私はずっと、
子どもたちがいずれ社会で生きていけるように、今のうちから教えなければならない
と思っていた。
だから、何でも「はいはい」とやってあげるのは違う、と。
自立する力、我慢する力、社会性。
それらを身につけさせることが、親の役目だと信じていた。
今年に入って、ドイツ語の勉強も兼ねて
アルケミスト を読み始めた。
まだ冒頭しか読んでいないが、強く心に残った部分がある。
物語は、ギリシャ神話のナルキッソスの話から始まる。
彼は池に映った自分の姿に陶酔し、やがて溺れてしまう。
一般的には「自己愛に溺れた悲劇」として知られている話だ。
しかし『アルケミスト』では、その後に意外な視点が示される。
ナルキッソスの死を嘆く池が、こう語るのだ。
私が彼のために泣いているのは、
彼が私の水面に身をかがめるたびに、
彼の瞳の中に映っていたのが、
彼自身ではなく、
私自身の美しさだったからなのだ。
この一文を読んで、なるほどと思った。
自己愛とは、
自分だけを見ることではなく、
自分が内にあり、他者が存在し、
互いに影響し合っている状態なのではないか、と理解したからだ。
子どもが、ただ親の目を気にして生きるだけなら、
いずれナルキッソスのように溺れてしまうかもしれない。
そしてそれは、親も同じだ。
たとえば、なかなか片づけない日のこと。
夕方、晩ごはんの準備をしなければならない時間。
床にはおもちゃが広がったままで、
私は何度目かの「片づけてね」を口にした。
返事は「わかったー」。
しばらく待っても状況は変わらず、
私はだんだんと苛立っていった。
「自分で出したものは自分で片づけなさい」
「このままだと、おもちゃ持っていくよ。」
正論だと分かっている言葉ほど、
口にしたあと、空気が固くなる。
子どもは慌てておもちゃを片づけ始めた。
そのとき私は、
「片づけない子」を見ていたのではなく、
思い通りに進まない現実を見ていたのだと思う。
子どもはその瞬間、
急がなければ価値がないを私の目の中に見ていたのかもしれない。
そして私は、子どもの目を通して、
余裕を失い、結果ばかりを急ぐ親の自分を見ていた。
それから、少しやり方を変えてみた。
まず、タイマーを使い始めた。
「今すぐ片づけなさい」ではなく、
「この音が鳴ったらお片づけしよう」と、
時間の区切りを私ではなく仕組みに任せた。
次に、
遊んだおもちゃをどうするか、選択肢を渡すことにした。
どのおもちゃをどこに持って行って、誰が片づけるのか。
決めるのは、私ではなく子どもにした。
そして
「いっぱい作ったね」と声をかけた。
社会で生きる力とは、
言うことを聞く力ではなく、
自分で選び、折り合いをつけ、関係を戻していく力なのかもしれない。
親は子どもを育てているつもりで、
実はずっと、
子どもの目を通して「親である自分」を見て、自分を学びなおしているのだ。
SNSが普及し、
誰かに見られていないと、
必要とされていないと感じてしまう世界は、
池をただの鏡として使い続け、
やがて溺れてしまったナルキッソスの姿と重なる。
自分を見ること自体が問題なのではない。
他者との関係を失い、
映し合う循環が途切れたとき、
自己愛は壊れてしまうのだと思う。
では、どうすればよかったのか。
その答えは一つではないし、
次の同じ場面で、また考えればいい。
今日できることを、
今の自分で選び直しながら