☆第十五章 アイルランド | imaga114のブログ

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宮崎正弘氏の情報ですが、新たな連載が始まったので転載します。

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第三部 暴走老人、地球の裏側へ(その15) 第三部の最終回

 第十五章 アイルランド

 ▼岩肌、曠野でバイキングとケルトの戦いがあった。名残りが各地

  かねてからダブリンに行きたいと思っていた。

 

 理由は至極単純で、ジョイスの『ダブリン市民』を読んで強い刺戟を受けたからだ。

 

 ジェイムズ・ジョイスと言えば『ユリシーズ』のほうが有名だが、短編集の『ダブリン市民』は彼が欧州で過ごした時期(22歳ー25歳)に、ダブリンの少年時代の鮮烈な記憶を綴った佳品である。

 

ユリシーズは多くの人が翻訳したが、丸谷才一訳のものを筆者も途中まで読んだ。

 

あまり長いので、全部読み切れなかった。

 

 

 ジョイスはダブリンを「腐敗の特異な臭い」と譬喩した。

 

その腐敗は精神の退廃を意味したのか。

 

 「日差しの明るい朝だった。

 

橋の笠石の上に乗って、勤め人をいっぱい乗せ、丘を登ってくる馬車のおとなしい馬をながめていたりした。

 

散歩道に沿った高い並木の枝枝が、すべて小さな淡緑の若葉で華やいでみえ、日の光はそこを斜めに通り水面へ落ちていった。

 

橋の花崗岩の石が暖かくなりかけていた」(中略)「ダブリンの交易風景がほしいままにながめられたーーーもくもくとのぼる煙が遠方からも目じるしとなる荷船やリングズエンドの向こうにいる一団の茶色の漁船や、向こう側の埠頭にいま陸揚げしている大きな白い帆前船。。。。。。。」(安藤一郎訳、新潮文庫)。

 

 

 

 こうした古めかしい文明の風景は消えていた。

 

まことにダブリンは緑の多い街である。交通網が縦横に発達しており、辻ごとにあるかを思えるほど公園が多い。

 

 いずれも敷地が広く、緑豊かであり、日が昇ると市民がどっと湧くように出てくる。

 

日中、誰もいない日本の公園とは違って子供が賑やかに遊んでいる。犬の散歩も目立つ。

 

 ジョイスのトルゾは「聖スティーブンソン公園」の南端にあり、美術館の西隣「メリソン・スクエア公園」の入り口にはオスカー・ワイルドの気障なオブジェが飾られている。ここは中高生の遠足コースでもあるらしく、多くの学生が集まっていた。

 

 

 街の中心部には聖パトリック教会(「ガリバー旅行記を書いたスィフトは、この教会の司祭だった)、中世の「ダブリン城」もあるが、ぎょっとするほどに観光客が溢れるのが名門トリニティ大学である。

 

 この大学はエリザベス女王一世によって1592年に設立された。

 

 キャンパスの中に世界最古の福音書(『クルズの書』)をガラスケースに飾る図書館がある。蔵書は五百万冊。映画「スターウォーズ」のロケ地にもなった。

 

 

 この図書館を見るために朝から長い行列ができていた。

 

 もちろん内部を見学したが、天井の高い書棚は立ち入り禁止で、新宿の雑踏のような通路には歴代哲学者の白い彫刻が置かれている。

 

ソクラテス、プラトン、ベーコン、そしてバークも。

 

ひとりひとりの風貌をのぞき込む時間もなく、人並みにぐいぐいと押されるように外へ出た。

 

 

 

 

 ▼トリニティ大学の正面玄関の立像はエドモンド・バーク

 トリニティ大学正門にはエドモンド・バークの銅像が聳えている。

 

 バークは日本のような左翼教授の強い大学では人気がないが、政治哲学の先駆者にして英国の国会議員、しかもフランス革命を正面から否定し保守主義を広めた人物である。

レーガン大統領も愛読した。

 

日本に最初にバークを紹介したのは金子賢太郎で、近年のバークの愛読者には西部邁、中川八洋氏らがいる。

 

 

 筆者はこの場所をゆっくりと撮影した。

 

 さてトリニティ大学の裏門をでるとすぐに見つかるのが国立美術館だ。

 

 

 欧州の多くの美術館が無料開放であるように、ここも入場料金は無料だ。展示されている絵画と彫刻は所蔵する16000点の一部でしかないが、筆者はフェルメールの「手紙を書く女」だけを目指した。

 

運良くじっくりと観賞する機会に恵まれた(帰国して一年後、フェルメールの傑作群が上野の森美術館にやってきた)。

 

 ことほど左様にダブリンは芸術の街でもあり、ジョイス、ワイルドのほかにベケット、バーナード・ショーらを輩出、ちなみにラフカデル・ハーンこと小泉八雲もダブリン生まれで生家跡が残る(改装中で見学できなかったが。。。)

 

 ダブリンでもう一ケ所有名な「観光地」はギネスの工場だ。

 

見学コースがあって、入場料金も12ユーロと高いが、屋上レストランでビールの試飲ができる。中国人がごろごろといて黒ビールを飲んでいた。

 

ここもまた新宿歌舞伎町の雑踏のごとし。

 

 お土産コーナーにはギネスのロゴが入ったシャツ、帽子、コースターからトランプまで夥しく摘まれている。

 

勢いに押されて筆者も「ギネス・チョコレート」を十枚も買ってしまった。

 

 

 

 

 ▼タラの丘、石棒は縄文の祭器と同様に男根を象徴する

 翌日、北へバスで三時間、「タラの丘」を見に行った。

 

 伝説のタラ王に因み、アイルランド独特のハイクロスの十字架、そして男根を象徴する石棒(出羽三山のひとつ、湯殿山の神殿を連想する)などを見学したが、「ここがアイルランド人の心の故郷です」などと言われても、ぴんとこない。

 

「こころの故郷」と言われたら、♪「われらが母校」早稲田じゃないか?

 

 

入り口に屹立するタラ王の銅像とて後世の想像による彫刻だからちっとも神々しさがないのだった。

 

高台の草原にぽつねんと屹立する石棒は、広場にかざされた技術作品のオブジェのようでもある。

 三日目にはもっと西の海岸まで足を延ばした。

 

バスで三時間半、途中のバレン高原には「巨人のテーブル」という別の惑星から降ってきたような奇岩がある。

 

飛鳥の石舞台も墓だが、この奇岩は緑のない岩の台地の象徴であり、やはり自然石で出来た墓だという。

 

殺風景な光景にむしろ別の感動があった。

 

 その昔、こんな不毛の荒野をめぐってバイキングとケルトが戦ったのか、と。

 

 マンスター州の「モハーの断崖」は観光名所、世界中から年間百万人が烈風に足が竦みそうな岩場を訪れる。8キロに亘って太平洋に着き出した絶壁の一番の高みは海抜214メートル、高所恐怖症の人は怖くて行けない。岩棚にはウミカラス、ウミバトの巣がある。

 

鳴き声が不気味だ。雨の日は強風に煽られ、呼吸も出来ないほどというが、筆者の訪れた日は初夏のように穏やかな日差し、のどかな風情を楽しめた。

 

 観光センターは洞窟風で岩に組み込むように建築されていて、その前の広場には観光バスが数十台も犇めいていた。

 

寒いのでジャンバーやジャケットも売っている反面、アイスクリームが飛ぶようにうれていた。

 

 

 

 ダブリン滞在中に椿事があった。

 

 2018年7月19日、トランプ大統領の訪英を迎え、BREXIT交渉が本格化する準備のため、メイ首相(当時)は北アイルランドを訪問し、アイルランドとの国境地帯を視察したのだ。

 

 これは地元紙にも大きく報じられたばかりか、欧米各紙が問題点を指摘した。

 

EUから離脱すれば、アイルランドと北アイルランドの間に再度、検問所と税関を設け、出入国審査をすることになるのかという懸念が拡がったからである。

 

 なぜなら現時点では北アイルランドは英国の構成国であり、そのため車にはEUナンバープレートがなく、しかも国境に税関がない。

 

入国審査がEU諸国で一番厳しいのは、むしろアイルランド共和国である。目的、期間、宿泊先などを必ず訊かれる。

 

 両国の違いはカソリック(アイルランド)と英国国教会派(プロテスタントに色分けされる)の北アイルランドの差であり、ではなぜ英国国教会派が誕生したのかと言えば、離婚を認めないカソリックから離反した国王が独自に教会をつくったからである。

 

 

 1913年、英国内に留まろうとする義勇軍と独立志向の義勇軍との間に戦闘が始まった。

 

 その内戦の最中に第一次世界大戦が開始されたため、双方は大英帝国軍として参戦し、激戦を果敢に戦って、英国への忠誠度を示した北アイルランド軍とは対照的に、ダブリンで蜂起した共和主義者の反乱は、英国から利敵行為と非難された。

 

 

 アイルランドは英国と独立戦争を戦って、主権国家として存在する国であり、宿敵となった北アイルランドは、英国の一部であり、お互いが反目しあってきた。

 

 IRSなどのテロ活動が活発だったのは、北アイルランドでは首都ベルファストより第二の都市ロンドンデリーだった。

 

 アイルランドでは首都ダブリンもテロの対象となって、爆弾が炸裂した。サッチャー首相の宿泊したホテルも爆弾テロの標的とされ、首相は無事だったが、財務相らが爆死するという惨事も起きた。

 

 そうした苛烈な激突がつい先年まで繰り返されていたのだ。夕方、3ユーロの市電に乗って街に繰り出した。そうだ、

 

ダブリンはジェイムスンに代表されるアイリッシュ・ウィスキーの街、そして無数のパブの街だったっけ。音楽を奏でる大道芸人があちこちで楽器演奏をしている。

 

 ジョン・F・ケネディ一家も先祖はアイルランド人だ。大統領時代にダブリンのパブに来たことがあり、その店はいまも混んでいた。

 

繁華街から抜け出すと河の両岸がスラム、どことなくオランダの「飾り窓の女」の街に似ているなと思った。

 

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下記の書き込みがありました

次の連載が始まればまた紹介します

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(編集後記)                                     

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「地球の裏側」と一口に言っても、山のようにたくさんの国があり、すべてを廻るには、もはや時間がなくなったようです。くわえて年初来のコロナ禍で飛行機が飛んでこない。国際線は限られた地域にしか往復しておらず、ちなみに筆者が二月に計画していたガダルカナルも、四月に行く予定でチケットとホテルも手配していたパラオ、ペリリュウ、アンガウルも、コロナの所為で行けなくなり、いずれも旅行代金は戻ってきました。
 ガラパゴス、イースター島については拙著『地図にない国を往く』(海流社)をご参照ください。
また南太平洋の島々(フィジー、パプアニューギニア、トンガ、バヌアツなど)は、拙著『日本が危ない 一帯一路の末路』(ハート出版)をご参照下さい。
 旧ソ連圏のウクライナ、ベラルーシ、トルクメニスタン、グルジア(ジョージア)など旧東欧を含む30ケ国紀行は拙著『日本が全体主義に陥る日』(ビジネス社)でカラー写真入りです。
 ほかにジャマイカ、タヒチ、ニューカレドニア紀行は、この連載では紙幅の関係で割愛しました。もうひとつ、連載49回の「スペイン、ポルトガル」は旧稿が見つからず、結局、連載欠番とします。単行本上梓の際には追補します。