今日から「である」調で書きたいと思う。理由は、「ですます」調がめんどうくさくなったから。


 今日、森達也の講演に行ってきた。講演のタイトルは「死刑 人は人を殺す でも人は人を救いたいとも思う」であった。ゼミの後輩たちにも強制的にビラを渡して、3人でいってきた。


 会場に着くと、中会議室くらいの部屋で完全にキャパオーバーしていた。聞きにきている人の鼻息も荒く、そのせいで部屋の湿度がかなり高かったように思う。


 内容はというと、そんなに死刑については語っていなかったと思う。「死刑廃止派か存置派かは、究極的に突き詰めていくと感覚的なものになる」みたいなことを言っていた。それよりもぼくが印象に残ったのは、恐怖や不安を煽られると人間は群れるということ。そこに同調圧力も働く。そして、そうやってまとまった人間は支配しやすいということである。確かに。


 あとは…、天敵がいる動物は、自分の身を守るために群れる。ヌーやシマウマとか。そして人間も弱い。だから群れる。そんなことも言っていた。でも少し思ったのは、人間も群れるが、人間は言葉を使うことができるということ。群れることを批判してもそれは意味がなくて、群れていながら言葉を使わないことを批判すべきだと思う。


 終わった後、阪急で帰り道が一緒だったゼミの後輩のHと話しながら帰った。感想を聞いたら、


 「森さん、ドキュメンタリーは虚実とかって言ってましたよね。あれ、ってか虚だからこそおもしろいんすよ。虚に作者は自分の視点をつめることができて、それを通してみることがおもしろいんすよ。」みたいな反応で、死刑制度どこいったんだよ、とかって思ったけど、まあそれもいい。


 西院に着くと、Hとカフェに入り話再開。炭酸抜けたコーラ飲んでると


 「自殺ってどう思いますか」という不意打ち。なかなか死刑の話しないねー。でもラディカルな問いだからおもしろい。


 「どう思う」 困ったときはとりあえず聞き返す。


 「自殺を美化する人いますけど、ぼくは全然そうは思わないっすね。むしろ、生きることの方がしんどいし、死ぬなんて劣った判断だと思います。」 そうきたか。


 「それってある種の人にとってはちゃちく聞こえるというか…、もし朝6時から夜の12時まで労働してる人がいたとして、その人はその生活を2年間やってきた。生きることがしんどいなんて、十分分かってる。で、しんどいからそれを投げ出したくなっちゃった。みたいな人にとっては、全く意味をなさない言葉だと思う。」


 「んー…、じゃあ和樹さんなら何て言うんですか」


 「拍子抜けするかもしれないけど、飲みとかに誘って『とりあえず今日はがんばったんだから、明日まで待ってみよう』みたいなこと言ってその場は楽しんじゃう。笑」


 「はー…。」


 「‘死’は不可逆的なもので、死んだ後にその死ぬって判断は間違ってたね。とかって言っても全く意味がない。だから、自殺については死じゃなくて生について語らなきゃだめだと思う。(あとリアリティーが大事、)今はしんどいかもしれないけど、二年後には楽になってるよ、とかって言っても全くリアリティーがない。今とてもしんどい状態なのに、二年後生きてるかなんてわかんない。

 そうじゃなくて、死にたいっていうことは現実を否定することなんだから、今日という日をどれだけ積極的にとらえるかが大事。だからとりあえず飲んでみる。で、気分が良くなったら明日についてくらいは語っていいと思う。そうやって、‘生’に連続性を持たせることが必要で、…云々。」


 と、まあHくんの不意打ちによって盛り上がっちゃったんだけど、この話を帰り道一人で自転車こぎながらもう一度考えたという続きがあって。それを書きたいと思ったんだけど、眠たいからまた今度にします。


 今、大学4回生です。順調にいけば(26単位全部とることができれば)、就労するまで残された期間は1年間なわけです。


 最近、資本論の読書会したり、釜ヶ崎にフィールドワークしたりと、他学部のゼミに入ったりしてかなり手を広げています。


 なんでこんなにいろいろやりだしたかと考えると、最初は「焦っている」と思っていました。なぜなら自分は4年間「勉強してきた」っていう自覚もないし、これといって特技もないから。でも最近違うかなって思います。


 一番しっくりきた言葉が、アーレントの「活動や言論はそれ自体が「始まり」である」というとらえ方です。(最近、アーレントの引用が多くて自分でも気持ち悪い)


 活動や言論は、他者がいないと成り立たなくて、ぼくが今いろいろ手を伸ばしているのもみんな他者の存在のおかげです。そして、その他者とともに始め、波及効果のように自分に返ってくる。例えば、釜ヶ崎に20人くらいで行ったけど、20人の反応があって、それを言葉にして聞くことで、自分はまた考える。

 

 そしてそれは、決して参加者だけでは終わらなくて、自分たちの経験を言葉にした瞬間、グループの外側にも影響を及ぼす。最終的にどこまでどの程度広がるのかは予想もつかない。


 「始まり」としての活動は、その波を引き起こすまでは労力や時間がかかるけど、一度引き起こしてしまうと考えてもみなかった反応がある(釜ヶ崎に20人以上集まるとは、思ってなかったし、資本論も現在11回目でMLの登録人数も増え続けている)。


 話を戻しますが、こういったことはただ「焦り」からだけで始めているのかと考えるとそうではない。「焦り」は、期限があって初めて「焦る」ことができるわけですが、今やっている活動には、全く期限がない。


 もっと先を見据えた行為(action)なんですね。結果論だけど。


 きっかけとしての「焦り」はあったけれど、2回以上やった瞬間からそれに期限はなくなり、勉強会の結果やフィールドワークで何を得たか、みたいなことより、その行為自体に積極的な意味を与えることができている。


 ようは、「遊べている」ということだと思います。だから楽しい。ジグソーパズルは、きれいな完成品を見たくてやっているように見えて、実際はその過程自体と楽しんでいるわけです。「~のため」ではない。「受験勉強で大学に入るため」では、決して勉強は楽しくならない。勉強それ自体を楽しむことができて初めて楽しい。


 と、最近ようやく「焦り」の呪縛から抜け出すことができました。



 自分が‛ブログ’を書こうとは思っても見なかったけれど、手当たりしだい吸収してきたモノをちゃんとした形にしなければならないと思いはじめました。



 吸収されたものは、頭ん中にサラダボウルのようにごちゃ混ぜに詰まっています。それが中途半端なぼくを作っています。



 決しておごらず、知ったかぶりをせず、自分と社会とに向き合い、言葉を綴っていけたらなと思います。



 ブログは、自分だけで完結するものではなくて、「誰かが読んでくれる」という‘他人’に支えられた行為だと思います。



 だからこのブログも、決して自分にむけたものではなく、「誰か」への手紙のような形でありたい。


 ただタイトルどおり、綴る内容に条件は設けないことにします。


 一方で、感動や怒りを大切に綴りたいと思います。それらは、それを感じているときにはなんだかよくわからない。終わった後に、過去形でしっかりととらえ、明日へと持ち越し続けなければならないものだからです。



 これはとても難しいことだと思います。ブログは日付が変わっても、ネット上にその文が残るので簡単に持ち越せそうです。



 しかし、それが意味することは、自分が「思ったこと」と「綴ったこと」がちゃんと一致していなきゃいけないということ。そうじゃないと、自分が次の日に読み直したとき、口の中がざらざらになったように気分が悪くなってしまう。



 とまあ言ってみたものの、「綴る」という行為に重きをおくことにして、そういうこともいい経験だととらえていきたいと思います。


 自分のことはじょじょに語っていきます。


 ではではがんばって書くぞ。