最近、一般新聞の誤報道記事があいつぐ。IPS細胞関連、尼崎事件の容疑者写真・・・etc.

しかし、一番最近気になっているのは、田中文科相に関する記事。

実をいうと個人的には私、この人はあまり好きではない。

それはさておき、今回の大学認可に関する不認可発言も

「教育レベルということを考えた大学の在り方を世間に問いただしたい」、

「大学設立に関する全ての準備段取りが進んでしまった後での、許認可のプロセスがある仕組みへの疑問」

など・・・問題提起はそれなりに意義があったと思う。

ただし、それを個別の大学の認可の可否にあてはめてしまったのはさすがにまずいであろう。

しかし、そんなことよりもっと私が違和感を抱いているのは、各一般新聞が揃って文科相に対し、「世間を騒がせたことと、大学機関らに謝罪せよ」という趣旨の記事を書いていること。

「どこかの党や団体が文科相に謝罪を求めている」という記事を書くのならわかる。

これでは、読者は「文科相は国民と大学に謝罪をするべきである」というのが「当然起るべき事実」と捉えてしまい、そのことが正しいと錯覚してしまう。

そもそも報道機関の在り方は?と問いかけたくなる。事実をありのまま客観的に伝えるのが本来の報道機関の役目では?

社説や編集手帳のようなコラム記事は最初から編集者の主観が入っていることは、読者がわかっていて読んでいるので問題はない。

しかし、本文記事は読者はそれを事実と思って読むことが多い。主観が入ってしまっては事実が何なのかわからなくなってしまう。


主観が入る度合いは、一般新聞、タブロイド判夕刊新聞(日刊ゲンダイ等)、新聞社系週刊誌(週刊朝日等)、テレビニュース番組(報道ステーション等)の順に大きくなるように感じる。ただ、これらは読む側、見る側が、伝える側の主観が入っていることを予め理解している場合が多い。むしろその主観(中には個人的意見に近いものもある)を期待している場合もある。これはこれでいいと思う。読む側見る側にも「楽しみたい」という意思が入っているので。


しかし、一般新聞の場合はどうあるべきなのであろうか?もし、これに主観が入ってくるのであれば、我々は何を頼りに真実として捉えればよいのであろうか?

一般新聞の報道による影響は、冒頭の誤報道に関してもわかるとおり、非常に大きい。

私たちは、報道のウラにある真実を見極める力と、それに対する自分自身の意見を持つ力を養いたいものだ。