今、大学4回生です。順調にいけば(26単位全部とることができれば)、就労するまで残された期間は1年間なわけです。


 最近、資本論の読書会したり、釜ヶ崎にフィールドワークしたりと、他学部のゼミに入ったりしてかなり手を広げています。


 なんでこんなにいろいろやりだしたかと考えると、最初は「焦っている」と思っていました。なぜなら自分は4年間「勉強してきた」っていう自覚もないし、これといって特技もないから。でも最近違うかなって思います。


 一番しっくりきた言葉が、アーレントの「活動や言論はそれ自体が「始まり」である」というとらえ方です。(最近、アーレントの引用が多くて自分でも気持ち悪い)


 活動や言論は、他者がいないと成り立たなくて、ぼくが今いろいろ手を伸ばしているのもみんな他者の存在のおかげです。そして、その他者とともに始め、波及効果のように自分に返ってくる。例えば、釜ヶ崎に20人くらいで行ったけど、20人の反応があって、それを言葉にして聞くことで、自分はまた考える。

 

 そしてそれは、決して参加者だけでは終わらなくて、自分たちの経験を言葉にした瞬間、グループの外側にも影響を及ぼす。最終的にどこまでどの程度広がるのかは予想もつかない。


 「始まり」としての活動は、その波を引き起こすまでは労力や時間がかかるけど、一度引き起こしてしまうと考えてもみなかった反応がある(釜ヶ崎に20人以上集まるとは、思ってなかったし、資本論も現在11回目でMLの登録人数も増え続けている)。


 話を戻しますが、こういったことはただ「焦り」からだけで始めているのかと考えるとそうではない。「焦り」は、期限があって初めて「焦る」ことができるわけですが、今やっている活動には、全く期限がない。


 もっと先を見据えた行為(action)なんですね。結果論だけど。


 きっかけとしての「焦り」はあったけれど、2回以上やった瞬間からそれに期限はなくなり、勉強会の結果やフィールドワークで何を得たか、みたいなことより、その行為自体に積極的な意味を与えることができている。


 ようは、「遊べている」ということだと思います。だから楽しい。ジグソーパズルは、きれいな完成品を見たくてやっているように見えて、実際はその過程自体と楽しんでいるわけです。「~のため」ではない。「受験勉強で大学に入るため」では、決して勉強は楽しくならない。勉強それ自体を楽しむことができて初めて楽しい。


 と、最近ようやく「焦り」の呪縛から抜け出すことができました。