★第六章 江西省の南昌、九江へ | imaga114のブログ

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宮崎正弘氏の情報ですが、これはアジアの国々の今と紹介の内容です。

毎日のニュースとは少し違いますが、興味深い内容を含むので

振り返って掲載します。

 

第一部「暴走老人 西へ」(6)

  第六章 江西省の南昌、九江へ


 ▼廬山会議ののぼり口、九江は水滸伝の舞台でもある

 江西省へ足を伸ばした。

 

 この地方の山岳地帯はレアアースの産地として知られるが、鉱山技術というより強い薬品を岩盤に流し込む乱暴で粗雑なやり方なので地下水が汚染され、深刻な公害問題が惹起されていた。

 

 現場を詳しく観察したが、いやはや驚くことの連続、内陸部開発の頭でっかち。実質ともなわず、ゴーストタウンの徴候があちこちに出現していた。

 

 九つの河が合流するといわれ海運交通の要衝が九江。三国志でも九江を先に奪うかどうかが軍事作戦の要諦だった。

 

 この九江は廬山への登山ルートの入り口である。廬山は「中国の軽井沢」と言われ、別荘地には嘗て蒋介石の豪邸もあった。共産党史では「廬山会議」の場所として刻印されている。

 

 『水許伝』の荒くれ無法者があつまって酒宴を開いた場所の一つがも九江だった。鎖江楼、寿陽楼などが残り、水許伝の主人公のひとり孫江が酌み交わしたという酒壺が飾ってある。

 

記念にと筆者も壷に触れてみた(どのみち、ニセモノに決まっているが土産話である)。

 

 

 九江は呉魏蜀の三国志時代、拠点争奪戦が演じられ、古代から開けた街である。

 

現在、旧市内の人口は65万余。

 

九の意味は厳密に九つの河の集合ではなく、多くの河川が流れ込むという意味である。

 

 九江周辺は長江に沿って幾つもの水郷、運河、中国最大の湖=番陽湖(琵琶湖の六・二倍)と幾多の湖沼、そして支流の河川。

 

水が豊かだが、溢れることが多く、毎年のように洪水に見舞われる。だから九江には洪水回避祈願の祠が無数にある。

 

 市内と新幹線駅は意外に近い。

 

 この新幹線開通は九江の経済にかなり重大な影響を与えたようだ。江西省の省都は南昌であり、経済力で逆立ちしても勝てなかったのだが、絶好の地位挽回チャンスが巡ってきたからだ。

 

 取材当時、武漢ー九江と南昌ー武漢は従来線だけだったが、なぜ内陸の寒村をつなぐ九江ー南昌間にさきに新幹線を開通させたか? あたりをじっくり見学して理由がわかった。

 

これは胡錦涛執行部の執念に繋がるのだ。

 

 

 

 

 ▲「財源は?」と聞くと、「また土地を売れば良い」。

 九江に物流、運搬のほか、これという産業はないが、古都ゆえに流通が発達し、地元人民政府は沿岸部の経済繁栄をまねて市街地を大幅に開発し、番陽湖畔に五つ星ホテル、中州にはフィンランドが投資する工業団地とリゾートを建設した。

 

現場に建つと壮観である。インフラ整備だけで80億元の予算がついた。

 

 

 官の投資も巨額だが、加えて民間では外国企業や国内外、とりわけ華僑ファンドが投資している。この点はユニークである。

 

 九江の新開発地区(八里新区)の周辺に新しい大学、病院、保育園、ケアセンター、体育館、文化センターなど総合的な新都心の建設が進んでいた。

 

邦貨換算で数百億円を投下し、七つほどスポーツ施設が完成した。

 

五年以内に「三百万都市になる」と豪語しているので、「その予算はどうやって捻出しているのか?」と市幹部に尋ねると「付近の土地を開発業者に売ったので心配はない」と想像を絶する回答があった。

 

 

 地方政府が企図し、銀行が貸し出し「開発公社」が基盤となる遣り方である。

 

この開発公社への焦げ付きは時間の問題だが最終的にだれも責任を取らないだろう。

 

2020年六月現在で、このような地方政府の負債は邦貨換算840兆円にのぼるが、誰も気にしていない。

 

想像を絶する凄い神経だ(ちなみに同時点での中国新幹線の累積赤字は82兆円に達している)。

 

 

 中国全土どこでも、ガラ空きの工業団地がある。

 

 インフラは整備したものの交通アクセス、電力、労働力の関係で進出企業がない新興地区がおよそ七千ある。

 

幽霊屋敷のようなショッピング街、まったく住民がいない団地がある。

 

 鳴り物入りの新都心が崩壊の危機にある理由は、第一に沿岸部からの進出企業が少ない。

 

第二に大学が周辺にすくないため、優秀なエンジニアの確保が難しい。

 

たとえ行政が新都心に移転しても産業誘致がなければ雇用が生まれず、結局は内蒙古省オルドス市康巴士区(百万人の幽霊都市をつくって世界に悪名を轟かせた)に代表されるように巨大なゴーストタウンがぽつんと誕生するだけのことになる。

 

 九江とて発展繁栄への確実な勝算があるわけでもなく、とりあえずは土建プロジェクト先行となる。

 

ところが現場に立つと誰もが知覚できるが、八里新区にはやくもバブル崩壊の徴候があった。

 

付近のマンション群を見渡せば洗濯物が出ておらず、工場は煙が見えず、殆どががらんどう。入居者が極端にすくない

 

。周りの商店街はシャッター通り。もちろん消費者が不在だからだ。

 

これでは先が思いやられる。例外は低所得者用のマンションだけだった。

 

 

 

 ▼謎の都市が開けていた

 九江から南へ一時間の場所に新都市がにょきと出現している!

 

 この都市は九江ー南昌間の新幹線沿いに位置するが、車窓からは見えなかったので、それ以前の取材では見落としてしまった。

 

 

 これぞ、共産党中央が異様な力こぶを入れる新都市。共産主義青年団が独自に築城し、全国青年起業基地の別名がある「共青城市」だ。

 

2010年に特例中の特例として「市」に昇格した。

以前の共青城開放開発区。人口わずか12万人。それまでは九江市内共青区だった地区である。

 

中国で人口が百万を超える市は220ある。

 

人口12万で市とは言えず、正確にいうと、「九江市共青城市」と「市」が二回ダブル。

 

つまり共産主義青年団の看板、換言すれば胡錦涛の目玉。

 

だが頭でっかちの党幹部が都市を運営する?

 

IQは高くてもイデオローグに固まった政治青年らが都市経済を運営できるのだろうか。

 

 

 この地には民主化のシンボル=胡耀邦の墓がある。だから共青団出身の胡錦涛総書記は批判などお構いなく予算とエネルギーを注ぎ込む。

 

 

 街へ入った。

 

「共青城市」は町作りも異様である。

 

軍人かと思いきや軍服を着た青年団が町を隊伍を組んで早足で行軍している。

 

きらびやかなネオンもなく、娯楽施設が乏しい。市内にはカラオケ店を見かけない。

 

 

 市内からバスで三十分の小高い丘に胡耀邦記念館と御陵(耀邦陵園)が広がっていた。

 

 胡耀邦は湖南省出身だが祖父が江西省の生まれ。

 

胡耀邦の遺言に「江西省のどこか、風水のよい場所に埋蔵せよ」とあって、当時政治局の有力者=李瑞環が埋葬行事の音頭をとった。

 

 死去から二年後に名誉回復があり、この地に墓が建立された。

 

 中腹には胡耀邦と親密だった中曽根元総理が寄贈した追悼碑も建立され、五万坪はあろうかと思われる広い御陵に花壇と七十三段の階段、墓は巨大な肖像入りの碑で石材が七十三トン、いずれも胡耀邦の享年七十三歳にちなむ。

 

花輪が絶えず参詣者が多いので記念写真屋も店開き、記念館には胡耀邦伝記、DVDなども販売している。

 

 この光景は驚きだった。

 

 北京中央では共産党政治の邪魔者扱い、決して評価されていない胡耀邦が、江西省の片田舎では孫文のごとき広き御陵に祀られているのだから!

 

 

 共青城市は、それほど鳴り物入りの新都会、共青団がカネとエネルギーを注ぎ込んでいるのであれば新開発の工業団地を視察したい。

 

市役所の広報部職員が案内してくれた。

 

 

 工場見学が許可されたのはダウンジャケットの製造工場だった。

 

ニクロの広告をみると、この同じタイプのダウンジャケット、日本では5900円台だ。

 

 最新の欧州デザイン、その年の流行色は黄色とピンク、八百台のミシンに従業員は二千名。

 

つぎつぎと手際よく流れ作業だが、若い男女が一所懸命に作業している。

 

さぼる気配がないのも「能率給与システムが奏功しているからです」と工場長(女性)が言った。

月給は四千元! 沿岸部の工場並みだ。

 

これが国有企業のひとつ「鴨鴨洋装」で輸出で潤っているのか、工場全体に活気があった。

 

 

 

 ▲党中央が異様な力点を置いたものの。。。。

 次に赴いたのは団地中央の誘致案内センターだった。

 

ここには将来の町の見取り図がミニチュア模型で展示されており、「人口十二万の共青城市は五年以内に三十万となります」と意気揚々たる説明があった。

 

 このために320億元(邦貨換算四千二百億円弱)が投資された。見学から八年の歳月が流れたが、人口は12万余のままである。

 

 学校が多いためエンジニアや若い労働者が得やすく、当時、北京中枢を牛耳った共青団の故郷ともなれば、胡錦涛政権が武者震いして開発を支援した。

 

 

 九江では長距離バスターミナルに近い繁華街の安宿に泊まった。

 

山会議の現場には九江からバスで一時間、箱根の山のような風光明媚な景勝地で豪華な別荘が建ち並び、その中腹に廬山会議記念館が残っていた。

 

 古い建物のまま、耳をつんざくような大スピーカーが国歌を流している

 

 

 「毛沢東館」なる建物は、何のことはない、蒋介石と宋美齢の別荘を乗っ取ったもので、「蒋介石が座った椅子」と称する椅子に座って記念写真を撮ると十元とられる。

 

玄関脇に公衆便所があって、これも「蒋介石が使った厠」という説明。蒋介石を貶める宣伝材料に利用されている。

 

対面の小高い場所に小ぶりながら瀟洒な洋館、「周恩来宿泊所跡」って看板があった。

 

 展示は劉少奇、膨徳懐の対立に触れておらず、毛沢東神話のみ。孫文の写真も飾ってある。なにしろ展示パネルの配列は共産党の正当化だけで中国人観光客も殆どが避暑目的だから歴史を真剣に見ている気配なし。

 

記念館前の記念撮影、これまた一枚10元。要するに激しく、勢いよく俗化していた。

 

 

 州をまたぐと陶磁器のメッカ=景徳鎮があるので立ち寄った。偶然、景徳鎮市の郊外で「世界陶磁器博覧会」の最中だった。

 

こちらの方は買い物客で凄い人出、展示品には九谷焼なども混ざっていて人気の的になっていた。

 

 景徳鎮は要の粘土が払底し、ほかの省から輸入しているが、陶器なら景徳鎮という名声だけはいまも響き渡り、世界中からケイトクチン、ケイトクチンと唸って買いに来るのだ。