20年近くいた今の職場を離れようと決めて、就活はじめて、ふと思ったんだけど・・・この感覚・・・なんか覚えがある「懐かしい」感覚だと・・・。
そして、「そうだ!この感覚は、私を自分の思い通りにしようとする母の支配から離れたくて、25歳の時に家を出ようと決めたときの感覚だ!」ってことに気づいた。
さらに、4月30日のブログ人間関係の苦しみから見えてきた自分の中で、「周りを自分の思い通りにしようとする指示的・支配的・威圧的な人」がどうしても苦手で、そういう人に今まで苦しめられてきたことについて書いたけど、この苦手な人の代表が「母」だってことにも気づいてしまった💦
ただ、この「指示的・支配的・威圧的な行為」って、苦手とかいう問題ではなく、はっきりいって「暴力的な行為」であって、誰でもされたら嫌だよね・・・って思う。
25歳で、家を出た時の私は、「母から精神的な暴力を受けていた」なんて認識はなかったけど。その頃、母から「早く結婚して子どもを産みなさい。それが女にとっての幸せだ」みたいなことを言われて、私が「夫に暴力を振るわれるあなたをみていて、結婚して子どもを産み育てることだけが、女の幸せとは思えない。私はあなたみたいになりたくない。」というようなことを言い返して、口論になり、結局、私が家を出る決意をしたのだけど、今、俯瞰してその時の状況を眺めてみて、新たな視点が浮かび上がってきた。それは「私は、暴力に屈しなかった」「私は、支配と服従の関係におさまらなかった」「私は、親からの暴力の被害者という立場をとらなかった」という見方もできるってこと。そして、改めて今「そういう自分、嫌いじゃないな」って思う。
今回、今の職場を離れる決意をした時も、「パワハラにあった」という被害者の立場をとることもちょっと頭をよぎったけど、「いや、私は被害者の立場をとりたくない」「加害者をつくりたくない」・・・もっと言えば、加害者も被害者もコインの裏表のようなもので、紙一重だと思う。
加害者を罰したところで、被害者が幸せになるわけではなく、加害者が被害者を支配し、服従させたところで、加害者が幸せになるわけではない。どこに行っても、この社会の構造そのものからは逃げられない。自分の外側には、逃げられない。ちゃんと自分の内側におさまって、自分と折り合いをつけて、周りと共存して生きていくしかない。私たちは、全体で一つなのだから。
今、そんな覚悟を決めて、就活と終活をしている。どこに辿り着くかは未知のまま。