部下に「はめられた形」でいわゆる左遷が

決まってしまった文也。

その「憂さ」を晴らしに、

上京当時よく訪れていた品川区の

「大井競馬場」に足を運んでみたが…

馬券も当たらず、逆にうんざりするばかり。

そんな文也の真横で、

いわゆる「チャラチャラ」したカップルが

馬券を当てて大はしゃぎしているから

余計にイライラ。

何とか逆転!を目指してメインレースに

挑む文也だが…

 

 

「大井競馬第11レース 

シナガワンダー特別」

 

レース名を確認して「またアニメキャラか!?」と一瞬思ったが、少し違うらしい。

どうやら東京23区のキャラクターというのがいるらしく、品川は「シナガワンダー」というイエローカラーの犬型ヒーローがそれらしい。レース名は、そのキャラクターをPRしたモノということだが、文也にとってはもちろんそんなことはどうでもいい。馬はレース名で走りを変えることはないからだ。今度こそ、ちゃんとした予想で当てたい!出しぬかれるのを食い止めたい!と、強く思っている間に、彼としては衝撃的なことをひらめいた!

 

「出しぬかれるのを食い止めたいと

思うんじゃなく、出し抜くことを

考えればいいんだ!」

 

これは仕事じゃない。競馬だ。出し抜く馬を見つけて、周りを出し抜いても何も悪いことはない!目が覚めた(気がした)文也は、手元の予想新聞が「今日1番の鉄板」と推している馬ではなく、他の馬を狙うことにした。文也の目に止まったのは・・・6番人気の馬。「トウキョウキップ」。色々調べた結果確信した。この馬が最後の最後、ゴール前で本命鉄板馬を抜き去るはずだ!出しぬくならこの馬だ!

 

馬券を買い、レースのスタートを待つ。買った馬券、どれが的中しても、10万円は儲かる計算だ!

 

―俺は出しぬく!

 

強い決意を胸にゴール前へと足を運ぶ。メインレースが近づくにつれ、徐々に混雑し始めた競馬場内今、ファンファーレが鳴り響き、そして実況アナウンスが始まる。

 

「大井競馬。2日目。

第11レース シナガワンダー特別。

1400m外回り。13頭で争われます。

品川を守る黄色の犬型ヒーロー、

シナガワンダーの誕生を記念して

行われますこの競争。各馬ゲート入りは

順調…ちょっと5枠のイエロースターが

ゲート入りを嫌っていますが…

改めてゲートに誘導されて今、

入りましたね。スタートしました!」

 

5枠―ジョッキーの帽子は黄色―馬名がイエロースター。シナガワンダーのイメージカラーは黄色・・。レースがスタートした瞬間に、文也はこの奇妙な一致に気が付いた。だが気にしない。ただ、気づいただけだ。文也の狙いはあくまで「トウキョウキップ」だ!

 

―トウキョウキップで間違いない!

俺は出し抜く!

 

 

・・・そしてレースは、ハズれた。

出し抜いてくれるはずだった「トウキョウキップ」は8着、9着といったところか。実況で名前を呼ばれることもないままただ、レースを終えていた。そして…

イエロースターは2着に入線していた。

バミューダ彼氏とピューマ彼女の2人はまた当てたらしく、奇声を上げつつハイタッチしている。その興奮は、2人で分かち合うだけでは収まらないらしく、バミューダ彼氏はその父親にでも報告しているのか「オヤジ!バカ勝ちしたから人生勝ち組だから!何でもおごってやるよ!」と電話に向かって叫んでいる。だが…

 

―もう驚かない。嫉妬しない。

俺には「最終レース」が残っている。

 

文也は自ら言い聞かせ、「平常心のキープに神経を集中させる。その効果もあってか、またもや衝撃的なことをひらめいた!

 

「結果が出ない時は持論を

すべて捨てることも大事かもしれない」

 

この日の最終レースは「品川ビール賞」という名前だった。日本で初めてビールを作られた場所はここ品川らしい。「明治2年、大井競馬場からも近い大井3丁目に設営された工場でのことだった」という史実を記念してのレースだと新聞にマメ知識が書いてある。文也は決めた。

 

――レースの途中で酒を飲む奴は負ける。

そんな持論は捨ててここは…

ビール1杯飲んでから勝負だ!

 

ビール売り場を探し歩き「生ビール600円」の看板を見つけ早速注文した。金色の1杯を待っている間に、壁に貼られてあるポスターに目が行く。CMに出演しているイケメンタレントがジョッキを手にポーズを決めているそれに、店員が勝手に吹き出しを書き足していた。

 

「生が美味い!最高のレース日和りに

トリカン!飲んで勝つべし!」

 

―まったくその通りだ!飲んで勝ってやる!

勝利の前祝いだ!トリカン!

 

心で乾杯の音頭を取り、グイッと一口飲んでから馬の名前をチェックした。競馬の予想は頭を使う。そのぶん、脳に周る血流も多いはずだ。ビールを飲んでいつもより早く顔が熱くなってくるのを感じていると、3頭の名前にピンと来た。

「1番 スーパーアサヒ」

「3番 シルバースピード」

「4番 ドライマックス」

 

正直、どれも人気薄だ。だがピンと来た。この中に激走する馬がいるはずだ。やる気のある馬はどれだ!?ハンチング親父の言葉を思いだし。念を送って話しかけてみることにした。パドックへ行き3頭に気持ちを送る。

 

―やれんのか!?

すると・・・1頭から返答が来た!

「ブルフン!」と鼻を鳴らしたのだ!

その馬は・・「2番 ナカジマファイト」

 

―ピンと来た3頭じゃねえのかよ!

 

文也の送った念を間違えてキャッチしたのか。しかし、やる気の念を返してくれたのはこの1頭だけだ。調べてみると14番人気。今のところ最低人気だ。どの馬との組み合わせの馬券も300倍を超えている。「面白い!この馬から勝負だ!」と決めた文也の頭の中に、その決意を応援するかのように不意にとある曲が流れ始める。

 

♪ファイト。戦う君の歌を戦わない奴らが

笑うだろう・・。

 

 「この馬で勝負だ!」とスッと腹が座った。帰りの電車賃まですべてを「ナカジマファイト」からの馬券に突っ込む。このレースをはずしたら、定期券の使える品川駅までは1時間ほど歩くことになるがそんなことはありえない。なぜなら…このレースで300倍が当たるからだ!だから、タクシーで一気に渋谷まで行くことになる。その確率は100%だ!ナカジマファイトが周りの馬を出しぬいて1着でゴールするからだ!

 

文也の自信を鼓舞するように今、ファンファーレが鳴り響いた。レースがスタートするその直前に、残っていたビールを飲み干した。

「美味い!」

憂さが少し晴れて行く気がした!

そしてこの後、馬券が当たり、もっと憂さが晴れるはずだ!

 

「大井競馬。2日目。本日の最終レースは

品川ビール賞。1600m内回り。

14頭で争われます。

各馬順調にゲート入ります・・・」

 

いよいよ、スタートを迎える。ビールの美味さが手伝って、場内アナウンスもさらに興奮して聞こえる。隣ではバミューダが、ピューマにあいかわらず予想を自慢している。

 

「ここは絶対1番のスーパーアサヒでしょ?こいつ、スタートメチャメチャ速いって

新聞に書いてた。

そのままぶっちぎりでしょ?」

 

文也は言い返す!(心の中で。)

 

―それを最後にナカジマファイトが

差し切るんだよ。出しぬくんだ。

 

反対側ではハンチング親父がブツブツ言っている。

「これは1番人気のドライマックスで堅い。

仕方ない。調教が抜群だ。」

 

文也は教えてあげる。(心の中で)

 

―気持ちが強いのは

ナカジマファイトの方だよ。

 

およそ2分後に当たっている馬券は300倍か、400倍か、それ以上か。

文也の希望が膨らみ切ったその時、ゲートが開いた。

 

 「今、スタートしました。

1番スーパーアサヒ好スタート!

これは早い出足であっという間に

後続に差を付けていきます。

・・と後ろで1頭、

かなり大きく出遅れています!

出遅れたのは2番!

2番のナカジマファイト。

ゲート内で立ち上がり、

大きく立ち遅れて6馬身、7馬身。

かなりポツンと遅れてのスタートです!」

 

―「・・・・・・・・・・・・・・・。」

仕事の「憂さ」を晴らしに、

上京当時よく訪れていた品川区の

「大井競馬場」に足を運んだ文也。

しかし馬券はなかなか当たらない。

そんな文也の真横で、彼からすれば

「テキトー」な予想で馬券を買っている

バミューダ柄の服を着た若者が大的中!

文也はそれが面白くない。

また、若者が常に大声で話すので

気になって仕方なく…

 

 

良くないパターンに陥り始めていると自覚した。何とか自分の予想に集中しようと意識して新聞を覗きこむ。だが、今度は「バミューダ&ピューマカップル」とは反対側からまた別の「気になる声」が耳に飛びこんできた。

 

「あの若造はバカたれか。

馬は名前で走らないんだって。

調教と血統と魂なんだって」

 

まるで文也の心の声への援護射撃のような言葉だった。「~なんだって!」というなまりに、どこか同郷を感じながら声の方向を見ると、馬券おやじファッションの基本ともいうべきカーキ色の「ハンチング帽」を頭に乗せた初老の男性がビール片手に新聞に目をやっていた。独り言なのか、文也に語りかけているのか、初老のハンチングはブツブツ言葉を続けている。その中にやっぱり「なまら」「だって」といったなじみ深い言葉が多く聞いて取れる。文也は聞いてみた。

 

「おじさん、北海道ね?」

 

ハンチングの男性はこちらを見ることもなく、視線を新聞に落としたまま頷いた。文也が続けた「僕も北海道なんです」という言葉にもただ頷いておしまい。競馬のコアファンにはこう言う人も少なくない。そして、新聞を見たまま文也の質問に答えるように、相変わらず視線をこちらへはよこさないまま喋り始めた。

 

「俺、生まれは浦河だからさ、小さい頃から

馬見て育って来たんだって。

だから分かんだけどもレースってのは

レース名云々で馬券が当たっとしても

それはたまたまでしかないんだって。

馬券は、馬の調教と血統と魂。

あとはジョッキーに本命馬を出し抜いたり、

はめる奴がいるかどうかを見れば

いいんだって。本当にそうなんだって」

 

「はめる奴―」。頭の中に少しだけ沢渡のことが返ってきた。だがそれを、ハンチングの親父さんの止まらない独り言が、かき消してくれた。

 

「しかし今日は前が全然残んないんだな。

珍しいや。」

 

言われてレース結果を見てみると確かにそうだった。「前が残らない―。」つまりは先行馬が粘り切れず、後ろから来る馬にことごとく抜かれているのだ。

 

―後ろから抜かれる・・・俺の仕事のことか?

 

一瞬自問自答に陥った。追いつけ、追い越せで信頼していた先輩を追った。二回りほど違ったがアニキと慕って、ぴったり後ろをついて行った。もうすぐ肩を並べられるところまで来たつもりだった時に、そのアニキが社の資金を不正流用している事実を知ってしまった。大した金額じゃなかったが不正は不正だ。そしてそれは5年以上にわたり状態化していた。「どうするべきか」と1人悩んでも結論が出ず10歳下の沢渡にそれとなく話を持ちかけた。信頼していたからだ。沢渡は親身になって聞いてくれ、「社内で公にするのはどうだろう…なんとか大事にならずに解決できる方法はないか…会社も不正を働いた先輩も傷つかずにこの問題をクリアできる方法はないか…」と文也以上に悩んでくれた…フリをしていた。そして…奴が取っていた実際の行動は、その先輩への「密告」だった。必然、その不正に気付いてしまっていた文也は邪魔者となった。小さなミスを過剰に突かれ大きく社内で報じられ、驚いたことには資金の不正流用も「意図したものではないものの文也のミスが生んだ物」という形になっていた。何をどう動かして、そういう形に持って行ったのかはまったく分からない。ただ蓋を開けてみれば会社も内々で問題処理を済ますことができ体裁を傷つけず、不正を働いたその先輩も傷つかず、まさに沢渡の思った通りにはなったわけだ。ただ、そこに「文也も傷つかず」という思いはなく、さらには沢渡自身が「出世への算段をつけるチャンスにする」という発想を持ち込むという、その腹黒さを見抜けなかった。

 

10年面倒見てきた後輩にまさかはめられるとは―!?である。結果的に先輩へ土産話を届けた沢渡は算段通りに昇進。本社で部長職らしい。逆に自分は甲府支社への転属。入社以来の傷心を味わった。昇進と傷心。同じ「ショウシン」でもその違いは大き過ぎる――。

 

「先輩の甲府行きの件、俺も悔しいっす。

いろんなボタンの掛け違えを俺も上手く

フォローできなかった・・・。

自分で自分が情けないっす。

こんなに世話になってきたのに・・・」

 

 辞令をもらったあの日も、泣きながら語りかけてきた沢渡の猿芝居に騙されていた。最終的には年に1,2度しか話さない同期からの連絡で、その「はめられた事実」を教わったのだが、どうしてその前に気付けなかったのかと悔やんでも悔やみきれない。未だに思いだすと動悸がする。

 

…と、競馬場のど真ん中で気を取られていたら、レースのスタート時刻が近づいていた。急いで馬券を買わねばと思う一方で「どうせ当たらないから見送るか」とも一瞬思った。「悪い運を断ち切るために気分転換にビールでも飲むか」とちらっと考えたが、ひとつの持論を思いだし踏みとどまる。

 

―レースの途中で酒を飲む奴は負ける。

 

そもそも文也は酒が弱い。1杯飲むだけで顔も赤らみどこか大胆になってしまう所があるのを自分自身分かっているからこそ、ここは我慢だ。意思を固めると、大慌てでまとめた予想をもとに馬券を買う。このレース、狙いは後ろから伸びてくる馬。6番・メイサイボーイだ!!この馬で5000円勝負だ!オッズは11倍。こいつが1着に来れば5万円以上になって返ってくる!

 レースも特別戦からは生演奏のファンファーレでそのスタートが彩られる。7,8人の鼓笛隊がコース場前に現れてパンパラランパーンと吹き上げた。そのメロディに観客がパラパラランとまばらな拍手を返す中で、会場全体に響き渡る実況が始まった。

 

「大井競馬。2日目。第10レース 

七色櫻特別。1600m内回り。

15頭で争われます。各馬ゲート入りは

順調。今、最後に大外 

タタカウキミノウタが収まって…

スタートしました!」

 

文也の本命馬・メイサイボーイはゆっくりと駆けだして、後ろから4頭目あたりにポジションを構えた。予想通りだ。今日は後ろから伸びてくる馬が好成績を納めている。いい感じだ。そして最初のコーナーを回る時点でメイサイボーイは、さらに順位を下げた。一気に最後方だ。確実に最後の直線での激走を狙っていると感じられる。ますますいい感じだ。そんなメイサイボーイとは対照的に、横で相変わらずうるさいバミューダ彼氏が「これしかないっしょ?」と自信満々に予想していたチェリーウインズは先頭を走っている。見たところ、無理やり先頭に押しだされた形だ。だがバミューダ彼氏はそんなことも気づかず叫んでいる。

 

 「よし!そのまま!」

 

―全くバカで困る!

 

レースはまだ2コーナーから向こう正面の直線に入ったところだ。「そのまま!」と叫んでいいのは、どんなに早くても最後の4コーナーを回って直線を向いたあたりからだ。これは文也の持論じゃない。競馬人としての一般論だ。そしてレースはいよいよ「叫んでいい直線」へと差し掛かる!メイサイボーイが予想通りに外から伸びてきた。1頭、また1頭と交わして前へ前へと伸びてくる。その四肢で力強く地面を蹴り、重い砂のコースを明らかに、どんな馬より軽やかに飛ばしている!その姿は、まるで周りを出し抜いているかのようだ!

 

―行け!もっと!そうだ!来い!

 

メイサイボーイが伸びてくるのに合わせて文也の声も大きくなる!

 

「来い!もう1頭!もう1頭!もう1頭!」

 

心の声ではなくて、真の声で思い切り叫ぶ。

そしてメイサイボーイが、突き抜けるほどに伸びて・・・

3着に上がったところがゴールだった。

 

―またハズした。。。

 

そして…

 

 「ホラ!また激当たりっしょ!ホラ!」

 

バミューダ彼氏の声が横から飛んできた…。

レースは向こう上面で先頭を走っていたチェリーボーイが、文也の思惑通り1着は逃したが、どうにか2着を確保したのだ。

 

1着 ポリススクランブル

2着 チェリーウインズ

30分ほど前のリプレイか?またもや、ぼんやりとうんざりとげんなりとした表情を浮かべてしまっている文也を刺激するように、バミューダ彼氏がまたまた得意気にピューマ彼女に自慢的講釈をたれ始めた。

 

「やっぱ俺、すごくない?

また当たったパターンじゃない?」

 

その声の大きさは嫌でも耳を奪っていく。

連続的中に興奮しているのか、2人の会話のボリュームも更に大きい。

 

「さっきさ、パトカーが外をメチャメチャ

走ってたじゃん?

あれでピンと来たじゃん?

なんかのサインじゃね?って」

「すごーい!すごいすごい!てかマジで?

てか、あのパトカー、なんかの

バスジャック追いかけてるやつっぽいよ?やばくね?なんかぁ10代の男が

バスジャックして走ってるらしいよ!

ツイッターのトレンドで上がってたから

多分、それじゃね?やばくね?てか、

私の馬券も当たったし?2人で一緒に

当たりってやばくね?」

「たしかに!俺は連続的中やばくね?

イェー!2人で的中やばくね?イェー!

てかバスジャック

今時そんなことするとかバカでやばくね?イェー!」

 

文也の気も知らない2人がとかく興奮されていらっしゃる間に配当金がビジョンに映し出された。それを見たピューマ彼女の叫び声が、耳の奥まで突き抜け心をえぐった。

 

「これ、100円が1万2千円に

なるんだよね?超すごくない!?

超すごくない!?」

 

バミューダ彼氏も続いて叫ぶ。

 

 「俺、500円が32万に

なったんじゃねー!?」

 「え?ナンデナンデナンデ?」

 「俺、3着までの馬券も当たってっから

ホラ、32万!」

 「超すごいジャーン!なんでそんな馬券

買えたの?全然人気なかったじゃーん」

 「え?みゆき、それも分かんないの?

迷彩柄、俺のラッキーカラーじゃん?

買うしかないじゃん?」

 

文也は…今、飛び跳ねコブシを挙げて、ツイスト風に腰を揺らしている2人に向かって。せめてもの反撃で吠えた!(心の中で!)

 

―迷彩は色じゃねえ!

 

しかし、追い打ちは止まらないものである。なんとか2人の会話に興味ないような顔で、ただじっと、コースに設置されている「大型ビジョン」を眺めていると、今度はハンチング帽親父が話しかけて来た。

 

「ホイ、乾杯。同じ道民に乾杯~」

 

見るとおじさんが名物の白ホルモン串とビール1杯を手にグラスを傾けていた。文也が戸惑いながら手元のペットボトルで応えると、ハンチングじいさんはさらに驚く言葉をかけてきた。

 

「いやぁ当たっちゃったよおい!

120倍を1000円と。

640倍を300円だ」

 

2つ合わせるとこちらも30万近くの配当を的中している計算になる。なぜだ?さっき「今日は先行して走る馬は全部抜かれる」と予想していたはずだ!?その疑問がどうしても気になって仕方なく文也は聞いた。

 

「こんなのよく買えましたね?」

 

するとおじさんは、「いかにしてこの馬券を当てたのか?の武勇伝」を誰かに聞いてほしかったのか、ハンチング帽のツバを後ろに回し、より顔が見やすいような状況にして一気に語り始めた。

 

「どーして前の馬を買えたか?

そりゃ魂なんだって」

「・・・魂?」

「馬券を買う前に馬に話しかけるんだよ。

やる気あんのか!ってな」

「・・・はい?」

「そこで返って来る念で判断するんだって」

「はい…なるほど…。」

 

その後は、ハンチング帽おやじの武勇伝にテキトーに付き合いつつ、意識は次のレースへと切り替えた。文也の持論は「競馬はオカルトや語呂合わせで決着しない」だ。「終わったレースのことをその場であーだこーだ考える奴は負ける」だ。先のレースを考えよう。

 

次は…いよいよメインレースだ!(続)

―また出し抜かれた!

 

全力疾走で直線を駆けた馬達が、ゴール板を過ぎた者からようやくその脚を緩めて行く姿を文也は、ぼんやりとげんなりとうんざりとした表情で見送った。

 

 どう考えても俺の予想した馬が先頭で駆け抜けるパターンのレースだった。それなのにこの1年、一度も好走したことのない穴馬に出しぬかれた。まったく・・・。

 

―出しぬかれるのは仕事だけで十分だ!

 

大井競馬場第9レース「サラC2(九)」。

レースにこれといった名前もついていない、いわゆる「平場」のレース、その馬券予想の際に「頭の片隅のその奥の奥の裏側」ですら考えもしなかった「超人気薄の馬」が最後の最後に伸びてきた。この馬のこれまでの成績からすると、1年に1度あるかないかの激走だ。それもそのはず、レース後にデータを調べてみるとこの馬、まさに1年に1度の勢いで今日のレースを狙いこんでいたことがうかがい知れた。この週は、激走したこの馬の馬主の誕生日のある週だったのだ。

 

―そういうことか!

 

これで馬主の誕生日週はこの馬、4年連続で1着を獲得していることになる。これは偶然ではなく確実に「狙って」勝ちに来ていたってことだ。その情報に気づけば簡単に的中できたけども…もはや後の祭りだ。だが文也は思う。

 

「競馬に負ける奴は終わったレースのことを、その場であーだこーだと考える。」

 

あくまで持論だが、20年を超える競馬経験でいくつかの「競馬における持論」には辿り着いた。そのひとつがこれだ。競馬場にいて「勝負」している時は、常に「後悔先に立たず」。後悔はより後ろへほおり投げて前を!つまり次のレースを考えないことには勝てないのだ。ギャンブルは「自分のルール」と「欲望」との戦いだ。自ら発見したルールをどれだけ守り切れるかで、どれだけ勝てるか、そして負けないかが決まってくる。

 

 それにしても…やっぱり出し抜かれた気分はぬぐえない。9番人気で1着まで伸びてくるなんて‥。と驚きが消えない。競馬は出し抜いた馬が勝つのも醍醐味のひとつなスポーツだから仕方がない。でも、そういったレース展開になる時は「出し抜く馬券を持っている側」でありたいと思う。特に今回は、仕事で十分出し抜かれたことの「気晴らし」で1年以上ぶりに懐かしの大井競馬場に来ているのに、馬券まで「出しぬかれる側」にまわされるのはどうも気が晴れない。

 

地元にいる頃から競馬場にはなじみがあった。文也が想像する地元の「夏の景色」は競馬場だ。故郷函館は毎年夏に馬で盛り上がった。函館とはいえ、半袖でも大丈夫な「夏競馬」がやって来ると毎年、親父に連れられ路面電車に乗って競馬場へ通った。親父との「外出」の記憶はそればかり。1番の思い出は88年、中3の時か。結果的に親父と行った最後の函館競馬場のレースだ。「ダービー馬が函館で走る」と親父が興奮していたのを覚えている。シリウスシンボリ、メリーナイスと行ったその「栄光の名馬」を直に見て、彼らの放つ輝きには文也も見とれた。そして勝ったのは、サッカーボーイ。ぶっちぎりの勝利だった。その圧勝劇に、子どもながらに鳥肌が立ったのをしっかり覚えている。

 

文也が上京したのは、地元の大学を卒業した後だ。都内の会社に入社を決めた。函館を発つ前の日、親父に言われた言葉が印象的だった。

 

「世の中、信じていい男とだめな男がいる。

その見分け方を教えてやる。

 どんなに小さくてもいい。

自分で全部の責任背負って生きてる男は

信じて大丈夫だ。

でも、人に乗っかってるだけの男は

信じるな。疑わなくてもいいけど信じるな」

 

覚えてはいたが、それを胸には刻んでなかった。。と42歳にして初めて気づいた。騙されて初めてその意味を考えた。だが馬券と同じだ。後で気づいても遅い。

 

―沢渡は・・・信じるに値しない人間だった。

 

上京して務めたのは品川に本社を構えるコピー機器メーカーだった。通勤で苦労したくないと思い、会社に近い「立会川」に住まいを借りた。住んですぐに自転車を買い、近所を知ろうと走り回ってこの大井競馬場を見つけた。あの頃の品川駅は、まだ新幹線の停車駅はなかったが函館駅前より高いビルも多くて十分都会だった。品川プリンスホテル、ホテルパシフィック東京、山手線、改札をひっきりなしに出入りする人々。テレビで見ていただけの景色の中に自分がいることが信じられなかった。東京で生活を始められたことに現実感がなかった。それだけに「大都会・品川駅」からもほど近い都会の真ん中に「馴染みある景色・競馬場」があるなんて思いもしなかったし、見つけた時はどこかホッとしていた。東京に地元の景色を見つけて心慰めたかったのか、当時はマメに通ったものである。馬券勝負にムキになるわけでもなくて、ただこの場に来ることでどこか落ち着く自分がいた。とはいえ函館競馬と違って驚いたのは夜に、ライトアップされたコースを馬が走っていたことだ。ナイトレース―。たまに香ってくる海の気配の中、光り輝くコースを走る馬を眺めては「都会は何でもおシャレなんだって…」と田舎との違いを感じた。その輝きに、どんな平凡な馬も輝いて見えて眩しかった。

 

そんな大井競馬場へ今日は「憂さ」を晴らしにやってきた。が、今日は憂さ、晴らせるだろうか?と、最初に手を出したレースでミソを付けられたことで不安がよぎる。その不安を払しょくしたかった文也は、駆け抜けたコースをゆっくりと戻って来て、今ちょうど目の前に戻ってきた先ほどの「出しぬいた激走馬」に向かって思いきり叫んだ!(心の中で!)

 

―ダメなフリして最後に思いっきり

伸びてきやがって!騙されたよ!

人を騙すんじゃねえ!バカヤロー!

 

文也の持論だが、平日に競馬をしにやってくる人間は大体4つに分けられる。「ギャンブル依存症」「恋愛デート」「現実逃避」「憂さ晴らし」この4パターンが大半。上京当時の自分は「現実逃避を目的に通っていたパターンの人間」だったと思う。そして今日の文也は「憂さ晴らしでやってきたパターンの人間」だ。ギャンブル依存症や恋愛デートで来ているような奴とは「パーッとしたい!」という思いの強さが違う。騙されるのなんて仕事だけで十分だと改めてうんざりしつつ、次のレースの予想を始める。馬券の発売締め切りまで20分を切った。さっきあの馬に出し抜かれなかったら今頃、財布には諭吉が5人は増えていたはずだ。だが現実は漱石が5人消えてしまった。次のレースは外せない!そろそろ予想に集中しようと思いつつ新聞に目を落とすが「晴らしに来た憂さの原因」が頭にチラいてしまう。あいつ―俺が10年面倒を見てきたあいつ―には、人をはめて自分自身だけが生き残るような出し抜きかたをして悪気はないのか?あるのか?もしもあるのならまだ救いようがあるのだが、ないとしたらやりきれない。

 

「辞令 岡崎文也 

9月30日をもって現職の任を解き、

10月1日付で甲府支社への転籍を

命ずる。以上」

                           

文也の名前が記されたそのA4用紙が社内掲示板に貼られたのは2週間前のことだ。まったくもって寝耳に水を超えて熱湯をかけられたほどの事態だった。その前日に人事部長に呼び出され伝えられていたから、その当日はすでに知ってはいたが実際に貼りだされているのを見た時に「事実なんだ・・」とより実感した。行き先は山梨。顧客が10人を超えない程度の小さな支社。いわゆる左遷コース。自分がそこに「飛ばされる」理由にはまったくもって身に覚えがなかった。おかげで最初はショックを感じる余裕すらなかった。直属の部下の沢渡の方が「先輩だけを信じてついて来たのに残念です」と文也より先に涙を流してくれた姿を目の当たりにしてようやく、我が身にショックが届いたくらいだ。だが異動のショックは、その1週間後に喰らうことになったそれに比べれば大したものじゃなかったが…。

―沢渡の涙は芝居だった。

 

従業員が総勢で50人もいない小さな会社でも、どこぞの銀行のように「倍返しだ」と叫びたくなるような事態が起きるなんて…しかも我が身に…まったくもって…

 

―まったくもってだ!

 

「まぁ、気づかない方がバカって話?」

 

突然、会社での文也の身に起きた状況にまさに当てはまるような言葉が横から飛びこんできた。思わず視線を競馬新聞から声の方に移してしまう。見ると、全身をバミューダ柄の「動くだけでシャカシャカ鳴る服」でコーディネートした若者が競馬新聞を指でなぞりながら、彼女らしき女性に自慢気に語っている姿があった。バミューダ柄はシャカシャカ体を揺らしながら自慢げに続けている。

 

 「みゆき気づかなかった?今のレースはさぁ?どう考えてもさぁ?1着だった9番の馬が勝つレースだったじゃん?なんでか分かる?大井競馬場9レース?レースのスタート時間は19時?そしてレース名は「C2(九)組」?こんなに「9」が並んでるのに9番の馬、来ないわけないじゃん?それに9番人気でしょう?これって確実に暗示が出てるっしょ?マジ気づかない方がバカでしょ?」

 

やたら「?」と問いかけるようなトーンのしゃべり口調にイラついた。もしも俺がジョッキーなら、過剰に鞭をくれてやりたいとすら思ったが文也はジョッキーではない。ただのサラリーマンだ。来週には左遷が決まっているサラリーマンだ。残念にもこういう場合の相手への攻撃法を持ち合わせているわけがない。仕方なく、またひとつ思いだした自らの持論を思いきり吐き捨ててやることにした!(心の中で!)

 

―競馬はオカルトや語呂合わせで

決着しねえんだよ!決まったとしても

それはただの偶然なんだよ!

俺の持論だけどな!

 

文也の20年を超す競馬キャリアからたどり着いた観点からすると、バミューダ彼氏の予想根拠は何ともバカ甚だしいものでしかない、だが、バミューダ彼氏の横で、みゆきと呼ばれたピューマ柄の彼女は「すごーいすごーい!」を連発して素直に感心している。その光景を見て文也はさらっと言ってやった。

 

「予想を自慢する奴ってのは、続けては

勝てないんだよ。俺の持論だけどさ。」

 

もちろん心の声だから、もちろん聞こえるわけもない。だからバミューダ彼氏の自慢がどんどん続く。自然、文也もどんどん言い返す!(心の中で!)

 

 「競馬は一瞬のひらめきとセンスじゃね?」

 

 ―センスよりも積み重ねてきた経験と

知識だよ。俺の持論だけどさ。

 

「みゆきお前…今日から俺のこと

『馬券の天才』って呼んでもいいよ?」

 

―馬券に天才はいねえよ。いるのは秀才だ。

俺の持論だけどな!

 

「馬券は一切悩まないのが大事!

悩み過ぎるとダメなのよ?」

 

―馬券は悩み過ぎるとダメだが、

一切悩まないのが1番ダメなんだよ!

俺の持論だけどな!

 

「まぁ。とりあえず儲かった!

落ちてた15万円拾ったって感じ?」

 

―・・・。

 

バミューダ彼氏の自慢が、こちらには嫌味にしか聞こえないが、そういう話に限って、しっかりと耳に入ってくる。「いい加減辞めて欲しい」とは思うが、彼は文也に話しているわけじゃないから何も言えない。何とか気を紛らわせたいと思っていると、競馬場の外からけたたましい台数のパトカー音が聞こえてきた。何が起きたのか赤色灯が3,4,5,6,7とかなりの数連なって走っていくのが4コーナー奥の道路越しにチラッと見える。

 

―ちょうどいい、このバミューダ柄を

逮捕してくれ!ん?でも何の罪だ?

自慢罪?ふざけた予想罪?

なんだそれ・・・。

 

もはや嫉妬が訳の分からない思考を展開し始めたが、いつまでも嫉妬していても意味がない。気を取りなおして予想に戻ろうと、改めて「競馬新聞」に目を下ろす。次からはレースに名前もついた特別戦だ。第10レースは「七色櫻賞」。どうやらアニメのタイトルにちなんだ名前らしいが、レース名ばかりは予想には一切関係ない。当たり前だが馬はレース名を知らないからだ。しかし、隣のバミューダ彼氏によるとそうではないらしい。ピューマ柄彼女・みゆきの「次のレースはどの馬がいいの?」という質問に意気揚々とした「天才予想トーク」で答え始める。

 

「みゆき、また分かんないの?競馬は一瞬のひらめきとセンスっしょ?次のレースはね?チェリーウインズって馬しかないっしょ?だってサクラって名前のレースだよ?チェリーってホラ、絶対怪しいっしょ?」

「すごーい。絶対それじゃん。みゆき、チェリーウインズ1000円買う~」

 

聞き耳たてずとも聞こえてくる「たわごと」を意識してしまい、思わずオッズに目を落とすと12番人気の馬だ。さすがに無茶な予想だ!と思いつつも、なぜかその予想に心が揺らぎ

チェリーウインズの過去の成績をチェックする。同時に文也はまたひとつ持論を思いだした。

 

―人の予想を聞いて迷ってしまうような

レースは当たらない。

 

良くないパターンに陥り始めていると自覚した。何とか自分の予想に集中しようと意識して新聞を覗きこむ。だが、今度は「バミューダ&ピューマカップル」とは反対側からまた別の「気になる声」が耳に飛びこんできた。(続)

愛娘・明奈の誕生日を祝うために「焼肉パーティ」へと家路を急ぎまくる一伸。お店の予約は19時45分だったはずなのに、19時半を過ぎた頃に「肉を焼いている娘」の写真が送られてきた。

「どういうこと?」と焦る一伸は・・

 

********************

 

「娘がバスジャックに!?」的心配は無事に消えたが言葉を失った。焼肉店の予約は19時45分だったはずだ。腕時計をチェックしたが、まだ長針は「6」と「7」の間を進んでいて19時35分にもなってない。念のためスマホの時計を確認してみたがやはり19時32分だ。頭の中を「?」が席巻した頃、妻からのメールが届いた。

 

「わけあって先に始めちゃいました。

ごめんね。とにかく食べながら

待ってます。サキカン♪♪♪♪♪」

 

―サキカンかよ。。

 

最近、ビールのCMでよく見る「先に乾杯」の略語だ。「♪」が5つ並ぶあたりに、妻のご機嫌度合いがうかがい知れる。娘が部活終わりで空腹に耐えられなくなって、先に肉を焼き始めたといったところだろう。

 

―仕方ないか…

 

まぁこっちももうすぐ葛西臨海公園駅だ。自転車を飛ばせば20分もしないで合流できる。着いたら「外食の時は、おごる人間の到着を待つもんだ!」くらいの小言を言って、お酌でチャラにしてやろう。そう思って一伸は冷静に妻にメールを返す。

 

「了解。美味しく食べてて下さい」

 

ようやくだ。電車が葛西臨海公園駅停車に向けて速度を落とし始めた。

        ◇

一伸が葛西臨海公園駅から自転車で15分の距離にマンションを買ったのは7年前だ。並のサラリーマンの限界…をちょっと超えた価格設定の物件を頑張って購入した頃のことは今でもしっかり覚えている。明美が年長の夏。小学校に上がるタイミングで―。と家を探した。一伸自身は山梨出身で、妻は千葉の南房総出身ということから都内のどこにも特に思い入れはなかった。また、西日本から上京してきた人間に時折感じる「住む場所」への異様なこだわり―主に渋谷を起点に西へ電車で15分以内が理想とするケースの多いこと―もなかったことから、墨田区、葛飾区、文京区、足立区、八王子市、国分寺市、立川市・・・と幅広く家を探した。なんとなく帰省のことを考えて「都内東側」で探しはしたけれど、本当にどこでもよかった中で、この江戸川区のマンションに決めたのは「おかっぱ頭の販売営業員」の口説き文句に畳みかけられた以外の何物でもない。

 

「赤松さん実はですね?

江戸川区って23区で一番、

住んでる人達の平均年齢が

若い区なんですよ?

子供が沢山いるんです!

つまり元気な区なんです!」

 

―平均年齢が若けりゃいいってもんじゃない。年配の方が多いからこそいいこともある。

 

「赤松さん実はですね?

江戸川区って23区で一番公園の面積が

広い区なんです!」

 

調べてみた。

 

―そのほとんどを葛西臨海公園でまかなっているだけじゃないか。こっちは、表面的な数字に騙されてマンションを買うほど馬鹿じゃない。

 

「赤松さん実はですね?

子供の医療費無料化を比較的早く

実現化したのも江戸川区なんですよ?

お野菜の収穫量だって23区で

1番なんです!小松菜が名産なんです!

安心の食材が手に入る!

街に暮らす子供が多いだけあって

育児環境も整っているってことです!」

 

―なるほど素晴らしい!

 

‥だがこの東京、23区で1番だろうが23番目だろうが世界規模で見れば、どこでも「子育て環境」は良すぎる方だ。そして小松菜に関して言えば…

一生食べなくても生きて行ける。

 

「赤松さん実はですね?

江戸川区ってインド人が多いんです!

インド人のITインテリ層の多くが

この江戸川区に住んでいるんです!

だから本格派のカレー屋さんも多くて…」

 

―ハッキリ言おう!インドと日本のカレーは違う!そして俺はチェーン店のカレーが大好きだ!

 

「赤松さん実はですね?こちらの物件、

15階以上ですと赤々と輝く東京タワーが

見えるんですよ?

行く行くはスカイツリーも完成すると

ばっちり見えて…」

 

様々な説得話に少しずつ心を動かされ、いつしか「どうせ買うなら景色のいい方が…」と「買う前提」で考えるようになっていて、結局は当初予算3500万を限度にしていたが結局、300万冒険して3800万円の部屋に手を出した。購入を決めたフロアは16階。一伸の部屋からは、赤い東京タワー・・の「先端」が見える。

 

マンション購入当時の思い出に頭を取られていると、電車がついに葛西臨海公園駅のホームに滑り込んだ。ここからは自分の努力次第で、どこまでもタイムを縮められる。「レースの再スタートだ!」と気を入れ直す。いつもはトボトボトボと階段を降り改札を出るが、今日だけは誰よりも早く改札にたどり着きたい。もう「炭火の焼き肉屋さん」までのルートは完璧だ。改札を出る。自転車をピックアップする。最近、設置されたヒーローらしきキャラクター「エドガワイルド」なんて名前のイラストが描かれた看板を左。そこからひたすらに漕ぐ!おそらく12分!だけども「明美の誕生日」というエンジンを積んだ今日なら10分で行ける!遅くても19時55分には乾杯できている計算だ!そう、まさに今話題の福田大雅のビールのCM、そのキャッチを体現できるチャンスだ!

 

―家族とのお祝い。

心はホットに!

味はドライに!

 

電車を降りて、階段を1段飛ばしてかけ降りる。いつもより多めに腹の肉が揺れているのも気にしないで、13秒後には改札を出ていた。さらにその15秒後には自転車へ到着。1分と経たないうちに駅を背に自転車をこぎ出した。いつもより多めに腹の肉と太ももがぶつかっているのも気にしないで、ひたすら真っすぐに走り続ける。5分ほどで「エドガワイルド」の看板が見えてきた。緑の野菜を刀のように構えたそのヒーロー。「東京戦隊ツースリー・エドガワイルド」と大きく書かれているのだが、一伸自身は一度もじっくりとは見たことがない。朝はそんな暇はないし、帰りもわざわざ自転車を止めて見入る気力も関心もない。そもそも興味がない。もちろん今日も即通過!いつもより速度を増して通過!・・と思っていたが、不意に3人の女子中学生らしき子達から切羽詰まった大声をかけられた。

 

「すみません!写メを撮って下さい!」

 

見ると3人ともに頭を下げている。写真を頼むだけなのにどうしてこうも切羽詰まり恐縮しているのか?怪訝に思いつつも、娘とも年齢の変わらない年頃の子達に頼まれると断りづらくもあり、仕方なく自転車を停めた。「1枚でいい?どのスマホで撮ればいいの?」と声をかけながら1人の子のスマホを受け取った。すでにカメラモードになっていたので、シャッターを押すだけでいい。一伸が画角をチェックしている間に、3人は「エドガワイルド」の看板を囲んでそれぞれポーズを取りだした。エドガワイルドと対峙している子、緑の野菜の刀で刺されたように苦悶の表情を浮かべている子、すでにやられたのか倒れこんでいる子。何ともアホな光景だ。まぁどうやら決まったらしいところで「いいかな?」と声をかけ撮ろうとした矢先、3人が突然変わった掛け声を口にした。

 

「たとえ我が身朽ち果てようと、

俺らはいつでも仲間を守る!」

 

よく分からないがそれを聞いた後、2,3枚撮影してスマホを返した。受け取った3人が、写り具合を確認し「バッチリです!ありがとうございます!」とお礼を述べ始めたあたりで、一伸はもう自転車を再スタートさせた。早く明奈の誕生日を祝いたい!早く明奈の酌で美味いビールを飲みたいのだ!

        ◇

19時50分。顔も久々の運動で真っ赤に染まる頃、ようやく「炭火焼き肉店」に到着した。「予約していた赤松です。すでに入っていると思うんですが・・」と店員に告げ、部屋へ案内してもらう。照れ隠しで精一杯息を整えながら、まるでひとつも慌ててきた風ではないように装いつつ、家族に声をかける「お待たせ」。

 

そこに・・明奈はいなかった。

 

「ん?」

 

代わりに先ほど届いた「肉一杯の写メ」で明奈が座っていた位置に初老の女が座っている。「早かったねぇ」と笑顔で言うその女性の顏には、一伸と同じ位置の「右頬」にエクボがある。

 

―玲子だ・・。

 

―つまりはオフクロだ・・。

 

一伸が「明奈は?」と当然口にすると、妻の明子が「それがね・・」と自分自身のスマホをいじって画面を見せてきた。

「ハイ、明奈のツイッター」

「?」

娘のツイートをとりあえず読んでみる。

「友達がサプライズで

パーティ誘ってくれた!

これから速攻合流!」

「葛西臨海公園の観覧車。

8時で終わるまでにみんなで

行くしかないっしょ!」

「たとえ我が身朽ち果てようと、

俺らはいつでも仲間を守る!の写メ

笑える。アホ過ぎて最高の仲間に乾杯!」

 

そこには、見覚えがあり過ぎる「アホな光景」の写メが1枚写っていた。あの「エドガワイルド」と対峙している女子中学生3人の写メだ。

 

―俺が撮った1枚だ!!

 

明子が続ける。

「さっき友達からラインが来て‥8時からサプライズパーティをファミレスでやってくれることになったんだって。「行きたい」って言うから。とりあえずちょっとだけでも、焼肉屋さんも付き合ってから行きなさいって言ったんだけど‥。そしたら、自分でお店に電話して予約時間を7時半に早めちゃって…そして「あっ」という間に食べちゃって今、行っちゃった。本当にたった今よ?パパとちょうど、入れ替わりでここから出て行ったくらい」

 

―ふーん。

 

あの子達、明奈の友達だったのか・・。少し冷静を装おうようにメニューに手を伸ばしつつ言ってみる。

 

「まぁ、友達の誘いなら仕方ないか・・。

とりあえず生ビール、もらおうかな」

 

「酌をしてもらう楽しみ」もなくなったので瓶ビールを頼む必要はもうない。ところが

「瓶ビールにしなさいよ?お酌しますよ?」と、さっきまで明奈の座っていたスペースにいる70歳―オフクロ・玲子―が笑っていた。聞けば明奈が呼んだらしい。玲子は招待されたのがよほど嬉しかったのか、こちらが聞いてもいないのに自分の話を続けている。

 

「私、ここまで自転車かっ飛ばして

きちゃった。でも私、お肉あんまり

食べられないから‥

サラダでももらおうかしら。

小松菜のサラダ美味しそうね。

私、小松菜大好き。

小松菜がないと生きていけないくらい!」

 

小松菜・・。

 

ビールはすぐにやってきた。玲子が一伸のグラスにビールを注ぐ。続けて自らのグラスと、明子のグラスも満タンに見たし、ご機嫌に乾杯の音頭を取る。一伸も一応付いていく。

 

「それじゃあ明奈ちゃんの誕生日を祝って、とりあえず乾杯!トリカン~」

「トリカン~」

「明奈ちゃん。生まれてきてくれて

ありがとう!今日も元気でありがとう!

 さぁ!乾杯!」

「乾杯~」

 

主役不在、40代2人と70代1人の「炭火」焼肉誕生会が始まった。親として、我が子を「炭火」焼肉店に訪れたつもりが逆に自らが「子」として親とやって来た格好だ。これもまた何年ぶりだろう。とにもかくにも若者のいない状況で囲む肉。肉はさほど頼まなくても大丈夫だろう。財布はそう傷まずに済みそうだ。良かった良かった良かった・・。と一伸は思いこむことにした。

 

ビールを流し込みながらスマホで、改めて娘のツイッターをチェックしてみると、ツイートが更新されていた。

 

「カズブーがおごってくれる焼肉も

捨てがたいけど、

仲間に誘われたら仕方ないっしょ!」

 

仕方ないのかなぁ。一伸はグラスにもう半分も残っていなかったビールをまとめて流し込みなつつ首をひねった。

 

―まぁビールが美味いからいいか。

 

なんとなく、明奈のいるファミレスの方―この店では個室出入り口の方向―にグラスを向けて言ってみる。

 

「誕生日にトリカン」

 

妻と母親の手前、理解ある父親をふるまおうと少しだけ「ビールのCMの福田大雅」を意識して、かっこつけて言ってみた。

…と明子が「パパ、そう言えばね?」と若干の笑みを浮かべながら、こちらがどうにも格好のつかない言葉をかけてきた。

「パパが明奈のツイッター見てるの、

あの子にバレてるよ?」

「‥え?」

「アカウント名。REDMAN」

「…。」

「そんな名前でツイッター、

やってるんでしょう?

でも何もツイートしないで、

明奈のアカウントをフォローして、

ただ見てるでしょう?」

「…。」

「バレバレだってよ?」

「…。」

「キモイってよ?」

「………。」

「バレてるの分かって、

わざとパパが喜ぶことを

ツイートしたりしてるってよ?」

「……………。」

「レッドマンさん?

娘から遊ばれてますねぇ~」

「………………………。」

 

一伸は店員に声をかけた。

 

「すみません!生ビール下さい!」

 

その顔が真っ赤だったのは、もう酔ったからでも「炭火」焼肉店まで急いできたからでもない。

「競馬」が趣味の人なら絶対に言ってみたい夢の一言。

 

「今年の馬券、年間トータルで

プラスだったんだよね」

 

小倉で競馬を覚えて、馬券を買い始めて20年以上経つけど僕はこの一言を言えた年を経験したことがない。

 

競馬をやってる人は大体知ってることだけど、

競馬は「回収率75%」を超えたら「勝った」と言えるゲームです。

なんでかって言うと、

馬券は100円を買った場合25円は胴元(JRAなどの主催者)が懐に納めて、

残りの75円分を「馬券を買った人達」が取りあっている仕組みだから。

 

つまり回収率で75%を超えたら「金銭」での勝負には負けているけど「ゲーム」って意味では勝ったって言えるんです。

 

だから回収率で100%を目指す前にまずは75%を超えたら「夢の一言」を言うための「仮免を取得」みたいな感じ。そんな中でこの2016年…

 

馬券成績85%で最終週にこぎつけました!

ズバリ、仮免取得です!

 

「老後、どうせ安い年金を馬券で増やして小遣いにする」を夢にデータをシコシコシコシコ。

競馬新聞を見ないで、独自の予想法で馬券をシコシコシコシコ!なスタイルで1日平均4~5レース。毎月3040レースくらいに手を出して的中率は30%くらいでここまで来ました。

 

有馬記念を終えた時に「今年の馬券、年間トータルでプラスだったんだよね」って言いたいと思います。

 

「名古屋での単身赴任」を経て、5年ぶりに都内で娘・明奈の誕生日当日を迎えた一伸。

都内・本社勤務に戻ってからも残業で帰りも遅いのが常だが「今日だけは!」の気持ちでいつもより3時間以上も早く帰路へと着いた。今日だけは「早く帰りたい!」の思いが高まれば高まるほどもどかしく・・・

 

*******************

 

時間が「秒単位」にまで気になるのも久々だ。もしかたら高校でバスケをやっていた時以来かもしれない。あの頃は相手チームとの得点が僅差で迎えるゲームの終盤は本当に1秒1秒がもどかしかった。バスケの4、5点差は、10秒もあれば十分逆転がある。そんな状況では1秒1秒の時の流れがリードしている試合では長く、追いかけていいる場合は短く感じた。とにかく敏感なまでに「時間」を肌で感じていた。今、電車の中で何度も時計を見ている感情は若干、あの時のそれに似ている気がしている。

 

一伸が高校でバスケ部を「やり切った」のは30年近く前だ。それが今年、娘もバスケ部に入った。別に勧めたことなんてない。相談を持ちかけられることもなく、明奈は彼女自身の意志だけで入部していた。それでも同じバスケ部に入ってくれたことは、すごく嬉しかった。どこかに遺伝子でのつながりを感じたのだ。そして「共通の話題」が生まれる気がした。まぁ、4月から共に暮らし始めて半年、それはいまだにないけれど。元々、普段から周りの人に「似てる」とはあまり言われない自分と明奈だけに、似た所がひとつ増えた気がして嬉しかった。一伸は常々思っている。

 

―親子って、家族って、もちろん先天的な遺伝子の影響もあって似るが、共に暮らすからこそという後天的な影響で似てくる部分もあるはず!

 

ところが一伸はその「後天的に似るチャンス」を5年ロスした。でも、別にそれを不満だとは思っていない。給料の他に単身赴任手当をもらえたおかげで、今のマンションを買えたのも事実だから仕方がない。だからこそ右の頬、同じ位置に出るエクボが遺伝したのは嬉しかったし、同じ部活を選んでくれたのも嬉しかった。明奈は来年2年生になったらレギュラーにもなるだろう。そうしたら試合の応援も行きたいと思う。

 

―単身赴任じゃない今なら楽勝だ!

 

5年も家を離れて働いてたからこそ、娘との時間を大きく失っていたことには敏感になる。東京を離れることになった…その直前に引っ越した当初、「新しいおうちからは近いからパパと一緒にたくさん行けるね!」って喜んでくれたテーマパークも、まもなく見えてくる葛西臨海公園の大観覧車も最後に一緒に行ったのは明奈が小1の頃か。その後、連休などを使って名古屋から家に戻った時なんかに行けるチャンスもあった。だが、彼女は小5になった頃からは、「友達」と行くようになってしまった。友達の誰かの親が1,2人、付き添いで行動を共にはしていたが、その役に一伸が呼ばれることはまずはなかった。そして中学生となった今ではもう、付き添いもなく友達とだけで行っている。次に一緒に行けるのはいつなんだろう?そもそもそんな日は来るのか?そんな風に、ぼんやり思うと余計に今日の「焼き肉でのお祝い」への気持ちも熱くなってくる。

         ◇

電車は、ようやくホームから走りだした。結果的に電車はさほど混みはしなかった。隣の外国人男性―おそらくインド人―と少し肩が触れ合うかどうか密着感ではあったが、彼も気にせず自らのスマホに目を落としている。こちらも改めて「到着時刻」をチェックしようと再びスマホをチェックすると、思いがけないニュースが目に入った

 

―新宿でバスジャック発生。定員32名の大阪行きの高速バスが、刃物を持った男にジャックされた模様。バスは大阪方面に向かわず現在、新宿を出て新宿通りを四谷から右折。文京区方面へ走行中。

 

気になって、同様に「バスジャック」とタイトルについているトピックの記事をいくつかをクリックしてみたが、どれもそれ以上の情報はいまだ記されてはいなかった。乗客には1人で乗っている女性や子供なんかもいるんだろうか?不意に、その状況にさらされている娘を想像してしまい、どうしようもない不安と同時に怒りが腹に沸いてくる。そしてその思いは数秒後に「これから、そういう心配事なんかも増えていくんだろうな」という気持ちに変換される。取り急ぎ、次にやって来る心配は「受験」か?それとも「変な友達」と付き合わないか?いや「彼氏問題」は?変な男を連れて来たら許せない。まだそういった気配はないからいいけれど、もしも、挨拶はしない!素行は悪い!成績は悪い!何より女遊びが激しい!そんな男を連れて来たら許しはしない。大体、明奈はなぜそんな男を選ぶんだ!と娘がどうしようもない男を連れてきた場合のことを想定して腹が立って来た。電車は今、越中島を通過した。葛西臨海公園駅まではあと3つだ。

 

電車の中で慌てても仕方がない!とは思うがやはり気持ちは焦る。とはいえ電車の中を走るわけにもいかない。走ったところで到着時刻は変わらない。やっぱり、この焦りはただの空回りで何も生まないのだ。と思いを巡らせ、自身の気を逸らそうと娘のツイッターアカウントをチェックする。アカウント名「AKINA-AKA」にアクセス。そこにはいつも、一伸の感情をあらゆる方向へ引っ張り回す言葉が躍っている。

 

「今日は誕生日。家族でご飯とか

マジ下がる。でも、カズブーが

焼肉おごってくれるとかなら行く」

 

これを読んだ時に、カズブーとしては「焼き肉」をおごることにした!

 

「でも、もしもカズブーのオゴリで

焼肉屋行ったとしてもレベルは知れてる。炭火焼肉の○○とか理想だけど、

それは求めすぎなの分かってるから

そこまでは望まない。

せめて柔らかい肉の店希望」

 

カズブーとしては明奈が理想とした炭火焼肉の人気店を押さえた!

 

「家族で外食とか周りに見られたら

恥ずかしいけど仕方ない。

肉の欲求と比べたら仕方がない。

でもやっぱ個室希望」

 

カズブーとしては個室を押さえた!

 

「あー。明日突然カズブーが

優ちゃんみたいな爽やかルックス&

爽やか体型になってほしい。

そしたら父親マジ愛せる。

でもそんなことありえないから

望んでも仕方ない」

 

カズブーとしては「爽やか」を目指してメンズエステをチェックした!値段を見てスルーした!

とにかく「炭火焼肉の個室」を予約して誘うと、明奈はあっさり乗ってきた。普段は外食に誘っても、そもそもの「行く行かない」の反応すらあまりないのに今回はあっさりだ。こういう時、現金なものだとは思うが、まだまだ子供じみてて可愛いなとどこかホッとする。

 

もちろんこちらが「娘のツイート」をチェックしていると知らないからこそ、心にグサッと来るツイートも度々ある。こっそり見ているんだから耐えるしかない。仕方がない。ちなみに「優ちゃん」というのは明奈が夢中になっている役者でタレントの小泉優だ。行き当たりばったりのドライブロケ番組で人気が出た彼のDVDを何本買わされたか分からない。まぁ一伸自身、ビールを飲みつつ楽しませてもらっているので嫌ではない。ただ、明奈や今時の女子高生が憧れるほどのルックスを持った男かといわれるといささかの「?」が浮かぶ。やっぱりイケメンというのは今、ビールのCMに出演している福田大雅などじゃないかと思う。とにかく娘のツイートを見ると傷つくこともある。でも痛みに耐え続けているからこそ、時に心躍るツイートにも出会うこともあるのだ。

 

「今日は焼肉おごってもらう。仕方がない。カズブーにお酌でもしてやるか」

 

このツイートを見て、今日は生ビールじゃなくて瓶ビールにしようと決めた。同時に、気を取り直して口元をキュッとさせる。「電車内で、スマホ見ながら1人でニヤける40代の中年太り親父」が生まれるのをどうにか我慢した形だ。女の子とはいえ食べ盛りのバスケ部!10代!な子を連れて焼肉。月3万5000円の小遣いで暮らしている身としては、中々厳しいが仕方ない。今日は好きなだけ食べさせてやろうと思う。仕方ない。と思いつつ、また緩みかけてた口元をキュッとさせることを意識する。しかし、便利な時代になったと思う。娘との会話はなくなっても今の時代、こうしてツイッターを見ればその本心も分かる。部活のこと、学校のこと、友達のこと、明奈の情報は、こっそりチェックしているこのツールからだいぶ入ってくる。

もしも一伸が「チェックしてるよ?」と伝えれば、何も書かなくなってしまうだろう。だから見ていることは黙っている。偽名のアカウントでのこっそりフォローだ。だが、「フォロワー」としては普段から気になっていることがひとつある。明奈のツイッターには「仕方ない」という言葉が多い。「そういったマイナス思考、あきらめ思考のは良くないぞ?」と注意したくなるが、それを伝えると見ていることがばれてしまうので、そこは仕方なくグッとこらえている。

―そのうち自分で気づいて減るだろう。それまではまぁ仕方がないか・・。

電車はもうすぐ塩見駅に到着する。

 

潮見に来ると電車は地上に顔を出す。ここまで来るといつも「自宅に帰って来たなぁ」と少し緊張がゆるむ。逆に朝は潮見で電車が地下に潜ると心が仕事モードになる。個人的に潮見は心の切り替え駅だ。そして今は、ホッとする方に切り替わった。ここを過ぎると首元の「赤いネクタイ」を緩ませることがいつから儀式になっている。

        ◇

それにしても自分の呼び名はいつ頃「パパ」から「お父さん」へと変わり、その後、「ねぇ・あのさあ」へとさらに変化したんだろう。そして今じゃツイッターの中では「カズブー」とポッチャリいじりの名前だ。もちろん呼び名なんてどうでもいい。そこに愛情や思いの籠った呼び名であればなんだって嬉しい。そう考えると親が子を呼ぶ際の名前の方が「愛情」がこもっている期間は長いと思う。

あきちゃん、

明奈ちゃん、

あーちゃん、

明奈、

アキ、

一伸自身はいつでも愛情のこもった名前で呼んできた。それに対して娘からは「ねぇ、あのさぁ」なんて呼ばれるようになった。「そこに愛はあるのかい!?」と問いたくはなる。まぁ仕方ない。親子の思いなんて、きっと片思い。どこまでいっても結局、親の方が子を愛してしまう。それが世の大抵だ。事実思い返してみると一伸自身もそうだったか。「母さん・父さん」と呼んでいたのが、いつからか「おい、あのさぁ」となった。親父に至っては目も合わさない時期だってあった。その時期を過ぎると「おやじ・おふくろ」と呼ぶようになり、明奈が生まれてからは「じぃじ、ばぁば」「じいちゃん、ばぁちゃん」へと変わっていった。その途中からは「親としての気持ち」を共有できるようになり、自然その距離も縮まった。結局、親子の距離感は「個々の成長やその時々の環境」によって変わる。そして今、父・一伸と娘・明奈の距離は5年前に比べると離れている。そういう時期だ。

電車はようやく新木場駅のホームに入った。葛西臨海公園駅まであと1駅!

 

一伸はもう一度脳内で「葛西臨海公園駅で降りてから、焼き肉店までかっ飛ばす自転車のルート」のおさらいを始めた。同時に、もう一度時刻をチェックしようとスマホに手をかけた。…と思いがけないニュースが目に入った。先ほどのバスジャックなんて比じゃないびっくりニュースだ。

 

それは・・明奈からのメールだった。

 

娘からのメールなんてめったに来ないから、その受信に気付きビクッとなった。少しの動悸を伴いつつ開いて見てみると件名に「イェイ」とある。文言は何もない。代わりに写メが添付されている。何か起きたのか?大丈夫か?1000%関係ないだろうに一瞬バスジャックが頭をよぎった。そして、その添付の写メを開いてみると・・・

明奈が映っていた。Vサインで満面の笑顔だ。網にびっしり焼かれている肉に顔を寄せながらの満面の笑顔だ。

 

―え?(続)

自慢を延々と書いてみる。

このブログでも何度か書いたが「泳いで」いる。

近所のプールで定期的に泳いでいる。

 

11月24日の自分自身の日記を読み返すと

「クロールの息継ぎが苦しい」

「25メートル泳ぐたびにバテバテだ」

「クロールのフォームが良くないんだと思う」と書いていた。

 

んが・・・12月も後半に入って来た今、この日の日記を読みかえし思う。

「あの日の僕は青かったなぁ」

            (※上から目線)

 

あのブログから1か月経った今、僕はこう書くことができる。

「クロールの息継ぎは別に苦しくないし?」

「50メートル泳いでも別にバテないし?」

「クロールのフォームはこれから何とかなる気がするし?」

 

とにかく…

「あの日の僕は青かったなぁ」

            (※上から目線)

 

当初は1時間半くらいをかけて

1000メートルから1500メートルを泳いでいた。

最近は1500メートル泳ぐのに1時間かからない。

 

我ながら進化できた証拠じゃないだろうか。

プールサイドから見てみたらきっと、

これまでは25メートル泳いではバテていた肉弾がそこにはあった。

だが今は、スイスイと泳ぎ続ける肉弾がそこにある。という形への進化だ!

 

そんな僕の通うプールには時々、恐ろしいスイマーが現れる。

何食わぬ顔して25メートルを10秒足らずで泳ぎ切るやぁつだ。

そういう「魚人」の方を除けば、

僕も今では地元のプールになじめている。はずだ。

 

ちなみに泳ぎが楽になって来たぶん、

なんとなく自分のクロールフォームが客観視できてきた。

・・気がしている。

僕のクロールフォームはおそらく、左右への揺れが大きい。

泳いでいて実感もあるし、その証拠に、タイムが伸びない。

25メートル、なんとか25秒を切れるかどうかだ。

 

「疲れないクロール」を目指して試行錯誤した結果、

今のそのフォームに行きついた。予期せぬ形だ。

おそらく・・・ハムが左右に揺れながら進んでいるような絵面だろう。

 

お歳暮の季節だからハム・・。いいじゃないか。

なわけがない!

お歳暮にもらうならハムよりもビールがいい!

 

 5年に渡る単身赴任を終えて、本社勤務に戻って半年―。一伸のタイムスケジュールは「残業が当たり前」の毎日が続いている。普段なら帰りの新橋駅ホームに上がる時は、どんなに早くても21時を過ぎている。たまに20時を前に終わる時があったとしても、そんな時は残業仲間と3,4杯は飲んで帰るからやっぱりホームの階段をとぼとぼ上がり、電車になだれ込む時間は結局変わらない。ベタベタな「昭和型サラリーマンだ」と我ながら思う。しかし今日の一伸は違った。なんと!新橋駅の時計はまだ「19時」すら回っていないのに、改札を抜けすでに階段を駆け上がりホームで山手線を待っているのだ!間違いなく「今年新記録!」な早い帰宅だ。当然だ!今日は1年で1番家に早く「帰りたい」理由がある!

 

今日9月15日は、1人娘・明奈の「14回目の誕生日」だ。1人娘の誕生日に自分自身が都内にいる5年ぶりの誕生日だ。

 

娘の誕生日を5年ぶりに「その当日」に娘と祝えるという事実に、自分自身が思っていたよりも内心そわそわしていることに驚いた。最後に明奈の誕生日を一緒に祝ったのは小学校低学年の誕生日か。以降、単身赴任になってからは毎年別々。東京へはプレゼントを送り、自分自身は東京の方向へビールグラスを掲げて1人で乾杯して終わり‥というのが誕生日の過ごし方だった。でも半年前から本社勤務に戻った今年は違う。自宅から通勤の毎日となり、娘の誕生日を共に当日祝える権利も5年ぶりに手に入れた!娘が「誕生日くらい焼肉を食べまくりたい」なんて言ってるのを、ママづてに知ったからには頑張らないわけにはいかない。情報を知った先月から常にどこかで「焼き肉」が気にかかり、気づけばグルメサイトを検索。我がマンションのある葛西臨海公園駅から行ける範囲の「美味い」焼肉屋さんをどれだけ探し続けたことか。そして今日の仕事を速く上がるために、小さな罪も犯した。会社に小さな嘘をついたのだ。実際のところは、本当のことを伝えても大丈夫なくらいの信頼とキャリアを持ち合わせているとは自分自身でも思う。だが、1970年生まれの1993年入社という完全昭和型サラリーマン思考の人間だ。そして、名古屋支社から本社に復帰して半年。「地方に行って戻って来てからはあの人、のんびりになったよね」なんて周囲に思われる懸念事項はすべて消したい立場としては、どうにも「今日は娘の誕生日で、それを祝ってあげなくちゃなので」とは言えなかった。その代わりに、より「仕方ない感」を出すため「妻・明子の検査入院からの迎え」なんて言ってしまった。

 

とにもかくにも、いつもより2時間は早い帰宅を実現させた。有楽町駅では、ドアが閉まる直前に飛び乗ってきた「茶髪にショートな女の子」にぶつかられるなんてトラブルもあったがそれ以外は順調だ。帰りの電車、山手線の車窓からの景色がいつもより2時間分明るいだけでも口元がニヤついてしまう。一方で、徐々にT―スクエアのF1レースのBGMが脳内再生されてきた。そう!今日の!今の俺はF1レース並みのタイムアタックで葛西臨海公園を目指さなければならないのだ!そんな熱い思いと同時に、5年ぶりに娘の誕生日を祝える幸せに、ある言葉が頭を走った。

 

「最高すぎる瞬間を、

最高過ぎるビールで乾杯!」

 

これは一伸も好きなビールのCMのキャッチコピーだ。まさに今、葛西臨海公園の焼肉店で待っている「娘との乾杯」こそがその「最高すぎる瞬間」と言えるはず!もはや気が焦るばかりだ。乗っている山手線を、並走する京浜東北線が涼しげに追い越して行くことすらもどかしい。

 

―京浜東北で東京駅行けばよかったか。。

 何秒か損したな。ホームに着いたら、

 さっきよりもっと速く走ろう。

 

とはいえ、その道のりを急ぐことは、40代後半・慢性運動不足の中年男性である一伸にとっては中々に大変だ。まずは東京駅、山手線ホームから京葉線ホームまでのルート。魔のダウンストレートとでも言おうか、とにかく京葉線ホームは地下深い。どんなに急いでも他のホームから徒歩で5分はかかる。酔った帰り道なんかはホームへ潜るエスカレーターを歩く気力などあるわけもなく、軽々と10分はかかる‥。

 

そして今、東京駅にようやくたどり着いた「山手線」を降りた一伸は、自らの苗字「赤松」にちなんだ自分的ラッキーカラー「赤一色のネクタイ」を左右に揺れまくるほどの速度で走っているが、それでも7分はかかると思っている。このペースで行くと「19時25分発」の電車にギリギリ乗れるか乗れないかの瀬戸際だ。となると「葛西臨海公園駅」に着くのは19時40分頃か。店の予約は19時45分。駅から自転車を飛ばして、家族に合流できるのは10分遅れの19時55分頃か‥といった見立てだが、とにかく1分でも2分でも縮めたい!すれ違う人、一伸と同じ方向へ歩いている人、その1人1人をF⁻1マシンがシケインを華麗にクリアするようによけながら進んでいく。どんなに急いでも「ぶつかってクラッシュ」なんてことが起きれば大きなタイムロスになる。そんな事態は避けるべく、可能な限りスピードを出していく。中年太った体を右へ左へと俊敏に半身にしつつ1人、また1人とパス。ただ途中、対向車‥ではなくて、一伸とは反対から歩いて来た男―何かをブツブツと唱えながら競馬新聞に見入っていた「同世代」と見受けられる人物―とは、すれ違い様それぞれの右肩が軽くぶつかった。

「まずい!」と一瞬思ったが、そのブツブツ男はこちらを一瞥しただけで行ってしまった。本来ならばその一瞥に対して「悪いのはそっちだろ!そっちが新聞見ながら歩いてるからだろ!」くらいのことを言い返したいところだったが、今日の一伸にはそんな余裕はない。「ブツブツ男、よく見ると顔のブツブツも多かったからダブルの意味でブツブツ男、運がよかったな。不幸中の幸いだぞ?」と「念」でメッセージを送りながらも京葉線ホームへと急いだ。

 

地下深いホームにかけ降りきると、そこにはまだ25分発の赤ライン列車が動き出さずに待っていた。「間にあった!」とホッとはしたが、すでに座席は埋まっていた。それはまぁ仕方がない。扉近くのつり革前にポジションを決めてスマホを取りだし妻・明子に「40分くらいに駅に着きます。着いたらまた連絡します。お肉のチョイスは任せるんで明奈と選んでいて下さい」とメールを済ませた。

 

―ようやく一息だ。

 

ここから葛西臨海公園までの所要時間の「15分」は電車内で、どう慌てても意味がない。そう思って今度はプロ野球の途中経過をチェックすることにした。というのも今日は東京ドームで、今シーズンのペナントの行方を大きく左右するようなゲームが行われているのだ。ジャイアンツもタイガースも今年残り試合10試合を切った中でゲーム差なし。3位以下を完全に引き離した状態での一騎打ちの天王山的3連戦が始まった。その第1戦に一伸と同じ高校出身の「植村」が先発している。一伸自身はバスケ部だったし、年齢でいうと10以上も違う。だからもちろん面識があるわけじゃない。共通の知り合いもいないはずだ。それでも同窓生というだけで親近感を覚える。よくもあんな山梨の電車は単線、道路も1車線、この東京都とは大違いな田舎の街から毎年15勝も上げるようなエースが出たもんだ。彼がジェッツに入団してからは、ずっとジェッツを贔屓に応援している。ただ、今年の植村はイマイチ安定感に欠けている。今年は勝利数こそ12勝を数えているが防御率が3点台と彼らしくない。例年なら悪くても2.5点台を超えることはなかった。だが、スマホで見た「途中経過」によると今日は頑張っているようだ。3回裏が終わったところで0―0だ。

 

―頑張れ植村!今日は「娘との焼肉」があるから、お前の頑張りをこの後はマメにチェックできないが、夜中にニュース番組でチェックしてやるから頑張れ!

 

我ながら「よく分からない上から目線」で上村投手に「念」を送り、スマホを閉じた。周りを見渡してみると電車は…まだ葛西臨海公園駅には着いていなかった。

どころか発車すらしていなかった。

 

「もどかしい。早く発車してくれよ。

  そして葛西臨海公園までの他の駅、全部通過してくれたらいいのに!」(続)

 

 

半年ぶりに「振られた相手・美佐代」と再会した勇太。

なんとか「会って」もらえたものの、

彼女が待ち合わせに指定した場所は「有楽町の高架下の居酒屋。

電車が通過する音も騒々しい。

 

それでも会話を盛り上げようとするが・・

彼女のリアクションはイマイチで視線をずっとスマホに落としたまま。

 

それでも勇太はなんとか気を引こうとあれこれ思案して、

とにかくいろんな会話を投げてみるのだった。

 

**************************************

 

「知ってた?ここ千代田区じゃん?千代田区って住みやすい街1位なんだって。

て言うのもね?千代田区って23区の中で人口が1番少ないんだってさ。

昼間は80万人が毎日ここに集まって来てんだけど、

住んでる人は5万人ちょっとなんだって。面白くない?

だから本当は法律上「市」になる資格もないらしいよ。

でも1万人あたりの病院の数とか交番の数とかは23区で一番多いから

結局、安全で暮らしやすいんだって。知ってた?面白くない?

ちなみに、千代田区になる前、千代田区ってどんな名前だったか知ってる?」

 

会話の流れでクイズのように問いかけてみた。

こうすれば、とりあえず「会話が続く」と思ったからだ。

勇太だって本当はここで「千代田区のうんちく」なんて話したいわけじゃない。

今は、まだ「話したいことを話す」よりも前の前の前の段階。

美佐代と会話の「キャッチボール」を成立させることが目的だ。

 

だが…美佐代から返って来た言葉はクイズへの的確な答えなんかより、

もっと的確な「意思を」持った言葉だった。

「あのさ…?アタシ終電速いし。もう本題話さない?ね?」

「終電・・?」

「7時50分」

「早いね。でも新幹線っていつも9時過ぎまで走ってない?俺、よく見るよ?」

「それ大阪とか名古屋までのやつ。広島まで行く最終は7時50分」

「・・そか。それでもまだ1時間以上あるよ?」

「話が早く終わったら乗変したいの。明日も仕事あるし。だから本題話そう?ね?」

「分かった。ごめん」

結局、勇太自身では見つけられなかった本題を切り出すタイミングを美佐代の方から切り出され、本題の会話が始まった。ジョッキに残っていたビールを一口流しこんでズバリ言う。

 

「あのさ・・俺達やり直せない?」

「無理かな」

 

―本題は終わった。

 

この時ばかりは視線をスマホからしっかり外し、

100%勇太を見据えて答えてくれたのが余計にむなしかった。

 

2人の会話が「さっきまでよりも重い空気」の中で止まった。

・・と、その間に隣のおじさんの大声が割りこんできた。

「ほー!バスジャックやて!」

あまり日常ではないその言葉に勇太が視線を向けると、おじさんがメガネをずらして目を細め、スマホをスクロールしながら情報を追っていた。

「ほー!新宿て!ほー!すぐそこやんか!」

「バスジャックだって。大丈夫かな」

一応美佐代に話を振ってみたが、やっぱり彼女は乗ってこなかった。

「警察が何とかするよ。そんなことより本題はもういいの?

 いいならアタシ、帰るよ?」

 

美佐代から少し強く言われてしまったので、勇太は流れで「ごめん・・」と呟いた。それからジョッキをきゅっと握りしめて続ける。

「理由・・聞いてもいい?別れる理由・・」

「別れ「た」理由ね」

「うん・・なんでいきなり別れることになったのか理解でなくて・・。

俺、嫌われるようなことした?」

 

最初の饒舌が勢いを失い、言葉が停滞気味になってしまった勇太とは対照的に、

今度は美佐代が饒舌になってくる。

 

「勇太のためでもあるんだって。あのね?ずっと前から思ってたんだけど勇太って頭いいじゃん?さっきも千代田区の話とかもさ、超面白そうに話してたでしょう?あー本当に知識とかそういうのが好きなんだなって思った。でもさ、アタシ、本当は別に面白くないんだよね。ああいうの。それよりもただの馬鹿話とかが楽で楽しい。そう考えたら多分『面白い』の価値観が違うんだよね。どっちが悪いとかって話じゃないよ?価値観が違うだけ。それってさ、長い将来を考えたらあんまりいいことじゃないかもでしょ?ね?あ、でもそれ突然思ったんじゃなくてなんか、だんだんと。だから、どこかで別れた方がいいって判断した。そしたら広島転勤の話をもらったけぇ、いいタイミングかもしれんわーって思うたんよ。多分、勇太にはアタシなんかよりもっと頭のいい人が合うと思う。私じゃ多分、足りんのんよ。ね?だから別れようって思ったんよ。」

 

練習してきたのかなと思うくらいに美佐代の言葉は流暢だった。途中から少し交じってきた広島弁が、どこか、少し遠い美佐代になってしまった風にさえ感じさせる。好きだった美佐代の「ね?」とこちらへ相槌を求めてくるその口ぐせも逆に痛かった。美佐代への愛しさと切なさと、心寂しさで一杯になりながら、それでもなんとかも耐えながら勇太はなんとか切り返す。涙も出そうになったけど、涙は見せないで見つめながら切り返す。

「そういう教科書風な理由はいいよ」

「ん?」

「そういうありきたりな理屈で固めた感じの理由は聞きたくないってこと。」

「んー、そういう意味でもないんだけどな・・」

「あのさ・・1個だけ聞いていい?やり直せる・・俺に逆転の望みは?」

「んー。」

また言葉少なになった美佐代は、静かにスマホをいじり始めた。そして小ジョッキに残っていたジョッキ半分ほどのビールのほとんどをまとめて飲んで席から立ちあがった。

「アタシ、そろそろ行くね」

「まだ終電まで時間あるよ?」

「今出たら2本前のやつに乗れるから。明日も早いし」

「そか・・」

 

勇太の次の言葉を待たずに美佐代はバッグを肩にかけた。

それでも勇太は、少しでも会話を続けようと何でもない話題を切り出す。

 

「美佐代…最近、何が好きなの?」

「んー。『あの時伝えられなかった思い 僕らは今も互いに育て・・』かな」

「それ何?」

「アニメ。アニメのタイトル」

「アニメかぁ・・アニメねぇ・・」

「アニメとか見ても無意味って思ったでしょう?」

「そんなことないよ・・どんな話?」

「いいよ。無理して聞いてくれなくて」

「無理してないけど・・・」

「勇太ってさ、自分が興味ない話とか嫌な話されると一瞬眉間に

シワがキュッと出るんだよね」

「そう・・?」

「そう。で、今も出てたの。アタシ、勇太の眉間のシワ見るの

 あんまり好きじゃなくて。見ると辛くなるんだ。」

「・・・ごめん」

「謝ることじゃないよ。アタシ達の「面白い」の価値観が違うだけだから。ね?」

「・・・。」

「仕方ないよ。本当にどっちが悪いわけでもないって。

じゃあまた、なんか機会があればまた。ね?

勇太もこれから頑張って。とりあえず乾杯。トリカン!」

 

美佐代は勇太のリアクションを待ちもせず、一方的にジョッキをコツンと合わせた。

その後、グラスに残っていたビールを即座に飲み干す。そしてテーブルに千円札を2枚置くと席を立ち、後ろを1度も振り向くことなくそのまま出口へ進み、すぐに見えなくなってしまった。急速に消えていった背中の方向を見ながら、勇太は残っているビールをゆっくり口に運んだ。

 

―「とりあえず乾杯」よりもさ、言ってほしいのはその後のセリフなんだけどな。

 

「とりあえず乾杯。トリカン!今日はとことん飲んじゃおう。朝まで飲んじゃおう」

 

ふたりの「いつもの」だった合言葉を独り言でつぶやきながら、スマホの画面をチェックした。時計はまだ19時前。勇太の終電まではまだ5時間以上ある。だが、寂しい気持ちをパッと紛らわせるために銀座に行くほどの金なんて普通のサラリーマンにあるわけがない。

 

「さっさとここ出て府中で飲みなおすか」

 

小さくつぶやくと残りのビールを飲みほし大きな声で店員に呼びかけた。

 

「すみません!お勘定」

 

手を挙げて答えた店員が、金額の書かれたメモをテーブルへ持って来る。2200円。美佐代は2千円置いていったから払い過ぎだ。さっそく美佐代にラインを打つ。

 

「会計、2人で2000円だったから今度1000円返すね」

ほどなくレスが戻ってきた。

「いいよ。気にしないで」

 

もう、それに返すメッセージなんて思いつかなかった。

でも、何か…せめてラインだけでもキャッチボールしたくて思案する。

そして、なんとかひとつのアイデアを絞り出しスマホに指を走らせる。

 

「ちなみに・・・千代田区。昔は麹町区と神田区で・・」

 

そこまで打ってはみたが、やっぱり送るのを辞めて消去した。

美佐代の「面白い価値観が違う」という言葉が頭をよぎったのだ。

代わりに、少しだけため息と昔懐かしい歌が口からこぼれ出た。

 

「♪やっぱ好っきゃねん」

 

なんで大阪弁なんだ?自分に内心で突っ込んだ。

勇太は東京生まれ東京育ちだし、美佐代も広島出身で大阪は全然関係ないし・・・

それなのに…

「何で大阪?」

自分自身でも理由が分からない独り言が出たことに若干びっくりしながら

勇太は席を立った。後ろでは黒縁の大きなメガネを大きな鼻で受け止めている顔のデカイおじさんが相変わらず、目を細めて画面を見つつ「ほー!」とデカイボリュームの独り言をこぼしつつスマホをいじっている。高架下には電車の通過音がゴーガタガタと響いている。これから帰宅時間のピーク、電車も増える時間帯だ。

 

 勇太は会計を済ませて店を出て、線路沿いの道を駅へと歩く。頭上の線路には、有楽町駅のホームへ入っていく電車が休みなく走っている。・・・とその中の1本。黄緑色の山手線に今、ショートカットの茶髪女性が1人飛び乗った。駆け込んだ勢いで、先に乗っていた赤いネクタイの中年サラリーマンに軽くぶつかる。「すみません」と会釈しつつも、すぐに視線を手元のスマホに戻し、慌ただしく画面をいじってる。

 

「ごめん、今、やっと乗った!思ったよりもお得意さんとの話が伸びちゃった。

  東京駅から特別快速に乗れると思うから、そんなに遅くなんないと思う。

着いたら北口でいい?」

 

彼女は素早く指を走らせ文字を並べ、送信を押す。

文章の最後にはハートのスタンプが添えられていた。(※続く)

(その1)

半年前まで付き合っていた美佐代との久々の「お酒」は千代田区・有楽町。

ガード下の居酒屋。

なんとか「復縁したい」と話を盛り上げようと様々な会話を切り出す勇太だが・・・

美佐代はほぼほぼノーリアクション。

それでもめげずに勇太は、次の会話のボールを投げるー。

 

**************************************

 

勇太はまたこちらから会話を切り出す。

 

「美佐代さぁ、こういうガード下の店…こっち住んでた時よく来てたの?」

「別に来てないよ。一緒に来たこともないじゃん?」

「うん。来たことなかったから…俺知らないとこで来てたのかなって」

「そんなわけないし。隠し事するタイプじゃないの知ってるでしょ?ね?」

「そか。だったら、ちゃんと話したいこともあるし…

もう少し静かな場所でもよかった気もするんだけど」

「どこも混んでたじゃん。ね?」

「確かにこの辺は混んでたけどさ・・。でもさ駅から少し離れたら、、、

銀座方面とかさ、けっこういい店もあると思うよ?」

「新幹線までそんなに時間ないし。あんまり駅から遠いのは無理。ね?」

「そか・・」

「そうだよ」

「…でも、ラインでやり取りするよりさ、やっぱ直接会うといいね。

今日は時間、会わせてくれてありがとう」

「新幹線までの時間が空いてただけだし。気にしなくていいよ」

「そか・・」

 

そこでまた会話が止まった。ここまで美佐代の方から話が切り出されたことはない。勇太はビールを口に運んで空気をつなぐ。隣のメガネの「いろいろデカイ」おじさんの気楽さが羨ましい。おじさんは相変わらずでかい声で「そこで代打ちゃうやろ」と阪神の監督の采配にダメを出している。

彼女から「転勤で実家のある広島勤務が決まった」と伝えられたのは半年前だ。その時勇太は「遠距離恋愛になるのか・・」と不安に思ったが、その不安はより悲しい方向で杞憂に終わった。突然美佐代から「転勤を機会に別れよう」と一方的に別れを告げられたのだ。勇太からすれば十分に理由を聞かされることなく、話し合いの場を持ってもらえることもなく、一方的に3年の恋愛に幕を下ろされた形だ。

 

もちろん別れに納得はできなかった。元々は勇太からアプローチして始まった交際だ。出会ったのは友人を介しての「合コン」というありきたりのパターンだったが、付き合いだしてからは順風満帆にやってこれたと思っていた。ほぼ毎週末を2人で過ごしていたし、お互い今年で30になるのを機に、結婚を見据えて同棲も提案してみようかとそのタイミングすら伺っていたほどだ。勇太の話で笑ってくれる美佐代の笑顔が好きだった。驚いてくれる美佐代の反応が嬉しかった。そして、セックスも良かった。勇太自身そんなに多くの経験人数があるわけではないが、彼女とのセックスは格別に身体の相性が良かった。彼女の中に初めて「入った」時に「溶けるってこういうことか・・」と感じたのをはっきりと覚えている。美佐代は全部が柔らかかった。キスやその前のしぐさ、彼女自身の香りも柔らかく、勇太は「溶けなかった週末」はなかった。勇太を触りながら、優しく笑みを浮かべたかと思うと、勇太が入ってくる眉間にキュッとしわを寄せて声が出るのをこらえる。その眉間に小さく縦に入る2本のしわを見るのがどんどん好きになった。今、ちょっと思いだして、ズボンの中が窮屈になっている。つまりはそんなセックス・パートナーを手放すのも惜しい…という本音もどこかにある。が、そんなヨコシマな思いは今は言えない。言えるわけがない!!とにかく「復縁」が最大目標なのだ。今日のところは「もう一度交際をやり直す!」を実現するために誠意と熱意をもって伝えていくつもりだ。

 

美佐代から「鍵返すね。だから勇太もアタシん家の鍵返して。ね?」といわれて勇太の暮らす街、「京王線・府中駅」の改札で待ち合わせすることになってしまった日は辛かった。美佐代は、当時彼女が住んでいた明大前から府中駅へと「下り電車」でやってきて、改札を出ることもなく柵越しに鍵を受け取りそのまま反対車線「上り電車」のホームへと姿を消した。恋のラストシーンって、ドラマなんかと違ってすげーあっさりだ・・と思ったあの日から、ことあるごとに美佐代に「話を聞かせて欲しい」とLINEでメッセージを送った。彼女からの返信はいつも言葉少なだったけれど、メッセージを返してくれるだけ「復活の芽」はある気がして、根気よく気持ちを伝え続けた。そして彼女の東京への出張というタイミングの今日、ようやく再会が実現した形だ。でもいざ会ってみると、ことごとく会話が止まる。これほどまでに会話が弾まないとは思っていなかった。弾まなければ弾まないほど「本題」を切りだすタイミングが遠ざかって行く気がしてくる。その焦りがつい、勇太の口からきつい言葉をこぼす。

 

「あのさ…久々に会ってくれて嬉しいんだけどさ、

ずっとスマホ見られてるとさすがに切ないかも・・・」

「あ、ごめんね。新幹線の空席チェックしてた。

終電になると広島まで行く奴とかってけっこう混むんだよね…。

少しでも空いてる方が気楽じゃ(・・)()。あ、方言出たごめん。」

「いや、そんなのは全然謝ることじゃないし。てか、広島暮らしどうなの?」

 

―また本題とは違う話題を振ってしまう。

 

「別に平気だよ?」

 

―そして広がらない返事をもらってしまう。そして…美佐代の視線はまたもや、大体スマホだ。勇太はなんとか興味を引こうと、少しでも面白い話をと、結局本題とはまるで関係のない話を始めてしまう。

 

「これ、何だか分かる?」

 

自分のスマホを素早くいじって待ち受け画面を見せる。

美佐代が「額の中心にタマネギマークがついているヒーローらしきキャラクター」がYMCAの「C」ポーズを決めている、その画面に視線を向けた。

「何それ?」

興味を持ってくれ・・・た?勇太は少し早口になって続けた。

「会社の先輩がやってるプロジェクトのキャラクター。

オリンピックに向けて東京23区を盛り上げようっつって、

23区をイメージした戦隊?ゆるキャラ?とにかくそういうの考えてて。

「東京戦隊ツースリー」って名前なんだけどさ、

こいつは千代田区のキャラクターでチヨダリオンって言うの。

23人のうち,わりと司令塔的な立ち位置なんだって。

ちなみにこの額のマークは武道館ね?だからタマネギ、みたいな」

「・・・」

美佐代のリアクションは薄いが勇太は続けた。

もうこれ以上会話のボールを落としたくなかった。

会話がキャッチボールにならないなら、リフティングの覚悟だ。

「知ってた?ここ千代田区じゃん?千代田区って住みやすい街1位なんだって。

て言うのもね?千代田区って23区の中で人口が1番少ないんだってさ。

昼間は80万人が毎日ここに集まって来てんだけど、

住んでる人は5万人ちょっとなんだって。面白くない?

だから本当は法律上「市」になる資格もないらしいよ。

でも1万人あたりの病院の数とか交番の数とかは23区で一番多いから

結局、安全で暮らしやすいんだって。知ってた?面白くない?

ちなみに、千代田区になる前、千代田区ってどんな名前だったか知ってる?」

(つづく)