8月3日の1時から、京都国際会館で比叡山宗教サミット25周年「世界宗教者平和の祈りの集い」が開催された。このサミットの事務局スタッフのひとりが私の知人で、彼女から案内が送られてきた。先着100名は一般人の参加が可能だということで、以下のサイトに掲載されているように往復はがきを送って申し込んだら、参加チケットが送られてきた。
比叡山宗教サミット25周年「世界宗教者平和の祈りの集い」プログラム
http://www.tendai.or.jp/summit/timetable/index.html
私の友人の一人も上記の知人から案内を受け取り(その知人を友人に紹介したのは私だが)、参加資格を得た。私が参加チケットを受け取ったことをfacebookに書き込んだら、私の元生徒さんがそれを見て申し込んだ。彼女にはサミットの2日前にチケットが届いたそうである。
宗教サミットの模様は、読売新聞や京都新聞にも掲載されたようである。
読売新聞「自然との共生(ともいき)道標探る」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shiga/news/20120803-OYT8T01490.htm
京都新聞「災害時の宗教、役割問う「世界平和祈りの集い」京で開幕」
http://kyoto-np.co.jp/top/article/20120803000125
海外から招聘された方々は、世界仏教徒連盟事務総長(タイ)、ローマ法王庁諸宗教対話評議会名誉会長(この方は開会式典でローマ法王のメッセージを代読)、サウジアラビア宗教大臣顧問(この方はサウジアラビア宗教大臣のメッセージをアラビア語で代読)などの方々で、来賓はこの方々のように仏教、キリスト教、イスラム教の信者、日本からは仏教、神道だけでなく、立正佼成会や大本教の代表者なども含まれていた。
記念講演は梅原猛氏の「『草木国土悉皆成仏』という思想」だが、友人が後で指摘したとおり、プログラムに挟まれていた原稿と同じ内容だった。
そのあとはシンポジウムで、日本からは神社の宮司、ほかのパネリストはキリスト教(聖エディジオ共同体事務局長なのでカトリック)、仏教(タイ、中国)、イスラム教(トルコ)の方々だったが、テーマは「被災者に宗教者は如何に向き合ってきたか」だった。この方々の主張は宗教の違いを超えて似通っていて、「宗教者の役割は希望を与えること」、「人は空腹を満たすだけではなく、希望がなければ生きられない」ということだった。これを聞いて思い出したのは、旧約聖書の次の聖句だった。
「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」(申命記8:3)(この聖句は、新約聖書の「マタイの福音書」4章4節でイエス・キリストが引用されている。)
「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)
このシンポジウムのあと、思いがけないことに、プログラムにはなかったシリア正教アレッポ大主教による、シリアの現状の説明と、支援と祈りを求める呼びかけのスピーチがあった。このことは上記の京都新聞の記事に少しだけ書かれている。このスピーチのあと、出席者たちは皆、シリアの人たちのために黙祷をした。
実は今日、8月4日の15時から17時までは、比叡山で平和の祈り式典が行われたのだが、私は午前中の仕事が終わったあとに延暦寺に向けて出発してもこの式典に間に合う時刻に到着できるかわからなかったので出席しなかった。私の元生徒さんはこの式典に出席されたはずなので、後で彼女に式典の様子を聞いてみたいと思う。