。

ここで大事なのは、神の「あらゆる」御業とあるように、神が天体や自然を通して「行なう/実行する」業とその出来事が、「人間が行なったあらゆる邪悪の業」"all the wicked deeds that they have done"(1章9節)と対照されていることです。

ここで言う神の御業は、神の創造的な働きを指しますが、特にその自然界(人間以外の神の被造物)が、神の定めと律法に忠実に従い、その定め/律法の命令に完全に服従していることです。

このことが、人間の「律法を外れた邪悪な」業と対照されるのです。

 

 「御業」(ギリシア語「エルガ」複数)にあたるヘブライ語は「マァシェ」(行為/活動/働き)で、その動詞は「アーサー」(行なう/成し遂げる/建設する)です。

 

『第一エノク書』では、自然が神の命令を「行なう」こと、すなわちすべてが、神の定めたとおりに秩序正しく生起することが、天文と暦においてきわめて重要だとされています(『第一エノク書』72~82章)。

しかも、「この文脈で重要なのは、これらの言語から読み取ることができる道徳的/倫理的な意味合いである。

人類は、義の道をそれて、神の契約と諸々の命令を変えて、これを犯したのである」〔Nickelsburg(4)156〕とあるのに注意してください。

 

エノク・グループが、神の業とその定め/律法について語る時に、その鍵語となるのはその御業を「変えるな」「破るな」です。

 

被造物の秩序と予測可能なその行程(創世記8章22節)こそが重要であり、この点で、『第一エノク書』(4章1節)とシラ書(43章2~4節)は共通していて、そこには、自然界を創造した創造主への頌栄が唱えられています。

したがって、エノク・グループが人間の歴史について、その「初めから終焉/成就まで」を語る時にも、自然界のこのような神(とその律法)への服従と、これと対照される人間の不従順への神の裁きに焦点が絞られることになります。

 

 『第一エノク書』5章1~2節で、鍵語となるのは「アーバド」(労する/働く/礼拝する)です。

これは神の持続する創造の働きを表わし、特に、海が至高者の命令に服従させられることが重視されます(海は混沌と無秩序を象徴するからでしょう)。

2章から5章の始めまでは、神が自然を通じて人間に教え示すことを「観察せよ/思いめぐらせ」とありますが、これに続いて「しかしあなたたちは、固く立って神の戒めに従って行動することをせず、道を外れて、高慢で頑なな言葉を語った」と2人称複数で告げられるのです。

 

 5章4節からは、神の命令に従わずこれを「歪める」罪人への裁きに入ります。

ここで言う「罪」とは、神が定めた正しい道を「変更する」、「歪める」、「それる」、「迷い出る」こと(英語の"error")です。

したがって、ここでは、神の定めた法/律法とはどのようなものなのか? 

これを探り求めること、すなわち神の定めた法/律法を「正しく解釈する」ことがきわめて重要になってきます。

神の定めた法(ヘブライ語「トーラー」/ギリシア語「ノモス」)が、人間によって歪められている事例として、『第一エノク書』は天文と暦、すなわち当時のイスラエルの太陰暦を採り上げるのです。

神の定めた天体の運行に対する誤った解釈に基づく誤った天文と暦は、民の社会と文化に禍をもたらすからでしょう。

 

 このような「罪」と「罪人」たちへの非難は、そのもととなっている「偽りの教え」に向けられ、さらに、その偽りから出る罪人らの「傲慢で頑なな言葉」に向けられます(5章9節)。

 

自然と宇宙に働く神の法に倫理性を読み取るこのような観点と、このような観点に基づく自然認識は、こうして社会的、政治的な罪と不正にも向けられるようになり、その認識は、為政者たちの傲慢な圧政と重ねられます。

 

神の尊厳に対する最大の傲慢は偶像礼拝です。

また、このような「罪人たち」と対照されるのが「義人たち」で、義人たちは「知恵を授かり」ます。

「知恵あるものは、不敬虔で高慢な歩みによって重ねて過誤を犯すことをしない」(第一エノク5章8節)のです。

「罪人」と「義人」とを別つ最も重要な鍵語は「平和」(ヘブライ語「シャローム」)です。義人には平和が訪れ、罪人には平和が来ないのです〔Nickelsburg(4)157~58〕。