1.エリザベス女王と絶対王政


1559年イギリスに若く美しい王、エリザベス女王が誕生した。しかし女王の人生は血生臭い争いの連続だった。父は母を処刑し、弟は叔父を処刑した。そしてエリザベスは姉メアリに幽閉されていた。


姉のメアリはエリザベスの前の女王で、女や子供まで処刑するため“ブラッディ・メアリ”(血まみれのメアリ)と呼ばれていた。エリザベスが王につくと「私がイギリスを安定させるわ」と心に誓うのだった。


当時のイギリスはスペインやフランスにおされる弱小国。国内はカトリック、プロテスタント、イギリス国協会の対立が続き混乱していた。まずエリザベスは宗教をイギリス国協会に統一した。


エリザベスには各国から結婚の申し入れがあったが、姉メアリが強国スペインのフェリペ2世と結婚してスペインの言いなりになっていたため、エリザベスは結婚はせず、結婚をちらつかせながら各国との有利な条件を引き出した

 

1568年、ネーデルランド(現在のオランダ・ベルギー)がスペインからの独立宣言をする。

ネーデルランドはイギリスにとって重要な羊毛の輸出国だったため、イギリスはスペインと対立することになる。エリザベスはイギリスの海賊を上手く利用して、当時無敵艦隊と呼ばれていたスペイン艦隊を弱小化させていった。ついにイギリスはスペインの無敵艦隊を破りエリザベス女王の絶対王政が始まる。



2.イギリス革命と名誉革命


エリザベス女王は未婚のままこの世を去った。1603年スコットランド王ジェームズ1世がイングランド王に即位する。ジェームズ1世と次の王のチャールズ1世は議会や国民を無視して傍若無人な態度を取り続け、ピューリタンを迫害した。


チャールズ1世は、ピューリタンの多いスコットランドにもイギリス国協会の制度を強制したため、スコットランド人はイングランドに攻めて来た。この事態にチャールズ1世は戦費調達のための課税をしようとしたが、それには議会の承認を取らなければならなかった。


1642年、王党派と議会派が衝突してピューリタン革命が始まった。しかし議会派の軍は農民や商人のため国王軍に圧倒された。そこへあらわれたトマス・クロムウェルはピューリタンによる軍をつくり国王軍を圧倒した。


1649年、議会側が勝利してチャールズ1世は処刑された。王政は廃止となり、国民の代表である議会が統治する共和制が樹立した。


クロムウェルは事実上の独裁者となるが、酒も演劇も禁止したため国民の不満が溜まっていった。王党派は国民の不満を利用して軍事独裁政権を終らし王政復古をする。


フランスに亡命していたチャールズ1世の子、チャールズ2世が王として呼びもどされ「父のように処刑されないぞ」と誓うのだった。フランスではルイ14世が絶対君主として君臨していたのに、なぜイギリス王は議会を気にしなければいけないのか気に入らなかった。


しかし議会はチャールズ2世を追放する。これを名誉革命という。このイギリス革命はヨーロッパ初の市民革命として評価された。独裁者とされたクロムウェルは英雄として名誉を回復してウエストミンスター宮殿前に銅像となる。



3.フランス革命とマリー・アントワネット


フランスの絶対王政は太陽王と呼ばれたルイ14世の時代に全盛期を迎えた。


1770年、ルイ15世の孫にオーストリアからハプスブルク家のマリーが同盟関係強化のため結婚したが、けっして幸福な結婚ではなかった。


1774年、ルイ16世として即位するとマリーはフランス王妃になった。このころアメリカで独立戦争が起こり、イギリスと対立していたフランスはアメリカに多額の支援をする。フランス国民は食べるものにも困っていた。そしてそのころにはマリーは赤字夫人と呼ばれるようになっていた。


赤字王室のために無税だった聖職者や貴族からも税金を取ろうとしたため議会が開かれることになる。

第一身分の聖職者 0.5% → 1票

第二身分の貴族  1.5% → 1票

第三身分の平民  98% → 1票

この三部会では平民が不利になるため、球技場に集まった平民だけの国民議会をつくると宣言する。これを球技場(テニスコート)の誓いと言う。


ルイ16世は国民議会を弾圧しようとしたことで、パリ市民は怒りフランス革命が始まる


1789年にはヴェルサイユ宮殿に女性が集まり「パンをよこせ」とつめかけた。ルイ16世とマリーはオーストリアへの亡命をするが見つかってしまい信頼を失うこととなってしまう。


「国王こそ我らの敵だ」と国民から王権廃止と共和制樹立が宣言される。


その中心に立ったのがロベスピエールだった。ルイ16世、マリ=アントワネットは処刑されたが、ロベスピエールによる恐怖政治がはじまる。



4.ナポレオンの活躍とヨーロッパ


1794年、ロベスピエールはクーデターにより処刑された。このころ王を処刑して国民がトップになったフランスに対して、周辺の王国が同盟を組み攻撃してきた。そこへ現れたのがナポレオンだった。


ナポレオンは自由と平等の革命軍として各地で歓迎された。おかげで各地で武器や食料を調達できたため、多くの物資を運ぶ必要がなかったため異例のスピードで移動攻撃ができた。


ナポレオン遠征には多くの学者もつれていった。その最大の成果がロゼッタ=ストーンの発見で、古代エジプト文字の解読につながった。


フランスに戻り事実上フランスの指導者となった。1802年イギリスとの和平を実現し、1804年にはナポレオン法典をまとめた。その内容は、私有財産の不可侵、契約の自由、家族の尊重、法の前の平等など。今でも日本その他の国の手本となっている。


1804年、ナポレオンは皇帝になった。それを聞いたベートーヴェンは「皇帝だと⁈自由と平等の英雄じゃなかったのか、何のために王政を倒したのだ!」と激怒して、ナポレオンのために作曲した交響曲「ボナパルト」の題名を「英雄」に変えた。


その後スペイン、イタリア、オランダなどを支配するナポレオン帝国をつくっていく。しかしロシア遠征で完敗して1814年皇帝の座を奪われ流罪となる。



5.イギリスの産業革命


フランス革命以前にイギリスで起こった革命も世界に大きな影響を与えた。

産業革命とは機械や動力の導入によって、工場での大量生産が始まったことを言う。


きっかけはマンチェスターの木綿工場だった。綿製品の需要が高まり大量生産の技術改良が始まった。


ワットによる蒸気機関が生まれ、動力革命を起こした。イギリスは工場経営者=産業資本家が力を持って本格的な資本主義社会へ移行する。



⚫︎なぜフランス革命のほうが有名なの?


イギリス王は適当に貴族に政治を任せておくうちに議会が強くなって、王は居るけど政治は貴族たちがするようになったんだ。


むかしは王権神授説っていうやつがあって、王様は神様の子孫だと思われていたんだ。だけど100年くらいたったフランスでは、「人は平等」っていう啓蒙思想があらわれて、平民が王様を殺して政治の中心になったんだ。


イギリス革命は、貴族が主導しましたが革命は比較的穏やかでした。王政は残り、立憲君主制政が始まりました。


フランス革命は、平民が聖職者と貴族に武器で立ち向かい、身分制度が廃止され、国王は処刑され、王政が廃止され共和制が導入されました。